Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

吉良貞義

足利 貞義(あしかが さだよし、1270年頃?~1343年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。三河国西条城主。足利(吉良)満氏の子。通称および官途は弥太郎、上総介。法名省観吉良貞義(きら ー)とも呼ばれる。

 

 

▲【系図1】『尊卑分脈』より吉良氏系図(一部抜粋して作成)*1

 

吉良貞義に関する史料

陽明文庫所蔵「平安京宮城図」の奥書(銘記)には「元応元年八月三日、於鎌倉大倉稲荷足利上総前司屋形模之了、右筆頼円(花押)」とあり*2、同図が元応元(1319)年「足利上総前司」の館に於いて書写(模写)されたと伝える。また、元亨3(1323)年の故・北条貞時の法要について記された『北条貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)にも参列者の一人として「足利上総前司」の名が確認できる*3。時期の近さからいずれも同一人物と見なせるが、足利氏宗家で上総介の官途を得た者はいないため、一門の吉良貞義に比定される。当時鎌倉在住で、既に上総介を退任していたことも窺えよう。

 

『分脈』には貞義の項に「法名省観」とあり、建武3(1336)年にはその署名と花押が据えられた発給文書が確認できることは後述するが、それにより出家の時期が同年以前であることも判明する。

ここで次の史料を見ておきたい。

【史料2】『難太平記(『群書類従』巻398 所収)より*4

一、元弘に御上洛の時、不思議のことありける。三河国八橋に御着きの時、御前人数の無き夕に、白き衣かづきたる女ひとり参りて云ふ、「御子孫悪事無くば七代守るべし。その支証には毎度合戦に出給ふ時、雨風をもつて示し申す可し」と云て夢の如く失せにけり。
 それよりして、ひしと御謀反のこと思し召し定て、上杉兵庫入道(=憲房)御使と為し、まづ吉良上総禅門に仰せ合せられしに御返事に云ふ、「今まで遅くこそ存づれ。尤も目出かる可く云々」。その後人々にも御談合有りけり。
 此事関東御立ちの時より内々上杉兵庫入道は申し勧めけるにや。家時貞氏この両御所の御造意を、大方殿の上杉計りに仰せ聞かせられけるとかや。是によりて殊更その人、骨を折て河原合戦*5に討死しけるとかや。今の上杉中務入道(=朝宗)の祖父なり。

元弘3(1333)年、名越高家と共に大将として鎌倉幕府軍を率いて上洛していた宗家当主の足利高氏(のちの尊氏)が反旗を翻す形で倒幕の兵を挙げる際、母方の伯父・上杉憲房を介して、最初にその旨を「吉良上総禅門」に打ち明けたと伝える。ここでの「禅門」とは「入道」に同じく俗人のままで剃髪し仏門に入った男子のことであり、吉良上総介が出家した姿ということになるが、『難太平記』の別箇所にて貞義(省観)と明かされており(下記参照)、【系図1】と照らし合わせても疑いはない。すなわち貞義の出家は1323年~1333年の間であったことが分かる。あくまで推論ではあるが、恐らく正中3(1326)年3月の得宗北条高時の出家*6に追随した可能性が高いのではないか。

*尚、『難太平記』では【史料2】より前の部分にも貞義に関する言及が見られる。

●「一.我等が先祖事は、義氏の御子に長氏、上総介より吉良とは申也。其子に満氏の弟に国氏と云しより、今川とは申也。貞義上総入道法名省観と、我等が祖父の基氏とは従父兄弟也。……」(※後述【史料5】も参照のこと。)

●「一.今川庄をば、左馬入道(義氏)の御時より、長氏の少年の御時、装束料に給ひしを、吉良庄惣領進退すべしと沙汰ありし故に、基氏不会になり給ひしにや、故殿(範国)の御代に省観上総入道合躰有て、父子の契約より違乱止き……」*7

 

この当時は足利一門の長老的な存在であったのだろう、真偽の程は不明だが、高氏より間接的に相談を受けた貞義は「むしろ遅いと思っていた。大変に目出度(めでた)いことである」と歓迎。高氏(尊氏)と行動を共にして幕府滅亡の動乱を乗り越えたようである。前述したように、幕府滅亡の3年後にあたる建武3年には6月6日付で「省観」の署名と花押を据えた「沙弥省観吉良貞義寄進状」(『菊大路文書』)*8を発給している。

そして、『虎関紀年録』および『無規矩』には、康永2(1343)年2月16日に「総州太守」が没したとの記録があり*9、これも貞義のこととされる*10が、全く疑いないであろう。『海蔵紀年実相寺伝記』にも同様の記録があるという*11

 

 

生年・世代の推定

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こちら▲の記事で、祖父・長氏、父・満氏と下る形で氏の生年を1270年頃と推定した。そして、も年齢が近い兄弟で、両名の「」は1284年に執権職を継いだばかりの北条を烏帽子親とし、その偏諱を賜ったものと見なした。

系図1】では弥太郎貞義を兄、三郎貞氏を弟とする書き方になっているが、吉井功兒はその順序に疑義を呈されている。次に該当部分を引用して掲げる*12

……霜月騒動にさいし、足利一門では、足利上総三郎が安達泰盛一類として非分に誅された(『鎌倉年代記』裏書)。上総三郎は貞氏と推定され、三河国吉良荘惣領(『難太平記』)足利上総介満氏の嫡男だろう。「尊足(=『尊卑分脈清和源氏足利項:筆者補注)」吉良項は満氏長男を貞義、次男を貞氏とするが、満氏も上総三郎を称しており……、足利長氏流惣領の通称だった。…………1285年には足利上総貞氏が吉良惣領家を家督していた可能性が高い。なお、「尊足」吉良項の貞義・貞氏兄弟の年序に疑問がある。貞義は建武5(1338)年4月以降まで足利一門の長老として活動しており(今川文書)、貞義嫡男満義は文和4(1355)年正月に南軍の京都占領にさいし、北帝後光厳を守護している(『賢俊僧正日記』)。貞義が満氏長男ならば、1250~60年代には生まれているはずであり、1338年には80歳代となり、高齢過ぎる。1355年に現役指揮官として活躍した満義は恐らく60歳以下の壮年と考えられる。南北朝期の貞義・満義父子を眺めれば、満氏と貞義の間の年齢が開き過ぎている感がある。筆者は、満義〔ママ、貞義の誤記か?〕より貞氏のほうが年長者で、1285年に貞氏が殺されてから満義〔ママ、同前〕が吉良惣領家を家督したものと考えている。貞義はあるいは貞氏の遺児だったかもしれない。……

元々足利氏宗家を主軸に論じたものであるため、吉良氏に関してはあまり史料に沿った考証ができなかったものと思われ、曖昧な書き方の部分もある。

よって、この内容について、実際に検証したいと思う。まず次節では、同じく生年不詳である息子の満義、孫の満貞の世代推定を試みるべく、通称や官途の変化を頼りに、各々史料や先行研究を掲げながら纏めていきたい。

 

嫡男・吉良満義

満義」の名は、祖父・満氏、父・貞義の各々1字を取って付けられたものであろう。初出は次の史料と思われる。

 
【史料3】元弘3(1333)年4月日付関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*13
大将軍
 陸奥大仏貞直遠江国       武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国
 遠江尾張国            武蔵左近大夫将監(北条時名)美濃国
 駿河左近大夫将監(甘縄時顕)讃岐国  足利宮内大輔(吉良貞家)三河国
 足利上総三郎             千葉介貞胤一族并伊賀国
 長沼越前権守(秀行)淡路国         宇都宮三河権守貞宗伊予国
 佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 小笠原五郎(頼久)阿波国
 越衆御手信濃国             小山大夫判官高朝一族
 小田尾張権守高知一族         結城七郎左衛門尉朝高 一族
 武田三郎(政義)一族并甲斐国       小笠原信濃入道宗長一族
 伊東大和入道祐宗一族         宇佐美摂津前司貞祐一族
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)一族    安保左衛門入道(道堪)一族
 渋谷遠江権守(重光?)一族      河越参河入道貞重一族
 三浦若狭判官(時明)         高坂出羽権守(信重)
 佐々木隠岐前司清高一族      同備中前司(大原時重)
 千葉太郎胤貞

勢多橋警護
 佐々木近江前司(京極貞氏?)       同佐渡大夫判官入道京極導誉

(* http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)

この史料は後醍醐天皇による2度目の倒幕運動=元弘の変に際し、幕府が京へ差し向けた軍勢の名簿であり、北条氏一族の次に足利氏一族2名が掲げられているが、宗家の足利高氏(尊氏)は「前治部大輔*14、弟の足利直義兵部少輔であり、該当者はいない。

よって足利氏一門で該当し得る人物を探すと、吉良氏の宮内大輔貞家(後掲【史料4】)上総介貞義の「三郎(本来は3男の意)」に比定される。貞義が「足利上総前司」と呼ばれていたことは前述の通りで、仮名が「三郎」ではなく「弥太郎」(【系図1】)、これ以前より上総介を辞して出家していたこと(【史料2】)も踏まえると「足利上総三郎」=貞義ということは絶対にあり得ない。

また、この「足利上総三郎」を満義の子(貞義の孫)満貞とする見解もある*15が、若くとも元服の適齢=10代前半であるとして、その後更に16年間(詳しくは後述参照)、すなわち30歳前後に達するまで無官であったことになり、これもまた足利・吉良氏の者としては不自然である。

従って【史料3】の「足利上総三郎」に同定し得るのは吉良満義しかいない。元服からさほど経っていなかったためか、まだ無官であったことが分かり、祖父・満氏や伯父・貞氏がかつて名乗っていた「上総三郎」を満義も称したことが窺える。父・貞義が剃髪していたためか、若き満義が幕府の軍勢の一員として上洛したということになる。

 

しかし、【史料2】の際には当然父・貞義(省観)から尊氏の倒幕の意思についても聞かされていたであろう。その流れに乗じて幕府滅亡の動乱を乗り越え、建武政権下で初の官職を得て、次の史料にある通り、関東廂番の一人にも任ぜられたのである。

【史料4】建武元(1334)年正月付「関東廂番定書写」(『建武(年間)記』)より*16

定廂結番事、次第不同、

( 略 )

三番

宮内大輔貞家     長井甲斐前司泰広

那波左近大夫将監政家 讃岐権守長義

山城左衛門大夫高貞  前隼人正致顕(=摂津致顕)

相馬小次郎高胤

 ( 略 )

六番

中務大輔満儀〔ママ〕 蔵人伊豆守重能

下野判官高元    高太郎左衛門尉師顕

加藤左衛門尉    下総四郎高宗(※高家とも)

 

右守結番次第、無懈怠可令勤仕之状、依仰所定如件、

 元弘四年丶丶

当該期「満儀」なる人物は特に確認できず、【系図1】とも照合すればこれも満義を指すと考えて良いと思う。恐らく漢字ミスで「イ(人偏)」を誤って書いてしまったのだろう。

『師守記』貞和3/正平2(1347)年6月8日条には「二条京極吉良左京大夫満義朝臣宿所」にて足利直義の妻が男子(=如意丸を出産したとの記述があり*17、『建武三年以来記』同年12月19日条にも「吉良左京大夫満義朝臣」が直義の命により「仙洞(=光厳上皇警固」に当たったという記録があって*18、【系図1】での記載通り、【史料4】からの13年もの間に左京大夫に昇っていたことが分かる。

 

その後は、『園太暦』観応2(1351)年正月15日条に「吉良左京大夫」と書かれていた*19ものが、同書の文和4(1355)年2月8日条では「〔ママ、吉〕良左兵衛佐満義」と官途が変わっており*20、【系図1】の記載にほぼ一致する。また、次の史料にも着目である。

【史料5】『難太平記(『群書類従』巻398 所収)より*21

一、我等が先祖事は、義氏の御子に長氏、上総介より吉良とは申也。其子に満氏の弟に国氏と云しより、今川とは申也。貞義上総入道法名省観と、我等が祖父の基氏とは従父兄弟也。吉良満義右兵衛督故入道殿心省(=今川範国法名、著者・今川了俊の父)は、三従兄弟也……。

改めて【史料2】でも掲げた難太平記は、今川貞世(了俊)(1326-1420?)が子孫に宛てて応永9(1402)年頃に完成させた書物である。【史料5】の部分では了俊自身が吉良氏との系譜関係を振り返っており、吉良貞義・満義や祖先の名前には付していない一方で、父である範国(心省)にわざわざ故人を表す「故」を記しているから、至徳元(1384)年*22以後に書かれたと判断される。

系図1】にあるように延文元(1356)年に亡くなったという満義*23とは生きた時代が重なっており、父・範国とも三従兄弟(みいとこ、所謂「またいとこ」・「はとこ」)関係にあったというから、満義の生前の最終官途として「右兵衛督」が誤記であるとはあまり考えにくく、2022年刊行の『新編西尾市史』ではこれが採用されている*24。左兵衛佐や右兵衛督は本来、左京大夫に比べると位階などでやや劣るが、位階と官職の相当関係が成立していない事例も多々あったので、特に深く考慮の必要はないだろう。同市史によると、満義は四位の位階を持ち、牛車の使用を許され、昇殿を認められていたという*25

 

1333年以前:元服して "上総三郎"(無官)

1333~1334年:中務大輔正五位上相当・次官級)*26

1347年以前:左京大夫正五位上相当・長官級)*27

1351年以後:左兵衛佐正六位下相当・次官級)*28、右兵衛督従五位上相当・長官級)*29

 

嫡孫・吉良満貞

満貞」の名は、祖父・貞義、父・満義の各々1字を取って付けられたものであろう。再び先学に頼るが、満貞についての史料を掲げていきたいと思う。

系図1】にも「康永天竜寺供養随兵」の注記がある通り、康永4(1345)年8月、故・後醍醐天皇七回忌供養のため天竜寺に参詣した足利尊氏・直義兄弟に、随兵として同行したのが史料上での初出であろう。一次史料では「吉良上総三郎(『師守記』)*30、「上総三郎(『結城文書』・『天龍寺供養記録』)*31と書かれているが、『太平記』巻24「天竜寺供養事付大仏供養事」に「吉良上総三郎満貞」と明記されている*32。父・満義が国守に任官していなかったこともあり、満貞も同じく祖父・貞義の最終官途に因む「上総」を付した「上総三郎」の通称を継承したことが窺える。

次いで『太平記』〈天正本〉巻26「御所囲む事」には、貞和5(1349)年8月12日、高師直と対立した足利直義のもとに参集した武士の中に「吉良左京大夫満義同じき上総三郎満貞*33とあったものが、翌観応元/正平5(1350)年の内容を記す同書巻27「直義禅閣逐電事」では【系図1】と照らし合わせる限り満貞にしか該当し得ない「吉良治部大輔」が登場しており*34、初の官途として治部大輔に任官したことが窺えよう。

*『園太暦』観応2/正平6(1351)年正月17日条の「治部少輔」を『大日本史料』では満貞に比定する*35が、「大」と「少」の違いがあるので誤り(別人)であろう。

 

吉良治部大輔(=満貞)は他にも以下3点の史料に登場している。

『観応二年日次記』:7月30日、直義の北国下向に随行する武士の一人に「吉良治部大輔*36

『園太暦』同年8月12日条:伝聞として「吉良治部大輔」が逐電し北国へ向かったとの記述(=『観応二年日次記』と同内容)*37

観応3(1352)年7月25日付「鷲見加々丸*38軍忠状」(『鷲見家譜』):文中の「吉良治部大夫〔ママ〕殿*39

 

そして、翌正平8(1353)年6月9日付で書状を発給している「吉良左馬頭」も、父の満義に比定する見解もあったようだが、松島周一の考察により満貞に比定されている*40。正平7(1352)年12月9日、正平8(1353)年6月8日・9日、および 同13(1358)年9月21日に書状を発給した「左馬頭」も、松島氏が「吉良左馬頭」との花押の一致を確認しており*41、少なくとも1356年に亡くなった満義(前述参照)ではあり得ない。よって、【系図1】に記載は無いが、満貞がその後左馬頭に昇進したことが伺え、その転任時期は1352年7月25日から12月9日までの間であったことも推定できる。

 

応安2(1369)年6月22日、室町幕府管領・武蔵守細川頼之から「大内介入道殿(=大内弘世〈法名: 道階〉)」宛てに出された書状の文中に「左兵衛佐入道省堅*42とある。「省堅」は【系図1】に満貞法名として記載されており、満貞が1358年以後、左馬頭から、数年前に父が任じられていた左兵衛佐に転任し、出家したことが窺える。最期は『常楽記』至徳元(1384南朝:元中元)年9月5日条に「吉良兵衛佐入道他界」とある*43

 

1345年以前:元服して "上総三郎"(無官)

1349~50年:治部大輔正五位下相当・次官級*44

1352年:左馬頭従五位上相当・長官級*45

1358年以後:左兵衛佐正六位下相当・次官級)*46

 

吉良氏における任官年齢について

満義・満貞父子の官職歴を纏めたところで、その任官年齢について考えてみたい。

 

系図4】足利氏宗家鎌倉時代系図*47

鎌倉期の足利氏宗家の例では、足利頼氏が12歳、足利高氏(尊氏)が15歳と、10代前半であったことが分かっており、足利家時も17歳までに元服済みであったことが判明している。これは足利一門の吉良氏にも適用して良かろう。

また、吉良満貞が経た官職は宗家でも就任の前例がある。治部大輔には頼氏が20歳で、高氏元服・叙爵と同じ15歳で任官しており、左馬頭任官も足利義氏の43歳*48をはるかに下回るだろう。

また、松島氏が "吉良左馬頭"満貞と相並ぶ「南朝側の柱石」とした右馬頭・石塔頼房*49清和源氏流足利氏の一門であり、似たような官職歴があるので参考になるだろう。頼房は応永20(1413)年に93歳で亡くなったといい、逆算すると1321年生まれ。1335年の中務大輔任官時15歳であったことになるが、前述の通り尊氏(高氏)の治部大輔任官も同年齢であったから一応問題はないと思う。右馬頭については『園太暦』や『伊勢結城文書』に、観応2/正平6(1351)年4月16日の除目において「源頼房」が任ぜられた記録があり*50、当時31歳での昇進・転任であったことが分かる。

よって、満貞は遅くとも1330年頃には生まれていたとするのが妥当であり、恐らく頼房とほぼ同世代人だったとではないかと思う。満貞は1320年代の生まれであったと推定しておきたい

 

満貞の父・満義も【史料4】の通り、建武政権下でのちの頼房と同じ中務大輔に任ぜられており、少なくとも15歳以上であった筈であるから、満貞との年齢差を考慮しても1310年頃までには生まれていた筈である。仮に1310年生まれの場合だと【史料3】「足利上総三郎」から【史料4】「中務大輔」にかけては24~25歳位であったということになるが、実際はもう少し上回って30代くらいだったと考えても良いだろう。

前掲の吉井論文で「満義は文和4(1355)年正月に南軍の京都占領にさいし、北帝後光厳を守護……(略)……1355年に現役指揮官として活躍した満義は恐らく60歳以下の壮年と考えられる」とあったが、逆算すると生年を1296年以後と推測されていることになり、ほぼ意見が一致する。よって満義の生年は1290年代後半~1300年代初頭であったと考えられる。

すると、同じく親子の年齢差を踏まえれば、満義の父である貞義は遅くとも1270年代には生まれていたと考えられる。その裏付けには貞義の上総介任官時期がポイントになると思われるので、次節にて探ってみたいと思う。

 

貞義の上総介任官時期の推定

貞義の上総介任官時期を探るにあたり、その参考として、まずは当該期の主な上総介任官者について見ていきたい。

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詳細はこちらの記事を見て頂ければと思うが、"上総掃部助" 北条高政の祖父・実政、父・政顕が上総介であったことが知られる。

実政は弘安6(1283)年に上総介に任ぜられ、同9(1286)年10月29日付「将軍惟康親王家政所下文案」(『正閏史料武久季督家蔵』)*51において、幕府から「石門合戦之忠」として安芸国苅田久武郷と長門国小津木名を与えられている「上総介」も実政に比定されており*52、翌10(1287)年までには退任している*53

*但し、弘安7(1284)年12月~翌8(1285)年11月の「霜月騒動」の間は大曾禰宗長が上総介であったので、厳密には霜月騒動後に(恐らく前任者の)実政が再任されたと考えるべきであろう。

政顕は嘉元3(1305)年当時在職、翌4(1306)年には退任して「前上総介」と呼ばれている。

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有力御家人・安達氏の分家である大曾禰氏嫡流も代々上総介の官職を得ていた。『関東評定伝』によると、建長6(1254)年、大曾禰長泰が44歳の叙爵と同時に、建治2(1276)年にはその子・長経が45歳の叙爵と同時に、それぞれ任官している。そして前述の通り、長経の子・宗長も弘安7(1284)年末から上総介となったが、「宗」の1字を与えた烏帽子親の北条時宗とほぼ同世代人で、当時30歳ほどであったとみられる。

尊卑分脈』によると、宗長には2人の遺児(太郎長顕・二郎長義)がいたらしく、嫡男の大曾禰長顕には「上総介」の注記があって、どうやら同じ官職を得たらしい。その時期は史料上で見出せないが、長顕らは遅くとも父・宗長が討たれた霜月騒動の年(1285年)には生まれている筈であるから、同じく30~40代で任官したとすると1310~20年代と推測は可能である。

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その他、こちらの記事で紹介の通り、元亨3(1323)年11月から、正中2(1325)年正月の間、すなわち1324年には島津貞久が上総介となり間もなく辞して出家したことが判明している。冒頭で前述したが、その頃には貞義は既に退官して「上総前司」であった。

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こちらの記事で言及しているが、父・満氏については、1240年頃に生まれ、『聖一国師年譜』において、文永8(1271)年の実相寺建立に際し、僧・円爾(えんに)を開山に請じた「足利源総州満氏」が当時の呼称をそのまま記したものだとすれば、30代で上総介正六位下相当)*54の官途を得ていたことになり、下記【資料6】にはこれを反映させてある。遅くとも40代となる弘安7(1284)年の出家(【系図1】)までには任官済みであったことは、翌8(1285)年の霜月騒動で父・満氏の官途を付した貞氏と思しき「足利上総三郎」が討たれていることからも確実である。

 

以上の内容をまとめると次の通りである。

【資料6】鎌倉時代後期の「上総介」

1271年頃?:足利(吉良)満氏

1276年:大曾禰長経

1280年代:北条実政、大曾禰宗長

1290年代~1300年代初頭:??

1305年頃:北条政顕

1310年代:大曾禰長顕?

-----1319年「足利上総前司」-----

1324年頃:島津貞久

上総介には、実政のように複数年在職する者もいれば、宗長・政顕・貞久のように単年くらいの短さの者もいたから、実際はもっと目まぐるしく変わっていると思うが、貞義が上総介になり得る空白期間は1290年代~1300年代初頭になると思う。

この期間はちょうど、嫡男・満義が生まれたと前節にて推定した時期であり、貞義がこの当時父・満氏が上総介であったのと同じ(20代後半~)30代であったとしても十分自然ではないかと思う。

よって、貞義の生年は1270年代と推定され、1240年頃に生まれた満氏との年齢差の面でも問題はない。元服は通常10代前半で行われるので、義は1284年から9代執権の北条を烏帽子親として、その偏諱を許されたものと見なして良いだろう。

 

吉良貞義家督継承について

最後に、吉井功兒が疑義を呈されていた、貞氏・貞義の兄弟順について考察してみたいと思う。

まず、前掲の文章の中で「貞義が満氏長男ならば、1250~60年代には生まれているはず」という部分については、恐らく満氏の生年について細かく検証されていなかったためであったかもしれないが、前節での考察から否定させていただく。そして、「貞義はあるいは貞氏の遺児だったかもしれない」とする見解にも賛同いたしかねるが、これについては後述する。

よって、兄弟関係にあったという前提で先に結論を述べると、実際は【系図1】通りではなく、弥太郎貞義は弟、三郎貞氏が兄で最初の嫡子だったのではないかと思う。つまり、吉井氏が述べた「満義より貞氏のほうが年長者」については、「満義」が「貞義」の誤りであれば同意見である。その理由を述べよう。

 

吉良氏の「上総三郎」について

一つは、吉井氏が述べる通り「上総三郎」が吉良氏家督代々の仮名であったと推測されることである。『尊卑分脈』を見ると、足利氏祖の義康のあと、三郎義兼―三郎義氏が嫡流継承となっており、これがきっかけになったのか、その後の足利本家(泰氏―頼氏・貞氏)のみならず、斯波氏(太郎家氏のあとの「宗家―家貞―高経」)、渋川氏(次郎義顕のあとの「義春―貞頼―義季」)などの分家筋でも嫡流の継承者が「三郎」を称していたようである。

太郎長氏のあとの吉良氏も同様であったことは、『吾妻鏡』での「足利上総三郎満氏」、【史料3】の「足利上総三郎」と思しき満義、『太平記』の「吉良上総三郎満貞」で確認が出来るし、後世・江戸時代の成立ではあるが『寛政重修諸家譜』所収の吉良氏系図によると、満貞以降も子・俊氏義尚義元義安の仮名が「三郎」であった*55というから、吉井氏が述べるように「上総三郎」は「足利長氏流惣領の通称だった」と見なして良いだろう。よって、"弥太郎" 貞義は最終的に家督を継いでいるものの、それには該当していない。

 

貞義の仮名「弥太郎」について

二つ目に、それまで「義氏―長氏―満氏」と「」を通字としてきた点である。前述の斯波氏・渋川氏もその例だが、"得宗専制"体制強化の一環として、執権・北条貞時が一字付与の範囲を各御家人嫡流以外にも拡大しつつあった中で、満氏の嫡男が吉良氏で初の北条氏得宗からの一字拝領となったが、貞時の「貞」字を受けたからといって、「氏」を避け「義」字を用いる理由は特にないと思う。

 

鎌倉時代後期の足利宗家でも同様に「氏」ではなく「義」字を用いたケースがあったが、参考までに見てみよう。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちらの記事▲で紹介の通り、"足利三郎"貞氏の長男・左馬助高義(『尊卑分脈』)と思しき「足利左馬助」の若き家督としての活動が確認されており(『鶴岡両界壇供僧次第』)、その諱が「高」ではなく「高」と名付けられた背景には、9代執権・貞時が源氏将軍を擁立する動きを封じ込めるべく足利氏宗家を「源氏嫡流」として公認したことがあり、清和源氏の通字でもあった「義」がその証であったと考えられている。

但し高義は文保元(1317)年に早世し『蠧簡集残編 六』所収「足利系図、2年後の元応元(1319)年に元服した貞氏の次男は「又太郎高氏」を名乗ったと伝えられる(のちの足利尊氏、『続群書類従』所収「足利系図」)が、恐らく生前の高義の仮名が「三郎」であったためではないかと思われる。

 

 

 

しかし、吉良氏においてはそういった理由も特に無かっただろう。繰り返すが、貞義の仮名は「(上総)三郎」ではなく「弥太郎」だったのであり、「義」字の使用については足利高義と同様の理由は当て嵌まらない。どちらかと言えば、兄の早世により跡を継いだ足利又太郎高氏と同様だったと考えられよう。この観点からも、貞氏が兄、貞義が弟であったと判断しておきたい。

尚、「弥太郎」の "弥" は「孫」を意味する*56。例えば、3代執権・北条泰時は、自身の在任中に長男・時氏が先立って早世すると、その遺児である藻上御前を嫡孫に指名し、元服の際には「四郎経時(のち4代執権)」と名乗らせている。

8代執権・北条時宗が亡くなった弘安7(1284)年4月に出家した父・吉良満氏(上総入道自省、【系図1】より)も間もなくその後を追うようにして他界した可能性があり、吉井氏が述べるように「1285年には足利上総貞氏が吉良惣領家を家督していた可能性が高」い。85年11月の霜月騒動で貞氏は討たれてしまったが、祖父・長氏がまだ存命であった*57

系図1】で紹介した『尊卑分脈』は室町時代以降に広く増補改訂されたために複数の異本が伝わるが、前田家所蔵林家訂正本を底本とする国史大系本『尊卑分脈』の吉良貞義の注記には「為祖父長氏子(祖父長氏の子と為す)」とも書かれており*58貞義が祖父・長氏の養子として吉良惣領家を継承したと見なせる。「弥太郎」は「太郎長氏の嫡」ということで付けられたものと判断される。

*【系図1】にあるように、満氏には「足利太郎」を名乗る猶子・経氏がいたため、「弥太郎」にはそれと区別の意図もあったのかもしれない。 

 

(参考ページ)

● 吉良貞義 - Wikipedia

 吉良貞義(きら・さだよし)とは? 意味や使い方 - コトバンク

 吉良貞義とは 社会の人気・最新記事を集めました - はてな

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*2:大倉稲荷跡(おおくらいなりあと)とは? 意味や使い方 - コトバンク平安京|国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書|ジャパンナレッジ大内裏図〕の項。瀧浪貞子「平安京と京都」(所収:『東アジアの都市形態と文明史』21巻、国際日本文化研究センター、2004年)P.238。

*3:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.710 では「貞家」とするが、これは誤りであろう。吉良貞家は貞義の義兄弟にあたる経氏の孫(経氏―経家―貞家)にあたる。

*4:群書類従 第拾四輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション難太平記6・足利高氏の上洛谷口雄太氏の「太平記史観」と「難太平記史観」 - 学問空間『難太平記』(文語版)

*5:1336年の京都四条河原の戦いのこと。詳細は、同じく討ち死にした二階堂光貞 - Henkipedia【史料C】または三浦貞連 (因幡守) - Henkipedia【史料5】を参照のこと。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*7:群書類従 第拾四輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション。小谷俊彦「鎌倉期足利氏の族的関係について」〈所収:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉(戎光祥出版、2013年) P.153~154〉。

*8:『大日本史料』補遺(6-3)P.10

*9:『大日本史料』6-7 P.565566~567

*10:松島周一「室町初期の吉良氏 ―貞義から満貞へ―」(所収:『愛知県史研究』18号、2014 年)(以下「前掲松島論文」と略記)P.1~2。 P.227 別表1註 (12)。

*11:吉良貞義 - Wikipedia より。

*12:吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」〈田中氏著書 P.168~169〉。尚、一部文中……は略してある。

*13:『鎌倉遺文』第41巻32136号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*14:『鎌倉遺文』第41巻収録の文書では、元弘3年4月29日付「足利高氏願文」(32120号、『丹波篠村八幡宮文書』)に「前治部大輔源朝臣高氏」、【史料3】と同じ『伊勢光明寺残篇』にも載せられている5月2日付「足利高氏請文案」(32127号)および同月24日付「足利高氏御教書案」(32206号)に「前治部大輔高氏」とある。

*15:谷俊彦「鎌倉期足利氏の族的関係について」〈田中氏著書 P.147〉。

*16:南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)39号 または『大日本史料』6-1 P.421~422【論稿】北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia〔史料A〕も参照。

*17:『大日本史料』6-20 P.854

*18:『大日本史料』6-11 P.46

*19:『大日本史料』6-20 P.855

*20:前掲松島論文 P.15【史料V】参照。

*21:群書類従 第拾四輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション。現代語訳の 難太平記3・今川一族について も参照のこと。

*22:『常楽記』などによると "今河五郎入道" 範国(心省)がこの年に死没したという(→『編年史料』後亀山天皇紀・元中元年4~9月 P.13)。

*23:『大日本史料』6-20 P.853~の各史料を参照。

*24:新編西尾市史編さん委員会編『新編西尾市史 通史編1 原始・古代・中世』(愛知県西尾市、2022年)P.391。

*25:前注同書 P.390。寛政重修諸家譜』第1輯所収「吉良氏系図」満義の項にも従四位上・昇殿の注記が見られるのが典拠か。

*26:中務の大輔(なかつかさのたいふ)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。

*27:左京の大夫(さきょうのだいぶ)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。

*28:左兵衛佐(サヒョウエノスケ)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。

*29:右兵衛督(ウヒョウエノカミ)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。

*30:大日本史料』6-9 P.273278・。

*31:大日本史料』6-9 P.285304305

*32:『大日本史料』6-9 P.313

*33:前掲松島論文 P.16 註(17)。

*34:『大日本史料』6-13 P.993

*35:『大日本史料』6-14 P.448

*36:『大日本史料』6-15 P.157。前掲松島論文 P.4。

*37:前掲松島論文 P.16 註(18)。

*38:のちの鷲見干保(すみ・もとやす、法名: 禅峰)。高鷲古文書読ままい会・長善寺文書開始 - 文ちゃんのページ および 武家家伝_鷲見氏 より。

*39:『大日本史料』6-15 P.299。前掲松島論文 P.5。

*40:前掲松島論文 P.6~10。

*41:前掲松島論文 P.9。

*42:『大日本史料』6-31 P.1

*43:『編年史料』後亀山天皇紀・元中元年4~9月 P.73

*44:治部の大輔(じぶのたいふ)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。

*45:左馬頭(さまのかみ)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。

*46:左兵衛佐(サヒョウエノスケ)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。

*47:武家家伝_足利氏(鎌倉公方) より一部抜粋。

*48:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」註(30)〈田中氏著書 P.208〉。典拠は『民経記』寛喜3(1231)年正月29日条 および『明月記』同月30日条。

*49:前掲松島論文 P.10。

*50:大日本史料』6-14 P.959962

*51:『鎌倉遺文』第21巻16014号。佐藤鉄太郎「岩門合戦について」(所収:『中村学園研究紀要』第28号、中村学園大学・短期大学児童学科、1996年)P.59。

*52:前注佐藤論文 P.60~61。

*53:同年7月11日付「北条実政書下案」(『古証文七』所収、『鎌倉遺文』第21巻16294号)では「前上総介」の署名が見られ、10月13日付「関東下知状案」(『東京大学法学部資料室所蔵文書』所収、『鎌倉遺文』第21巻16366号)の文中にも「守護人前上総介実政」とある。

*54:http://kitabatake.world.coocan.jp/kani-tihou9.html より。

*55:Wikipediaによると義信(義尚の甥で義元の父)、義堯(義元の子で義安の父)、義郷(義堯最初の嫡男であったが義安幼少の時に戦死)、義定(義安の子)、更にはその曽孫・吉良上野介義央までもが、仮名が「三郎」であったという。

*56:弥右衛門 - Wikipedia

*57:『寛政重修諸家譜』所収の吉良氏系図によると、長氏の傍注に「正応三年六月十八日卒す。」とあり、正応3(1290)年まで生きていたらしい。

*58:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第三篇』(吉川弘文館、1983年)P.264。