安達氏 - Wikipedia では、鎌倉幕府滅亡(1333年)に殉じた安達時顕・高景ら滅亡後の同氏について、「暦応3(1340)年に熱田神宮社領尾張国小舟津里を「城九郎直盛」が押領している記録があり、城九郎直盛は足利尊氏・直義の天龍寺供養に同席している。通称から見て安達氏の生き残りと見られる。」と紹介されている。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
詳しくはこちら▲の記事をご参照いただければと思うが、天龍寺供養への同席については、『大日本史料』を通じて「丹後権守藤原直盛」と思しき「城丹後権守」 (ともに『園太暦』)の随伴が確認できる。軍記物語の『太平記』でさえも「城丹後守〔ママ〕」が登場しており、安達直盛(ただもり)の実在はこれらだけでも十分に認められ、筆者は足利直義の烏帽子子・偏諱拝領者ではないかと推定した。
ところが、「城九郎直盛」による尾張国小舟津里の押領については、出典や根拠となる史料について明記されていなかった(※2025年12月の本稿執筆時点)ので、何とかこれについて確かめたいと思い、市内の大きな図書館まで出向いて、とりあえず『愛知県史』で調べてみることにした。
最初『通史編』の方で特に記述が見られなかったので心配ではあったが、さすが『資料編』の方で確認することができたので、以下本稿にて紹介したいと思う。
『愛知県史 資料編8 中世1』*1によると、「城九郎直盛」や「直盛」と書かれた書状が6点もあり、光厳天皇の院宣も加えた計7通の古文書が「一連の文書であったと推定される」ということで、『尾張国愛智郡小船津里文書』(『粟田家文書』)として纏められている。いずれも近世(江戸時代)に入ってからの写しであるというが、成立年代や人物比定等に矛盾がないかどうかについては本稿にて検証する。
一連の内容としては、直盛の尾張国小舟津里における
以下、その7通である。
恐らく冒頭には、他の書状に同じく直盛による小舟津里押領についての記述があったのではないかと思われるが、虫食いであろうか、欠けている様子である。
四条(油小路)隆蔭は、延元2/建武4(1337)年1月7日より権中納言であった*2。同じく暦応元年には8月15日付で「権中納言隆蔭」から「中務権大輔殿」に対して進上された「光厳上皇院宣案」(「加賀前田家所蔵文書」)が残されているが、この「中務権大輔殿」について『南北朝遺文』*3では「今出川家雑掌」(実名不明)とする。
年齢的な矛盾はないだろう。
(二)洞院公賢御教書写
御施行
熱田社神宮寺薬師講法花経〔=法華経、以下同じ〕
(暦応元力)
十月廿四日 沙弥宣隆
(二)や次掲(四)の「前右大臣」、そして(三)の「西園寺前右大臣」は洞院公賢に比定して問題なかろう。「西園寺」とは洞院家が藤原北家閑院流・西園寺家の庶流であったが故の呼称と考えられ、むしろ西園寺公賢とも呼ばれていたことが窺える。
以降4点は発給年が明記されている。
御教書
熱田社前権座主軸律師長継申、社領神宮寺薬師講田□□〔同法〕花経料田愛智郡東条小船津里事
院宣・前右大臣家御消息 副譲状具書、如此、早相野左衛門蔵人相共、止[ ]〔城九郎 か〕直盛之濫妨、沙汰居長継於下地、可被全所務状、依仰執達□□〔如件〕、
暦応元年十一月廿四日
(五)荒尾宗顕打渡状写
使渡状
熱田社前権座主輔律師長継申、当社神宮寺薬師講法花経料田愛智郡東条小船津里事、任去□〔月〕[ ]相野左衛門蔵人相共、止城九郎真〔直〕盛濫妨、所□□〔付沙〕汰長継渡下地之状如此、
重御教書
熱田輔律師長継申、神宮寺薬師講田同法花経料田愛智郡東条小船津里事、重申状如此、就被下院宣□□度被施行之処、城九郎直盛寄事於牛立築籠、致濫妨□太無謂、厳密可□〔打〕渡之、若又有子細者可被注申、依仰執達□□〔如件〕、
暦応三年三月廿四日
施行
熱田輔律師長継申当社神宮寺薬師講田同法花経料田愛智郡東条小船津里事、引付奉書 副訴状具書、如此、城九郎直盛寄事於牛立築籠致濫妨云々、致尋沙汰無相達者、可打渡之、有子細者可注申之状如件、
高八郎(=高師貞)殿
最後は高氏について述べておきたい。
南北朝遺文フルテキストデータベースで調べてみても、『愛知県史』での記載通り、(二)の「武蔵守」は高師直、(六)・(七)の「越後守」は高師泰の兄弟に比定されよう。
師直は、建武2(1335)年6月3日付の副状(埼玉県立文書館所蔵『安保文書』)*4で「武蔵守師直」、翌3(1336)年7月付「御神本兼継軍忠状写」(国史考所収)*5に「御奉行所 高武蔵守師直」、11月29日付「高師直施行状写」(宝翰類聚坤)*6に「武蔵守師直」とあるのが武蔵守の初見とみられ、恐らく主君・足利尊氏からのバトンタッチではないかと思われる。(二)と同年の暦応元(1338)年には、9月16日に「武蔵守」の署名と師直の花押を据えた「高師直奉書」が発給されており、12月27日付「足利尊氏下文案」(『薩摩樺山文書』)*7の署名部分にも「高武蔵守」の記載が見られ、当時の武蔵守も師直であったことが明らかである。
一方師泰は、建武3(1336)年6月付「朝山景連軍忠状写」(『出雲朝山系図勘記』)の冒頭に「越後守高階師泰」(※高氏は高階姓)*8、翌4(1337)年3月日付の「市河経助軍忠状」や「市河助房(経助の兄)代小見経胤軍忠状」(いずれも本間美術館所蔵『市河文書』)に「高越後守」*9とあるのが越後守の初見とみられ、(六)・(七)と同時期となる暦応3(1340)年3月22日にも「越後守師泰」の署名と花押を据えた書状(明治百年大古書展出品目録)を出している*10。
このように、師直・師泰兄弟は建武年間に武蔵守・越後守に任じられ、観応2(1351)年に出家の上、2月26日に摂津武庫川において上杉能憲(又は養兄弟の上杉重季とも)に誅殺される*11まで在任であったようであるから、この観点からも『小船津里文書』の年代的な矛盾はない。
そして、(七)の宛名「高八郎殿」については実名が「師貞(もろさだ)」に比定し得るる。正平7(1352)年2月18日付「円覚寺新文書目録」*12に「高八郎師貞請文一通」、貞治2(1363)年4月付「相模国円覚寺文書目録」*13や応安3(1370)年2月27日付「円覚寺文書目録」*14にも「高越後守請文……同八郎師貞請文」(いずれも『相模円覚寺文書』)とあるのが確認できる。但し、『尊卑分脈』の高氏系図*15上でその名は見られず、系図上での位置づけは不明である。
脚注
*1:『愛知県史 資料編8 中世1』(愛知県史編さん委員会 編、愛知県、2001年)P.639~641 一〇八九号。
*2:四条隆蔭(しじょうたかかげ)とは? 意味や使い方 - コトバンク、国史大系 第10巻 公卿補任中編 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。
*11:『大日本史料』6-14 P.815~の各史料を参照。