Henkipedia

偏諱に関するコラムを綴る。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。鎌倉幕府御家人などの名前に着目し、誰から1字を貰ったかについての個人的な見解も論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ、1305 - 1358)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。初めは鎌倉幕府御家人で 足利高氏(読み同じ)を名乗っていた。のち室町幕府の初代征夷大将軍

父は足利貞氏。母は上杉頼重の娘・清子。 

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▲伝足利尊氏像(浄土寺蔵) 

 

人物・生涯については

 足利尊氏 - Wikipedia

を参照いただければと思う。 

本項では、「高氏」「尊氏」それぞれの名前に焦点を当てて解説する。

 

 

足利高氏命名

続群書類従』所収の「足利系図」によれば、尊氏の元服は、元応元(1319)年、15歳 (数え年) の時であったという*1

尊卑分脈』には尊氏が当初「高氏」と名乗っていたことが記載されているが、多くの史料によって確かであることは先行研究で明らかにされており、改めて言うまでもない。この高氏とその父・貞氏の命名について、南朝側の所伝をまとめたという『(異本)伯耆巻』には次のように書かれている*2。 

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〔史料A〕『伯耆巻』(名和伯耆太郎兵衛長興家蔵本)の写(30ページ目)より一部抜粋

足利讃岐守、相模守貞時が烏帽子子にて貞氏と号し 其(その)子高氏は赤橋武蔵守久時が聟(むこ)と成て治部大輔に任ぜられける 高氏も高時が称号の一字を受て高氏とぞ付ける

 

冒頭は、"足利讃岐守は北条の烏帽子子であったので氏」と名乗った" というニュアンスで捉えられ、実際に一字を与えられたことは見て明らかである。この史料の記述が実際の出来事を記録したものであるのかは分からないが、仮に後世の創作であったとしても、偏諱を受けた理由=烏帽子親子関係 として解釈されていることが分かる。

高氏についても、「…」と書いているから、時から一字を受けた理由も烏帽子親子関係として読み取れる。『尊卑分脈』には、兄に義がおり、弟の直義が当初「国」を名乗っていたことも記されていて、同様であったことに疑いはない。

 

(参考記事)

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

元服当時、嫡男であった高義が既に亡くなっていたにもかかわらず、足利氏の家督継承者が称する「三郎」を名乗っていないことについては、高義の遺児の成長をにらんで高氏の家督継承が直ちに確定したわけではなかったとする見解がある*3。「高氏」の名は、それまでの当主に見られる「得宗偏諱+通字の氏」の構成にはなっているが、「氏」字の使用はあくまで高義と同名を避けただけであり、必ずしも嫡子としての名乗りを意味するものではなかったようだ。但し、それまでの嫡流継承者と同じ構成の名乗りであることも事実で、逆に、貞氏が亡くなり、高氏が中継ぎの当主として家督を継ぐことを見込んでいた可能性も否定はできない*4

 

 

足利尊氏への改名 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 足利高氏の改名については、水野智之氏の著書*5に詳しいので、それに従って概要を記しておきたいと思う。

それによれば、高氏が「尊氏」と表記を改めたのは、鎌倉幕府滅亡後まもない頃であったことが次の史料により明らかとなっている。  

〔史料B〕『公卿補任』元弘三(1333)年条

非参議 従三位 源尊氏 八月五日叙す、元 左兵衛督、従四位下

今日 以高字為尊(高字をもって尊(字)となす)。同日武蔵守を兼ねる。

 

「尊」の字に改めた経緯については、『太平記』に記されている。 

〔史料C〕『太平記』巻十三「足利殿東国下向事付時行滅亡事」

(前略)…足利宰相高氏卿……去ぬる元弘の乱の始、高氏御方に参ぜしに依て、天下の士卒皆官軍に属して、勝事を一時に決候き。然ば今一統の御代、偏に高氏が武功と可云。…(中略)…征夷将軍の事は関東静謐の忠に可依。東八箇国の官領の事は先不可有子細とて、則綸旨を被成下ける。是のみならず、忝も天子の御諱の字*を被下て、高氏と名のられける高の字を改めて、尊の字にぞ被成ける。…… 

天子(=後醍醐天皇)の諱「尊治(たかはる)」の「尊」の字。

この記事(『太平記』)は改名の時期を中先代の乱(1335年7月)の折としているが、あくまで軍記物語であるため、上の公卿補任』が示す元弘3(1333)年8月5日が正しいとされる。

しかしながら、偏諱の授受については太平記』のような書物が流布したことによって、後醍醐天皇*6)から高氏(氏)へ一字が下されたとの解釈で伝えられていったようである。

www.youtube.com

▲(NHK大河ドラマ太平記』より)

 

天皇がたかが関東の一武人に自分の名の一字を与えるというこの現象は前代未聞のことであったが、なぜ上の字(一文字目の「尊」)を下賜したのか、ということについては、明治時代に疑問が提起された*7ようであり、これに対する帝国大学教授・星野恒 氏の回答についても水野氏著書に詳しく解説されている。要約すると次の通りである。

 

上の『公卿補任』の記事(〔史料B〕)に掲げたように、従三位に叙せられた当日に「高」を「尊」に改めたというから、これは別に綸旨や宣旨で正式に偏諱を与えたというわけではないようだ。そもそも足利尊氏は、母が北条氏一門(赤橋流)の出身者であり、頼氏や貞氏の例に倣う形で得宗・高時の偏諱を受け「高氏」を名乗っていたので、朝廷への臣属を示すにあたり、たまたま「」の字と同訓(読みが「たか」)である、後醍醐天皇の諱「尊治」の「」の字を賜って改名したい旨を自ら申請したのではないかという。

これに対して後醍醐天皇も、倒幕に貢献した高氏に対し無下に拒みづらく、かと言って関東の一武士に対し公然と一字を綸旨や宣旨の形で与えた前例も無いため、ただ位記に「尊氏」と記すという形でうまく対応したようだ。故に、後に尊氏が天皇に叛逆した際も、天皇としては元々綸旨や宣命(せんみょう)等で正式に「尊」字を与えたという認識ではなかったので、官位の剥奪は出来ても、「尊氏」の名乗りを辞めさせることが出来なかったのだという。

 

弟の直義(初め国)をはじめ、鎌倉幕府滅亡後に北条時からの偏諱」を棄てた御家人が多く確認される*8が、その中で、実のところ、後醍醐天皇(尊治)から一字を賜ったのは氏だけではないようで、小田知より改名した小田の「」がその偏諱であったらしい*9

その他、Wikipedia等ネットでの情報なので史料的根拠が定かではないが、一応紹介しておくと、吉見氏から渋川直頼の猶子となった渋川(吉見尊頼)*10後醍醐天皇から一字を賜ったようである。

ちなみに、尊氏自身も一族の吉良*11や家臣の饗庭*12に「尊」の字を与えていたようであるが、尊義や尊宣の元服*13の段階では後醍醐天皇は既に亡くなっていた*14ので、尊氏が自身の偏諱として与えることに特に問題は無かったと思われる。

 

 

脚注 

*1:この系図の尊氏の項には「元応元年叙従五位下。同日任治部大輔。十五歳元服。無官。号足利又太郎。」と書かれている。紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)P.11。

*2:この史料については、今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要』第24号、2017年)P.49 を参考とした。

*3:清水克行 「足利尊氏の家族」 (所収:櫻井彦、樋口州男、錦昭江編『足利尊氏のすべて』(新人物往来社、2008年))P.125~142。

*4:恐らく足利氏としては、高義遺児が成長した段階では得宗の地位は高時の嫡男に移っており、その新・得宗からの一字拝領を想定していたのかもしれない。歴史学としては本来仮説で論じるのはよろしくないが、仮に倒幕の動きが無ければ、高義遺児は高時の嫡男・邦時を烏帽子親として「邦氏」「邦義」等を名乗っただろう。

*5:水野智之『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』〈歴史文化ライブラリー388〉(吉川弘文館、2014年)P.62-66。

*6:鎌倉年代記』・『武家年代記』元応元(1319)年条など。

*7:『史学雑誌』第六編第一号(1895年刊行)の「答問」に、山口県の河田心順氏より。

*8:これについては、北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia を参照のこと。

*9:大日本史料』6-17 P.294(典拠は『常陸誌料』五 小田氏譜上)に「治久、初名高知、後醍醐天皇偏諱、因更治久、……(中略)……自延元元年至興國二年、……賜御諱…(以下略)」とある。

*10:尊卑分脈』によれば、後に義宗に改名したという。

*11:寛永諸家系図伝』や『系図纂要』の吉良氏系図では「尊義」、尊卑分脈』では「義尊」または「義実」とする(『大日本史料』6-20、P.853-854。)。同時代の史料である「寂光寺殿松岩猷公大禅定門十三周忌拈香并陞座」(『友山録』)では「義貴」とあり、ネット情報では初名とする。

*12:詳しくは、小林輝久彦氏「室町幕府奉公衆饗庭氏の基礎的研究」(所収:『大倉山論集』第63輯、大倉精神文化研究所)P.160 を参照。→ こちら でご覧いただけます。

*13:『源威集』によると、饗庭尊宣の元服は1354年11月に行われたという(前掲小林論文同箇所)。一方、吉良尊義の生年は1348年であり、同じ頃の元服であったと推測される。

*14:武家年代記』元応元(1319)年条によると、後醍醐天皇崩御は暦応2(1339=延元4)年8月16日である(暦応2年条にも同日に52歳 (数え年) で亡くなったことが記されている)。