Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

安達時顕

安達 時顕(あだち ときあき、1282年頃?~1333年)は、鎌倉時代後期から末期にかけての武将、御家人法名延明(えんめい / えんみょう)。通称は秋田城介、城入道、別駕など。

 

 

系譜・生年・烏帽子親について

尊卑分脈(以下『分脈』と略記)等によれば、父は安達宗顕、母は山河重光(山川重光)の娘。子に安達高景安達顕高、女子北条高時室:後掲【史料11】・【図16】)、女子二階堂貞衡室・二階堂高衡(行直)母)*1がいる。

 

f:id:historyjapan_henki961:20190405134746p:plain

▲【図1】『尊卑分脈』〈国史大系本〉より、安達氏顕盛流の系図

historyofjapan-henki.hateblo.jp

「弘安八被誅廿一」とある通り、父・宗顕は弘安8(1285)年の霜月騒動に際し誅伐され、遠江で自害しており*2この時までに時顕は生まれている筈である。そして宗顕はこの時享年21であったというから、親子の年齢差を考えれば時顕はまだ生まれたばかりの幼児であったことも確実で、次の史料により裏付けられる。

 

【史料2】(文保元(1317)年11月)「安達宗顕三十三年忌表白文」より*3

「……適雖出襁褓之中、未離乳母之懐中、纔雖遁戦場之庭、未離懐飽之膝上……」

(現代語訳:襁褓(むつき)を出たとはいえ、未だ乳母の懐の中を離れず、辛うじて戦場を遁れたが、まだ抱きしめてくれる膝の上を離れていなかった)

 

この史料を紹介された細川重男*4は、これを基に弘安5(1282)年頃の生まれと推定されている。細川氏は、16歳の時に父(時顕の祖父)顕盛を亡くした宗顕は伯父で惣領の安達泰盛 或いは 北条政長の庇護下にあったと考えられ、その時期に生まれたと考えられる霜月騒動の後も政村流北条氏の庇護下で成長し、その当主・北条(政長の兄、1287年鎌倉に帰還)を烏帽子親として元服し「」の偏諱を受けたと説かれている。

f:id:historyjapan_henki961:20190405165437p:plain

▲【図3】安達宗顕 周辺関係図*5

 

 

史料上における秋田城介時顕

本節では、時顕に関連する史料を幾つかピックアップして紹介しておきたい。

 

 ★1300年頃?:左兵衛尉任官か。

*『分脈』(前掲【図1】)によれば、「加賀兵衛尉」とも呼ばれたというが、祖父・顕盛の最終官途=加賀守 に因んだものであろう。但し、今のところこの通称で書かれた史料は見つかっていない。

 

【史料4】『花園天皇宸記』元弘元(1331)年10月21日条の頭書:「高景者、以正安時顕参入之例参入、……」

前日(20日条)にはこの頃、安達高景二階堂貞藤(道蘊)と共に東使として上洛したこと*6が記されるが、ここには高景が正安年間(1299~1302年)に父・時顕が東使として参った前例に倣ったとあり、これが史料上で確認できる時顕の最初の活動であろう。

 

 ★この間に秋田城介継承か。

 

【史料5】嘉元2(1304)年2月29日付「秋田城介添状案」(『金剛三昧院文書』)*7:発給者の署名「秋田城介

*『鎌倉遺文』では秋田城介=宗景とするが、宗景は霜月騒動で亡くなっている*8からこれは明らかに誤りである。この頃に秋田城介であり得るのは時顕しかいないだろう。

 

【史料6-a】『歴代皇紀』嘉元4(1306=徳治元)年2月条:「二月……関東使 城介時顕 能登入道行海(=二階堂政雄)…… 」

【史料6-b】『実躬卿記』徳治元年2月13日条:関東御使(東使)として前日の夜に京都入りした「秋田城介時顕」、9日に入洛「能登入道行戒〔ママ〕」と共に関白亭に参る。

【史料6-c】『実躬卿記』同年2月25日条:「東使城介時顕」、かつて使節として上洛した祖父・顕盛が後嵯峨天皇から、その弟・長景が亀山天皇から、各々御剣を下賜された先例に倣って御剣を賜うとの話があって召し出されるが、後宇多上皇は参らず。筆者の正親町三条実躬はこのことについて「不審」と表現。

【史料6-d】『実躬卿記』同年2月27日条:「今暁城介時顕下向云々(=鎌倉へ帰る)

 

【史料7】『一代要記』徳治2(1307)年正月22日条:「徳治二年丁未正月二十二日東使時顕入洛(=東使として再上洛)

 

【史料8-a】『武家年代記』徳治3(1308=延慶元)年7月8日条: 「延慶元七八、久明親王可有御上洛之由、以城介被申入之、

【史料8-b】『北條九代記』正応2(1289)年条(『鎌倉年代記』と同内容):将軍・久明親王についての記事に「徳治三年七月八日、有御上洛之由、以秋田城介時顕被申之」。

 

【史料9】「金沢貞顕書状」:延慶2(1309)年4月の寄合衆の中に「別駕(下記記事の史料を参照)

*「別駕」とは、諸国の介(すけ)唐名*9。秋田城"介"であった時顕に比定される。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

【史料10-a】『元徳二年三月日吉社並叡山行幸記』:「……十月小 長井左近大夫入道ゝ漸秋田城介時顕上洛……」

【史料10-b】『延慶三年記』延慶3(1310)年10月17日条*10

十七日、天晴、自関東使節両人之内一人城介令京着方〔ママ〕云々、尾張国一国召具登云々、相州禅門(=貞時)被付之云々、或為山門沙汰上洛之説在之、又或為謀叛人沙汰令着上之説有之、

これらの史料により、延慶3(1310)年10月、東使として長井貞広と上洛したことが分かる。

*『鎌倉大日記』にも「長井左近大夫将監入道・秋田城介時顕為使入洛」とあり、『増補 続史料大成』第51巻では延慶元年条に書かれているが、生田美喜蔵所蔵本では同3年条にあるといい、上記2つの史料を裏付けるものとなる。

 

【史料11】『保暦間記』より

……彼(=北条高時内官領長崎入道円喜ト申ハ、正応ニ打レシ平左衛門入道〔=が:以下同じ〕光綱子、高時秋田城介時顕、彼ハ弘安ニ打レシ泰盛入道覚真カ舎弟、加賀守顕盛カ孫也、彼等二人ニ、貞時世事申置タリケレハ、申談シテ如形子細ナク年月送ケリ、…… 

*この史料により、時顕が泰盛の弟・顕盛の孫であったこと、北条高時の舅(岳父)であったことが分かる。後者については後掲【図16】(『系図纂要』)にも記載があるほか、金沢流北条顕実・時雄・貞顕三兄弟の母親である入殿(遠藤為俊の娘、金沢顕時の妻)に関する史料「入殿三十五日回向文土代」(『金沢文庫文書』)*11の文中に「彦子為副将軍之夫人(彦子副将軍の夫人と為(な)る)」とあり、『正宗寺本北条系図』を見ると金沢顕時の子・顕雉〔ママ、=時雄*12の娘に「秋田城之介時顕」と書かれることから、「入殿―時雄―女子(時顕妻)―女子(高時*13妻)」という系譜であったと考えられている*14

 

【史料12】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用の、施薬院使・丹波長周の注進状*15

f:id:historyjapan_henki961:20190124223746j:plain

 

【史料13】『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)*16:元亨3(1323)年10月の貞時十三年忌供養に関する史料。

・ 25日の法要において「御願文」の「清書」を「秋田城介時顕朝臣」が担当。

・ 同日の「一品経調進方々」の中に「安楽行品 城介殿(=卅貫)」。

・「廿六日、法堂供養也、……同堂左雨打間、太守(=北条高時御坐、其次間、別駕・洒掃・長禅(=長崎円喜以下御内宿老参候、……」

・「……凡今月中旬以来、於此 、諸方御追修計会、……城務廿六日、……」

・ 27日の法要では「城介殿」が「砂金百両 銀剱一」を献上。

 

【史料14】『鎌倉年代記』/『北條九代記』

元亨2(1322)年条:「七月十二日引付頭 守時 顕実 時春 貞直 時顕

嘉暦元(1326)年条:「五月十三日引付頭 茂時 顕実 道順 貞直 延明

引付頭人のメンバーを記したものであるが、1322年から1326年の間にその変化がある。しかし、三番引付頭人は塩田流北条時春が出家して「道順」と号したものであり*17、五番引付頭人についても安達時顕がこの間に出家したための変化であることが窺える。その期間は1324年*18~1326年の間に絞り込められ、時顕の法名が「延明」であったことは次の史料により裏付けられる*19

 【史料15】「鎌倉幕府評定衆等交名」根津美術館蔵『諸宗雑抄』紙背文書 第9紙*20

相模左近大夫将監入道   刑部権大輔入道道鑒〔ママ*〕

城入道延明       山城入道行曉

出羽入道道薀        後藤信乃入道覺也

信乃入道道大        伊勢入道行意

長崎左衛門入道      同新左衛門尉高資

駿川守貞直

*:道準または親鑒の誤記か。

相模左近大夫将監(北条泰家)行暁(二階堂行貞)覚也(後藤基胤)道大(太田時連)行意(二階堂忠貞)が出家後の通称で記載されていることから、彼らが正中3(1326=嘉暦元)年3月の北条高時剃髪に追随して出家した後の評定衆などのメンバーを記したものと分かる。そしてこれは行暁(行貞)が亡くなる嘉暦4(1329)年2月2日までに書かれた筈であるから、この史料からも時顕(延明)が嘉暦年間に出家していたことが確実となり、細川重男がご推測の通り正中3(1326=嘉暦元)年3月の娘婿・北条高時の剃髪に追随したと思われる*21。時顕の法名「延明」については次の系図にも記載が見られる。 

f:id:historyjapan_henki961:20190405012545p:plain

▲【図16】『系図纂要』安達氏系図 より

 

そして、この【図16】と冒頭の【図1】に共通して、元弘3(1333)年5月22日の東勝寺合戦において自害したとの記載があり、次の史料により裏付けられる。 

【史料17】『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」

(前略:長崎高重→摂津道準(親鑑)→諏訪直性(宗経)→長崎円喜・長崎新右衛門(高直カ)の順に切腹)……此小冠者に義を進められて、相摸入道(=高時…【図16】)も腹切給へば、城入道続て腹をぞ切たりける。是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕小町中務太輔朝実〔ママ〕常葉駿河守範貞……城加賀前司師顕〔ママ〕・秋田城介師時〔ママ〕・城越前守有時〔ママ〕……城介高量〔ママ、高景〕同式部大夫顕高同美濃守高茂秋田城介入道延明……、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。…………嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

この『太平記』は元々軍記物語で、多少の脚色も無くはないが、史実に基づいて描かれている。時顕(延明)がこの時亡くなったことは、次節に掲げるその後の史料によっても裏付けられよう。

 

時顕死後の所領について

【史料18】(元弘3年8月5日)「足利尊氏宛書状」(『比志島文書』)*22後醍醐天皇から「足利殿(=足利尊氏」に恩賞として与えられた幕府旧領の中に「同国(=武蔵国麻生郡時顕」。

f:id:historyjapan_henki961:20200603030522p:plain
▲【図18'】麻生の歴史を探る 麻生郷〜尊氏領〜 | 麻生区 | タウンニュース より拝借

*冒頭には「泰家」、「貞直」のように書かれており、その後は同人が続く場合に「同」と記すなど、略記されていることが窺える。従って「時顕」の部分も「」が省略されていると考えられ、武蔵国麻生郡が時顕が所有する鎌倉幕府直轄領(旧領)であったことが分かる。同地は現在の神奈川県川崎市麻生区に相当し、この史料は「麻生」の地名が初出するものとしても注目されている

尚、この「時顕」は上図にあるように、【史料17】の自害者の一人である金沢流北条氏一門の甘縄時顕(顕実の孫)にも比定し得るが、泰家が法名の「恵性」で書かれていないことから、安達時顕(延明)の可能性も捨てきれない。

 

【史料19】康永2(1343)年3月4日付「室町幕府引付頭人石橋和義奉書案」(反町英作氏所蔵『色部文書』)*23

 (張紙)「十四、左衛門佐遵行状案」

青木四郎左衛門尉武房等申越後国小泉庄事、申状具書如此、於色部遠江権守長倫・平蔵人長高(=色部長高)秩父左衛門次郎持長・山城入道行暁・安富大蔵大夫空円(=安富長嗣)者、所被糺明也、至城入道後藤信濃入道等跡闕所分者、不日止本庄左衛門次郎(=持長)以下輩濫妨、任御下文、可被沙汰付、更不可有緩怠之儀之状、依仰執達如件、

 康永二年三月四日  左衛門佐(=和義)

  上椙民部大輔殿  在判

 

【史料20】延文2(1357)年6月11日「越後守護代芳賀高家施行状」(『桜井市作氏所蔵文書』)*24

当国瀬波郡小泉庄内城介入道五藤〔ママ、後藤〕信乃入道二階堂山城入道等事、為兵粮料所々被預置也、一族并同心之輩、依忠浅深、可被配分之由候也、仍執達如件、

 延文二年六月十一日 伊賀守(花押)

  色部遠江(=色部長忠)殿

」の記載がある通り、越後国小泉庄内にあった時顕二階堂行貞(行暁)後藤基胤ら【史料15】にも名を連ねる高時政権中枢メンバーの旧領が、幕府滅亡後闕所地となり(行貞と基胤は幕府滅亡前に逝去)、【史料20】は色部長忠が芳賀高家(正しくは高貞か)よりこれらの闕所地を「忠の浅深」によって「一族并びに同心の輩」に配分する権利を得たものである。

時顕の死後、その旧領であった麻生郡は尊氏に、 小泉庄内の所領も色部長忠一族らに渡ったのであった。  

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

(参考ページ・論文)

 安達時顕 - Wikipedia

 安達時顕(あだち ときあき)とは - コトバンク

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その89-安達時顕 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)

 細川重男「秋田城介安達時顕 得宗外戚家の権威と権力ー」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)

 

脚注

*1:『分脈』二階堂氏系図の行直の注記に「母城介時顕女」とある。

*2:福島金治 『安達泰盛鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』(有隣新書、2006年)P.174。

*3:『鎌倉遺文』第34巻26431号。

*4:以下、細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)第二節「出自」P.142~145 に従って解説する。

*5:注4前掲細川氏著書 P.144 より。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その90-安達高景 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。尚、同職員表は細川氏の著書『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末にも掲載。

*7:『鎌倉遺文』第28巻21756号。

*8:安達宗景 - Henkipedia より。

*9:別駕(ベツガ)とは - コトバンク より。

*10:『延慶三年記』 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)参照。

*11:『鎌倉遺文』第37巻28544号。

*12:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.5。

*13:得宗貞時・高時の「副将軍」呼称については、注6前掲細川氏著書 P.263~264 注(55)を参照のこと。この場合の「副将軍」は年代的に考えて高時でしかあり得ない。

*14:注6前掲細川氏著書 P.151。

*15:注6前掲細川氏著書 P.19 より。

*16:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.690・696「別駕」・697・698・699・705・710。

*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その39-塩田時春 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*18:『花園天皇宸記』元亨4(1324)年10月30日条の裏書に「時顕」とある。注4前掲細川氏著書 P.150。

*19:他にも『増鏡』17「月草の花」の文中に高時・貞顕・円喜と並んで「城介入道円明〔ママ〕」とある。注4前掲細川氏著書 P.149 より。

*20:田中稔「根津美術館所蔵 諸宗雑抄紙背文書(抄)」(所収:『奈良国立文化財研究所年報』1974年号、奈良国立文化財研究所)P.8。

*21:福島金治の見解では、高時の弟・泰家に追随しての出家とする(→コトバンク所収『朝日日本歴史人物事典』「安達時顕」の項)が、泰家は高時の後、貞顕が次の15代執権となったことを恥辱として出家したのであり、いずれにせよその時期はほぼ変わらない。元々安達氏一族は、一門・大室氏出身の母を持つ泰家を後継の執権に推挙していた。

*22:『大日本史料』6-21 P.853

*23:清水亮「南北朝期における在地領主の結合形態 ―越後国小泉荘加納方地頭色部一族―」(所収:『埼玉大学紀要 教育学部』第57巻第1号、埼玉大学教育学部、2008年)P.8。『新潟県史 資料編 中世』1047号文書。

*24:前注清水氏論文 P.10。『新潟県史 資料編 中世』2755号。