Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

安達高景

安達 高景(あだち たかかげ、1302年頃?~1333年5月22日)は、鎌倉時代後期から末期にかけての武将、御家人

 

  

はじめに:主な活動歴

新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その90-安達高景 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)により経歴を掲げると次の通りである。

 

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№90 安達高景(父:安達時顕、母:未詳)
  生年未詳
  讃岐権守(分脈。纂要「安達」)
  秋田城介(分脈。纂要「安達」)
01:嘉暦1(1326).03.  在評定衆
02:元弘1(1331).01.23 五番引付頭人
03:元弘1(1331).09.  東使
04:元弘3(1333).05.22 没
 [典拠]
父:分脈。
01:金文374にみえる嘉暦元年3月16日の評定参加メンバー西座に「前讃岐権守」とあり、高景の官途に一致。父時顕がこの年3月に出家したと推定されるので、高景はその後継としてまもなく秋田城介に任官したものと思われ、これは高景と考えられる。
02:鎌記・元弘元年条。
03:『光明寺残篇』元弘元年9月18日条。『花園天皇宸記』元弘元年10月14日条別記・20日条・21日条。鎌記裏書・元徳3年条。武記裏書・元弘元年条。
04:纂要「安達」。太平記・巻10「高時井一門以下於東勝寺自害事」の東勝寺自害者中にある「城介高量」は高景の誤記か。ただし、建武元(1334)年に北条氏一門名越時如とともに「高景」なる人物が津軽糠部郡持寄城に挙兵しており、これが『関城繹史』(『常陸史料』)の説くごとく安達高景であったとすれば、彼は鎌倉を落ち延び津軽に下ったことになる(『元弘日記裏書』<東大謄写>建武元年11月条。奥富敬之氏「鎌倉北条氏の族的性格」<森克己博士古希記念会編『史学論集対外関係と政治文化』2「政治文化 古代・中世編」、吉川弘文館、1974年>199~203頁参照)。

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高景の讃岐権守任官と世代の推定 

細川氏が前掲ブログ記事や著書*1にて言及されている通り、『常楽記』正中2(1325)年条には

 二月十二日 城讃岐権守妻他界 長崎入道息女

とある。「長崎入道」は長崎円喜に比定して良かろう*2。史料上で「城」を苗字として記載するのは秋田城介家の安達氏であり、『尊卑分脈』を見る限り、該当し得る人物は高景のみである*3。すなわちこの段階で高景は讃岐権守従五位下相当・国守の権官に任官済みであったことが分かる。同時に、円喜の娘を妻を迎えるほどの年齢に達していたことも窺えよう。前述01にある通り、翌年までには辞して「前讃岐権守」と呼称されている。

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▲【図A】安達氏略系図*4

 

安達氏一門での国守任官は、安達義景の子である、頼景が29歳で丹後守正六位下相当)*5泰盛が52歳で陸奥従五位上相当、秋田城介と兼務)*6顕盛が30歳で加賀守従五位下相当)*7長景も30代前半以下で美濃守従五位下相当)*8に任官した例が確認できるほか、次の史料により師景(重景の子)が加賀守、師顕(時長の子)が越後権介であったことが判明している。

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▲【史料B】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用の、施薬院使・丹波長周の注進状*9

 

権官とはいえ、秋田城介家の嫡男(継承予定者)である高景の国守任官は、これらの例より遅れるとは考え難い。従って、正中2年初頭での任官とした場合でも、この当時30歳前後よりは若かったはずである。

 

続いて、父・安達時顕との年齢差を考えてみよう。時顕の正確な生年は判明していないが、細川氏は弘安5(1282)年頃の生まれと推定されている*10。1285年の霜月騒動で時顕の父・宗顕が21歳(数え年)で亡くなっている(『尊卑分脈』)ことからしても、騒動時に時顕が幼児であったことは間違いなかろう。すると、高景は早くとも1302年前後の生まれとなり、讃岐権守への任官は20代前半で行われたと推定可能である。

 

ところで、讃岐守はそれまでの安達氏には無縁の官職であったが、判明しているもの*11だけでも、第3代執権となる前の北条泰時が初めて任ぜられた国守であり*12、1300年代には、足利貞氏(正応5(1292)年?~永仁6(1298)年?、正安3(1301)年出家)*13、第13代執権となった北条基時普恩寺基時/徳治元(1306)~正和3(1314)年)*14、第16代執権となった北条守時赤橋守時/正和4(1315)年~元応元(1319)年)*15と、北条氏一門またはそれに準じた者が就任した名誉ある官職と言える*16。守時は元応元(1319)年2月18日に武蔵守に転任している*17ので、高景の任官はこれ以後ではないかと推測される。父・時顕が国守に任官しなかったのに対し、高景はかつての泰盛の弟たちよりも若い年齢での国守任官を許されている。安達氏はかつての地位を回復すると共に、高景には多大なる期待が寄せられていたのであろう。 

 

 

高景の名乗りと北条高時

安達高景の生年が1302年前後以降と推測されることは前述した通りであるが、その名乗りが裏付けの一つになると言えよう。

史料では讃岐権守となって以降の活動しか確認できないが、前節で述べたように任官に至るまでには20~30年を経ているはずであり、その間が北条高時政権期であることは明らかである。元服して「景」と名乗ったのはその間であるから、得宗時の偏諱」を許されたことが分かる。高時は1309年に元服、1311年の父・貞時の死去に伴って得宗家の家督を継承、1316~1326年まで執権を務めており*18、前述の推定生年から算出すれば、高時が得宗家当主であった期間内(1311~1326年)での元服となる。

 

ところで、安達顕盛の系統は、得宗・北条時から偏諱を受けたようだが、細川氏の説によるとの烏帽子親は北条村であったという。時顕の子・高景の代になり再び得宗を烏帽子親にするようになったのは何故であろうか?

 

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▲【図C】秋田城介安達氏・北条得宗家関係図*19

 

まず、「高景」の名乗りに対する細川氏の見解に着目しておきたい。すなわち、歴代の秋田城介(景―義―泰―宗)の名乗りを見ると、「●盛」「●景」型で交互に名付けられていることが分かり、5代・時元服の時点で安達氏惣領となることが確定していなかったため「●盛」型で名付けられなかったものの、6代・高は秋田城介の継承者であることが決まっていたために「●景」型で命名されたのだという。●には烏帽子親からの偏諱が入るのであり、先例・形式主義の当時においては、義景以降の慣例に倣って得宗から1字を受けることの重要性があったと考えられる。得宗からの一字拝領が "秋田城介継承者の証" の意味合いを持っていたのかもしれない。

但し、「●盛」「●景」型で交互に名付けられたというのはあくまで結果論であり、時顕の名乗りが「●盛」型でないからといって、元服の段階で秋田城介継承者に確定していなかったかどうかは分からない。というのも、時顕の他に候補になり得るはずの、宗景の遺児・も、得宗時の偏諱は受けているが「●盛」型の名乗りではないからである。従って、厳密には泰盛以降、祖父の1字を用いることを慣例としたとするのが正確なのだろう。「高景」の名乗りの際、本当に歴代の名前が考慮されたかどうかは分からないが、実際のところは祖先にあたる安達景盛・義景父子にあやかったというのが真実なのかもしれない。

いずれにせよ、高景は秋田城介を継ぐことを期待されながら元服したのであった。

 

もう一つ、 高時との烏帽子親子関係成立は、時顕一家と高時との婚姻関係に連動しているものと推測される。【図C】に示した通り、高時の母は安達氏一門の出身であり、その高時に時顕の娘が嫁いでいた(『尊卑分脈』)高時とは義兄弟の関係にもなり、讃岐権守への任官も含めて、北条時―足利讃岐守*20の先例に倣った可能性を考えても良いのではないか。同じく時の義兄弟となった、弟の安達顕(あきたか)も「」の偏諱を受けたのである。 

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「秋田城介安達高景」としての活動

"関東両使"・五番引付頭人として

鎌倉年代記』を見ると、元亨2(1322)年条に「七月十二日引付頭 守時 顕実 時春 貞直 時顕」とあったものが、嘉暦元(1326)年条では「五月十三日引付頭 茂時 顕実 道順 貞直 延明」と書かれており、引付頭人のメンバーがほとんど変わらない中、執権職を辞して出家した北条高時に追随する形で、父の時顕が出家法名:延明)したことが窺える*21。以後秋田城介の職は、既に讃岐権守を辞していた嫡男の高景に引き継がれることとなる。 

【史料D】『尊卑分脈』〈国史大系本〉より一部抜粋*22 

      正慶元 後醍醐院 隠州遷幸事 為申沙汰 為関東両使上洛

 城介    城介 讃岐権守

 時顕―――高景 **同父死

 元弘三五鎌倉滅亡之時同時自害

 **号延明、元弘三年五ノ廿二、於東勝寺自殺、

 

 **=『系図纂要』にのみ記載あり*23

尊卑分脈』や『系図纂要』では、秋田城介であったこととともに、正慶元(1332)年、後醍醐天皇隠岐島に移る(=事実上は流罪)こととなった際、その沙汰を申すべく、得宗・高時の使者として上洛した*24ことが書かれているが、これについては次の史料により裏付けられる。

〔史料E〕『鎌倉年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』)より*25

今年元徳、…(中略)…八月…(略)…廿四日、主上竊出鳳闕、令寵笠置城給、仍九月二日、任承久例、可上洛之由被仰渡出、同五六七日、面々進発、大将軍、陸奥守貞直、右馬助貞冬、江馬越前入道、足利治部大輔高氏、御内御使長崎四郎左衛門尉高貞、関東両使秋田城介高景出羽入道道、此両使者践祚立坊事云々、此外諸國御家人上洛、圖合廿万八千騎、九月廿日、東宮受禅、同廿八日、笠置城破訖、先帝歩儀令出城給、於路次奉迎、十月三日遷幸六波羅南方、同日、於楠木城第一宮尊良親王奉虜、同廿一日、楠木落城訖、但楠木兵衛尉落行云々、十一月、討手人々幷両使下著、同月、長井右馬助高冬、信濃入道々大、為使節上洛、為京方輩事沙汰也、同八日、以前坊邦良、第一宮康仁親王東宮、…(以下略)

正しくは前年の元徳3(1331)年のようだが、傍線部にある通り、高景は「出羽入道道(どううん)」こと二階堂貞藤*26とともに後醍醐天皇の退位と光厳天皇の即位を促すための使節として京都入りしたのであった*27。この時の通称名に着目すると「秋田城介」と書かれていることから、当時の段階で継承済みであることが分かる。同内容を伝える他の史料数点でも確認ができる。 

〔史料F〕『武家年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』)より

元徳三年元弘元

八月廿四日寅刻先帝御登山、仍為申行御治世、従関東被差上秋田城介高景出羽入道道於御使、九月上旬、為対治山徒等、被差上陸奥守貞直足利治部大輔高氏以下之軍勢、其後先帝御座于笠置城云々、…(以下略)

元弘二年

三月七日午刻先帝遷幸隠岐国、…(以下略)

『光厳院御記』元弘元年10月20日条に「東使両人高景 貞藤法師道薀」。

『光明寺残篇』元弘元年9月18日条に「東使秋田城介殿、二階堂出羽入道殿、京著〔ママ、着カ〕」。

 

尚、『鎌倉年代記』同年(元弘元年)条には 「正月廿三日引付頭 貞将 貞直 範貞 俊時 高景」と書かれているが、嘉暦2(1327)年まで時顕(延明)が務めていた引付頭人の五番を継承するこの "高景" は、冒頭の職員表にある通り、秋田城介と同人で良いと思う。すなわち、鎌倉幕末期において安達高景は秋田城介を引き継ぐとともに、父がなっていた五番引付頭人をも務めたのである。

 

 

安達高景の死去と工藤氏一族の反乱

太平記』巻10には、鎌倉幕府滅亡時の東勝寺合戦(1333年)の際、北条高時に殉じて自害した人物として、「城加賀前司師顕秋田城介師時城越前守有時……(略)……城介高量〔ママ〕同式部大夫顕高同美濃守高茂秋田城介入道延明」と安達氏一門の人物が多く載せられている*28

太平記』は元々軍記物語ではあるが、『尊卑分脈』と照らし合わせると、時顕の注記(前掲【史料D】参照)のほか、顕高など他の人物での官職に概ね一致しており、ある程度史実が反映されているものと認められる。延明(時顕)や顕高らと共に自害する「城介高量」は字の類似から、細川氏がご指摘のように(冒頭職員表参照)高景の誤記の可能性が高い。

尚、ここでは秋田城介の座は "師時(もろとき)" なる人物系図上では確認できない)に移っており、一方『尊卑分脈』では美濃守高茂に「城介」の注記があって、この当時高景が秋田城介を一門の他の者に譲っていた可能性が考えられるが、あまり現実的な想定ではないだろう。

 

 

さて、冒頭の職員表で細川氏が紹介されるように、『元弘日記裏書』建武元(1334)年11月条には「高景」なる人物が北条氏一門の名越時如(ときゆき)*29とともに津軽糠部郡持寄城に挙兵したという記述があり、『関城繹史』(『常陸史料』所収)や『大日本史料』など*30では安達高景に比定するが、筆者はこれを誤りと推測する

確かに安達氏は秋田城介を世襲し、元々陸奥国安達郡の豪族ではあった*31が、鎌倉時代以降の秋田城介は武家の名誉称号となって空職化していたといい*32、実際に安達氏が東北地方陸奥・出羽など)で活動していたという記録も見当たらない。従って『元弘日記裏書』で単に「高景」とだけ記される人物が安達氏である確証はなく、義兄の北条高時や父・弟と運命を共にせず、ただ一人津軽に落ち延びたというのもやや不自然に感じる。

 

では、幕府滅亡後の反乱に参加したこの「高景」は誰かと言えば、同じく高時の偏諱を受けた工藤高景に比定し得ると思う。『奥南落穂集』によれば工藤行光の長男・長光が建久年間に陸奥国岩手郡栗屋河(厨川)に下向し、これに同行した行光の弟・三郎祐光の子孫が同国糠部郡に分住したのだという*33。実際、建武元年4月晦日付「源貞綱(多田杢助貞綱)書状」(『南部文書』)を見ると、南部又次郎師行・戸貫出羽前司・河村又次郎入道の3人に宛がわれた糠部郡の闕所のうち一戸と八戸が工藤氏の旧領であったことが確認でき*34同年12月14日付の書状(『南部文書』)にある津軽での反乱で捕虜となった者の交名(リスト)に工藤姓の人物が多数見られる*35ことからも、工藤氏の一族が得宗被官(御内人)として*36この地域に勢力を張っていたことが窺える。

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▲【図G】今野慶信作成による得宗被官・工藤氏の略系図*37

 

前述の三郎祐光は「すけみつ」という音の共通から、「南家 伊東氏藤原姓大系図*38での行光の弟・資光、および『吾妻鏡』での三郎助光に比定され*39、その子孫「光長〔光泰―光頼〔頼光―宗光(工藤右近将監)―貞光(新右近)」は代々得宗偏諱を受けてその被官として続いた*40建武元年7月29日には「糠部郡七戸内 工藤右近将監(=貞光」が伊達行朝に宛がわれており*41、この家系もそれ以前に糠部郡内を領していたことが窺える。

そして、工藤高景は通称が「次郎右衛門尉」であった*42ことから、「高光―時光〔二郎右衛門入道、法名杲暁〕―貞祐〔二郎右衛門〕」と続いた資光の弟・重光の家系の出身、すなわち貞祐の嫡男ではないかと推測されている*43工藤杲暁(こうぎょう)貞祐(さだすけ)父子は得宗被官として若狭守護代を務め(「若狭国今富名領主次第」)、杲暁は得宗公文所執事にも抜擢され、貞祐も1331年まで「多田院造営惣奉行」を務めるなど様々な活動を行っていたことが確認できる*44のだが、元弘の乱における動向が不明なのである。

太平記』巻10での高時に殉死者に工藤氏の掲載はないが、幕府滅亡後には工藤氏の者が処刑されたことを伝える史料が残る。『近江国番場宿蓮華寺過去帳*45には建武元年12月4日に「公藤二郎」と「同次郎右衛門尉五十二歳」が六条河原で斬首されたとする記述が見られるが、「公藤」が「くどう」と読める(例:家(げ)など)ことから、この2名は工藤氏と考えられる。通称名の一致と世代から、貞祐・高景の可能性がある。また、『鶴岡社務記録』文和2(1352)年5月20日条には「相模次郎(=北条時行)」と共に「工藤次郎」が処刑された旨の記述があり*46、この者は高景の次世代であったと推測されている*47

 

これらの考察を踏まえると、工藤氏の中でも惣領のような立場にあった工藤高景が、津軽での反乱に全く無関係であったとは思えない。すなわち、建武元年11月の反乱は、高景を中心とした工藤氏一族が、本拠地である津軽糠部郡に結集し、主家・北条氏一族の生き残りである名越時如を大将に迎えて起こしたものだったのである。 

 <まとめ>建武元(1334)年 陸奥工藤氏の反乱

  • 4月晦日陸奥国糠部郡一戸の工藤四郎左衛門入道跡、同子息左衛門次郎(義村)跡、および同郡八戸の工藤三郎兵衛尉跡が闕所地とされる。
  • 7月29日:「工藤右近将監(貞光)」の旧領であった糠部郡七戸が闕所地とされる。
  • 11月19日:「津軽凶徒(名越)時如、(工藤)高景」以下の反乱を鎮圧。工藤左近二郎の子である孫二郎義継・孫三郎祐継兄弟以下、工藤氏一族の多くが捕虜となる。
  • 12月4日:「公藤二郎(工藤高景?)」と「同次郎右衛門尉(工藤貞祐?)」が六条河原にて斬首。

 

従って、安達高景はこの反乱とは無関係であったと判断されるので、1333年5月22日の鎌倉幕府滅亡に殉じたとする『太平記』のエピソードを採用すべきである。30歳前後より若い年齢での短い生涯であったと思われるが、高時政権の事実上の最高権力者であった安達時顕・長崎円喜の、嫡男・娘婿として、「御後見之輔翼」たる安達氏秋田城介*48 の最後として、義兄で烏帽子親の北条高時と運命を共にしたのであった。

 

脚注

*1:細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)P.152。

*2:注1前掲細川氏著書、同頁。『金沢文庫古文書』324号「金沢貞顕書状」の年月日比定 について - Henkipedia も参照。

*3:注1前掲細川氏著書、同頁。

*4:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その81-関戸頼景 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その82-安達泰盛 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№88-安達顕盛 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№91-安達長景 | 日本中世史を楽しむ♪ によれば、弘安2(1279)年に任官。【図A】に示したが如く『尊卑分脈』では顕盛のすぐ下の弟として載せられ、顕盛と同年の生まれとしても当時35歳(数え年)となり、これより若年での任官であること確実である。

*9:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.19 より。

*10:注1前掲細川氏著書、P.143。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その89-安達時顕 | 日本中世史を楽しむ♪安達時顕 - Wikipedia もあわせて参照のこと。

*11:讃岐国 - Wikipedia #讃岐守 を参照。

*12:前注同箇所。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ では承久元(1219)年1月22日の駿河守就任を国守任官の最初とするが、上横手雅敬北条泰時』〈人物叢書〉(吉川弘文館、1958年)P.20によると、朝廷から讃岐守に任ずる話があったが辞退した、ということらしい。『草鹿文書』所収「本朝武家系図」での泰時の注記には「建保六(1218)年三月讃岐守ニ任ズ無程」とある。

*13:尊卑分脈』・『異本伯耆巻』等で足利貞氏が讃岐守であったことが確認できるが、前田治幸氏の説によると、正応5(1292)年2月の段階では惟宗某(実名不詳)が讃岐守であったが、『門葉記』冥道供七「関東冥道供現行記」正安4(1302)年2月9日条に「乾元元二月九日被修之、足利讃岐守物狂所労経年之間、物付云、大師堂前大僧正御房被修冥道供者、所労可得減云々、依之被申之、道場彼亭、去月七日歟炎上、當時亭高次郎右衛門尉私宅也、」(Twitter上より拝借)とあるので、この間に貞氏が讃岐守に補任されたとする{P.190}

他方、新行紀一氏の紹介によると、史料的信憑性が高いとされる『滝山寺縁起』「温室番帳」には、正安3(1301)年12月13日、「伊与守家源家時御菩提」(=「足利伊与守源ノ家時、弘安七年逝去、」{P.402}の17年忌)のため「讃岐入道殿」が袖判を据えた「左衛門尉師重」(=高師重)の奉書によって如法堂料田を寄進した旨の記録があり{P.287}、『北条九代記(または『鎌倉年代記』裏書)嘉元3(1305)年5月2日条にも「足利讃岐入道」が嘉元の乱の際、北条時村殺害犯の一人、海老名秀綱(正しくは季綱)を預かった記事が見えることから、正安3年8月の執権・北条貞時の剃髪に追随して出家したとする説が有力である{P.25・128・170}。『門葉記』は、他の箇所で本来「長崎左衛門尉高資」で良いところを「長崎左衛門尉高資」と記す(注9前掲細川氏著書、P.87)くらいだから、官職名については必ずしも正確さを求める必要は無いと思われる。

また、『鑁阿寺文書』には、弘安9(1286)年の落雷で焼けた鑁阿寺大御堂の再建のため造営費100貫文を寄進する旨の年未詳11月18日付「前讃岐守貞氏」発給書状が残っており{P.128・357}、正応5(1292)年10月に手斧始(てうなはじめ)、永仁4(1296)年2月に立柱、正安元(1299)年7月に上棟という流れで再建工事が進められた{P.128・P.376掲載『郷々寺役記』}ことから、田中大喜氏は永仁6(1298)年頃のものではないかと推測されている{巻末年表}が、これが正しければ正安年間より前、出家の数年前には讃岐守を辞していたことになる。

以上を総合すると、足利貞氏の讃岐守在任期間は、おおよそ正応5(1292)年~永仁6(1298)年と推定される。前述{ページ番号}は、田中大喜編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉(戎光祥出版、2013年)での頁数を表す。

*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その42-普音寺基時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その30-赤橋守時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*16:北条・足利両氏は、義氏の母が時政の娘、泰氏の母が泰時の娘、頼氏の母が時頼の妹と婚姻関係を重ねており(『尊卑分脈』etc.)、貞氏についても常盤流北条時茂の外孫で、妻となった金沢流北条顕時の娘が時宗の養女であった可能性を指摘する見解がある(→ 北条得宗家と足利氏の烏帽子親子関係成立について - Henkipedia 参照)ため、足利氏は血筋の面から言っても十分に北条氏一門に準ずる家柄と言えよう。

*17:前注同箇所参照。

*18:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪同その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*19:注1前掲細川氏著書、P.153 より。

*20:貞時と貞氏の烏帽子親子関係については『異本伯耆巻』に記述が見られ(→ 北条得宗家と足利氏の烏帽子親子関係成立について - Henkipedia 参照)、注16で述べた通り、貞氏の妻が時宗の養女=貞時の養妹であれば、形式上義兄弟の関係にもなる。

*21:注9前掲細川氏著書 巻末「鎌倉政権上級職員表」No.89「安達時顕」の項(同氏のブログ記事 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その89-安達時顕 | 日本中世史を楽しむ♪ では一部文章が欠落しているためご注意を!)。

*22:『史料稿本』(→ こちら) または 安達顕高 - Henkipedia を参照のこと。

*23:『大日本史料』6-2 P.141 または 安達顕高 - Henkipedia を参照のこと。

*24:安達高景(あだち たかかげ)とは - コトバンク より。

*25:『北条九代記』と同内容。

*26:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その170-二階堂貞藤 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*27:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.136。安達高景(あだち たかかげ)とは - コトバンク(注24参照)。

*28:太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」。

*29:注9前掲細川氏著書 P.369に掲載の『前田本平氏系図』によれば、系譜は「義時―朝時―時章―篤時―秀時―時如」。「掃部助」と注記される。

*30:『大日本史料』6-2 P.135安達高景 - Wikipedia #備考 を参照。

*31:安達氏(あだちうじ)とは - コトバンク 参照。

*32:秋田城介(アキタジョウノスケ)とは - コトバンク 参照。

*33:『奥南落穂集』「岩手郡之次第」(「近世こもんじょ館」HP)、奥州工藤氏 - Wikipedia #厨川工藤氏 参照。

*34:『大日本史料』6-1 P.522

*35:『大日本史料』6-2 P.135~139

*36:鎌倉時代には北条氏が糠部郡の地頭を務め、一戸~九戸の各戸に家臣を地頭代として配置していたという。糠部(ぬかのぶ)とは - コトバンク を参照のこと。

*37:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115。

*38:翻刻は、前注今野氏論文 P.130~135のほか、飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』三輯、1977年)や『伊東市史 史料編 古代・中世』(2006年)にも収録。

*39:注37前掲今野氏論文、P.112。

*40:注37前掲今野氏論文、P.113。

*41:注37前掲今野氏論文、P.113。『大日本史料』6-1 P.657

*42:名越宗教 - Henkipedia【表E】参照。

*43:注37前掲今野氏論文、P.114。

*44:前注同箇所。

*45:群書類従』巻514所収。

*46:『鶴岡社務記録』 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*47:注37前掲今野氏論文、P.114。

*48:「安達宗顕三十三年忌表白文」(『鎌倉遺文』第34巻26431号)中の「自元久至弘安為六代御後見之輔翼」より、6代の歴代得宗(義時・泰時・経時・時頼・時宗・貞時)の「輔翼(=補佐)」というのが安達氏の自家に対する認識であったという。注1前掲細川氏著書、P.159。