Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

二階堂時藤

二階堂 時藤(にかいどう ときふじ、1267年頃?~1352年?)は、鎌倉時代後期の武将、御家人法名道存(どうぞん)。

父は二階堂行藤。子に二階堂有藤(ありふじ、甥で養子、弟・貞藤の子)、女子、二階堂成藤(なりふじ、養嗣子、一族・荻薗盛行の子)二階堂行敦(ゆきあつ、妻は成藤の姉または妹)がいる。*1

 

 

生年と烏帽子親について 

寛元4(1246)年生まれとされる父・行藤*2との現実的な年齢差を考えれば、およそ1266年以後の生まれと判断できる。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

そして、こちら▲の記事にて、同じく行藤の子である貞藤の生年を1273年と結論づけたので、『尊卑分脈』の記載通りであれば、貞藤の兄である時藤はこれより前には生まれていることになる。

以上より、藤の生年は1266~1273年の間と推定できる。同記事でも述べた通り、「時」の字は当時の執権(8代)であった北条宗の加冠により元服し、その偏諱を受けたものとみられ、更に『尊卑分脈』には「備中守」「正安三八ゝ出家道存」と注記される*3ことから、正安3(1301)年までの国守任官ということを考えると、同年の段階で30代の年齢に入っていたことが推測できるので、1260年代後半には生まれていたのではないかと思う。それ以上は推定し得る史料が今のところ無いので、暫定で、上記記事で否定した貞藤の生年に関する有力な1267年説を、そのまま時藤に当てはめてみることにしよう。

 

ちなみに、『実躬卿記』永仁2(1294)年4月17日条には、この日の京都賀茂祭に後深草法皇(この記事上では「上皇」と記述が臨幸した際にお供した「官人」の中に「関東上洛之仁両人 丹後次郎判官行貞・出羽次郎判官時藤已上五位尉」が含まれており、出羽守・二階堂行藤の「次郎(本来は次男の意)」 である時藤に比定される。恐らくこれが史料上での初見であろう。「位尉」とも記されている通り、叙爵済みで、かつ左衛門在任であったため、律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称である「判官 (はんがん/ほうがん)*4を名乗っていたことが分かる。

従って左衛門尉任官年齢を考えると、この頃およそ20代以上であったと考えて良いと思われるので、遅くとも1270年頃の生まれとみなすことが可能である。よって、時藤の生年は1267~1270年あたりと推定される

 

 

時藤の生涯 と 子孫の活動 について

松平伯爵本『結城文書』所収の書状によると、興国元(1340)年7月17日、陸奥国の「岩瀬郡内西方道存跡」が「結城大蔵大輔殿」(=結城親朝に預けられ*5、有造館本『結城古文書写』所収の翌々日(19日)の書状にはその「岩瀬郡道存跡西方廿一ヶ郷」の管理が白河親朝に任せられたことが見える*6

江戸時代に中山信名がまとめた『関城書考』の記述によれば、この「道存(どうぞん)」は「二階堂備中守時藤法名」であるといい、「官軍ヲ勤メ正平中ニ至テ八幡ノ合戦ニ戦没」したことが「保土原系図」に見えるという*7。前述した系図での二階堂時藤の注記「備中守」「正安三八ゝ出家道存」に一致し、正中7(1352)年の八幡の戦い(正平の役)*8のことを言っているのであろう。

 

今一度整理すると、まず正安3(1301)年8月に出家したという。前述の通り『尊卑分脈』に記されるところであるが、父・行藤法名:道我 / 道暁 / 道円)も同月に出家したと書かれており、恐らく同月22日の9代執権・北条貞時の出家に追随したものであろう*9

それ故にか、その後の北条高時政権においては弟の貞藤(出羽入道道蘊)の活動が目立ち、時藤は事実上表舞台から引退していたとも言えよう*10。 

 

鎌倉幕府滅亡後、行藤流の中心(惣領)的な役割を担っていた貞藤は、建武政権下で雑訴決断所寄人を務めていたが、西園寺公宗による北条氏再興の陰謀に加担したとされて、建武元年12月(1335年1月)、長男の兼藤とともに六条河原にて処刑されてしまった。これに伴い、時藤(道存)が復帰することになり、やがて新たに成立した室町幕府に出仕したという*11

 

▲下記参考記事より拝借。(二階堂)安芸守成藤が、一族の道信・道照が(南朝によって没収されたとみられる)所領を未だに引き渡さないことを嘆き、白川殿(=白河結城親朝か)が道理の通りに沙汰してくれたことに対して感謝している(年不詳*12 )7月21日付の書状(『結城家文書』)

 

その後は一貫して、相続人の成藤と共に幕府・北朝方として活動したという。前述の領地没収は南朝方によって行われたものであるが、北朝方の吉良貞家岩瀬郡稲村城に入った観応2(1351)年の段階では領地を回復していた可能性が高い。翌1352年の八幡の戦いでも、北朝側に属しての討ち死にであったと考えて良いだろう。前述の「保土原系図」のほか、「二階堂浜尾系図」でも観応年間(1350~1352年、北朝方の元号表記)に討ち死にしたことが記載されているらしい。80代半ば近くの老齢に鞭打っての参戦であった。

 

1400年代に入ると、三河守定種の子とみられる「二階堂参河次郎」や、「三河守満種」といった保土原二階堂氏と思しき人物が確認される。また、応永11(1404)年7月、安積・田村・岩瀬郡を中心とする豪族20名が一揆契約を結び、笹川・稲村両公方に忠誠を誓った傘連判状には、二階堂信濃守行朝入道行珍の子孫とみられる「須賀川刑部少輔行嗣」に並んで「稲村藤原満」の名前が見られるという。「藤」や「種」の字を持つことから、彼らは成藤の子・行種(ゆきたね、『尊卑分脈』)の子孫ではないかと思われる。このように時藤の家系は稲村城主を務める家柄として存続したのである。この系統はやがて永享の乱結城合戦により没落したと考えられている。

 

(参考記事)

www13.plala.or.jp

 

 

脚注

*1:以上『尊卑分脈』〈国史大系本〉による。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*2:二階堂行藤(にかいどうゆきふじ)とは - コトバンク を参照。

*3:注1前掲系図を参照のこと。

*4:判官 - Wikipedia より。

*5:『大日本史料』6-6 P.237

*6:『大日本史料』6-6 P.250

*7:『大日本史料』6-5 P.731

*8:この詳細については 八幡の戦い - Wikipedia を参照のこと。

*9:同じく『尊卑分脈』を見ると、弟・宗藤が応長元(1311)年10月、弟・雅藤や甥・兼藤が正中3(1326)年2月(3月の誤記か?)に出家したと書かれており、各々貞時の逝去、高時の出家に追随した可能性が高い。

*10:二階堂貞藤 - Wikipedia より。典拠は 市古貞次『国書人名辞典 3』(岩波書店、1996年)P.548「二階堂時藤」の項。

*11:二階堂貞藤 - Wikipedia より。典拠は 木下聡 『室町幕府の外様衆と奉行衆』(同成社、2018年)P.240~242「二階堂氏」の節。

*12:時藤(道存)の旧領であった岩瀬郡西方二十一ヶ村が藤原英房や北畠顕信の料所と処分され、その管理が白河親朝に任せられた1340年(本文参照)から、康永2(1343)年8月に親朝が北朝方に転じるまでの間に出されたものと推測されている。二階堂成藤は建武新政府では雑訴決断所の所衆、その後室町幕府鎌倉府の政所執事に補任されている。