Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

伴野長泰

伴野 長泰(ともの ながやす、1230年頃?~1285年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人小笠原(伴野)時直の嫡男。仮名は弥三郎、官途は出羽守。

 

 

前史

▲【系図1】『尊卑分脈(以下『分脈』と略記)より 伴野氏系図*1

 

伴野氏(ともの-し)は、清和源氏河内源氏の庶流甲斐源氏)の流れをくみ、小笠原長清の6男・時長が佐久郡伴野荘の地頭として入り、その地名に因んで「伴野六郎」と称したことに始まる一族である*2

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こちら▲の記事で紹介の通り、小笠原時長の娘を母に持つ(すなわち外孫である)安達泰盛*31231年生まれと推定されている。一方で時長の父・長清については応保2(1162)年生まれと伝わる(『系図綜覧』所収『甲斐信濃源氏綱要』*4、同所収「小笠原系図*5。「長清―泰盛」の年齢差(69)は「曽祖父―曽孫」の関係として十分に妥当なものと言えよう。各親子間の年齢差を均等に23歳ずつと仮定すれば、

小笠原長清:1162年~

小笠原(伴野)時長:1185年頃~

時長娘・義景妻:1208年頃~

安達泰盛:1231年~

とおおよその世代が推定できる。

 

長清は承安4(1174)年11月5日13歳で元服した時、加冠役(烏帽子親)は足利義康(祖父・清光のはとこにあたる)だったようだ(前掲『甲斐信濃源氏綱要』および「小笠原系図が、当時はまだ、後に出てくるような偏諱の授与がなされる習慣*6は無かったようで、恐らくは伯父・光と祖父・光の各々1字を取って命名されたのであろう。以後、小笠原氏一族は基本的に「(なが)」を通字として用いるようになっていた。

長清の息子のうち、弥太郎長経が治承3(1179)年生まれ、七郎朝光(大井氏祖)が建久9(1198)年生まれと伝わる。輩行名の「太郎」や「七郎」はそのまま長男、七男といった兄弟順に付けられたと考えて良かろう。従って "六郎" 時長はその間、1180年代後半~1190年頃に生まれたと考えるのが妥当と思われ、仮に年齢差を20歳ずつに変えた場合でも、

小笠原(伴野)時長:1191年頃~

時長娘・義景妻:1211年頃~

安達泰盛:1231年~

といった具合に辻褄を合わせることができる。

ちなみに、長の「時」は、1200年頃に元服し、当時の初代執権・北条政から偏諱を受けたもの、光の「朝」も3代将軍・源実(時政の外孫)からの1字とも考えられるが、これについては後考を俟ちたい。

 

吾妻鏡』での登場箇所も見ておこう。

時長は、承久元(1219)年7月19日条の「小笠原六郎」を初出とし、次いで貞応元(1222)年正月7日条7月3日条に「小笠原六郎時長」の名が見られる*7。この点からも生年は1200年頃より前であったと判断できよう。

時長の嫡男・小笠原(伴野)時直延応元(1239)年正月5日条小笠原三郎」が初出とされ*8、同様に生年は1220年頃より前であったと判断できるだろう。実名が確認できるのは、建長8(1256)年7月17日条の「小笠原三郎時直」や正嘉2(1258)年6月4日条弘長元(1261)年8月15日条の「小笠原六郎三郎時直」で*9、「六郎三郎」は「六郎の "三郎"(本来は三男の意)」を表しており、時長の息子であったことが裏付けられる。

 

長泰の生年・烏帽子親の推定

長泰、ひいては兄弟の伴野泰直(やすなお)については『吾妻鏡』等の史料でほとんど確認ができない(後述の霜月騒動関連の史料を除く)が、前節での考察から判断すると、伴野長泰・泰直兄弟と安達泰盛は時長の孫同士としてほぼ同世代人であったと考えられる

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こちらの記事▲では、は寛喜3(1231)年生まれで、北条が3代執権として存命であった仁治3(1242)年(当時泰盛は数え12歳)までにその偏諱」を受け、『吾妻鏡』寛元2(1244)年6月17日条から史料上に現れたことを紹介している。

従って、長直兄弟に共通して含まれる「」の字も同様に時から賜ったものと推測される。その裏付けとして、他の観点からも考察してみたい。

 

まず注目してみたいのが、系図1】で長泰の項に「弥三郎」と記されていることである。「三郎の "三郎"(同前)」を表す仮名であり*10、単に「三郎」と名乗らなかったのは、父・時直が「小笠原三郎」と呼ばれていた1239年(前述参照)頃に長泰が元服し、父との区別のために称したからではないか

*詳しくは後述するが、弘安8(1285)年の「伴野三郎」は、出羽守であった長泰と呼称で区別の必要が無かったために「三郎」のみであったと考えられる。また、泰直の場合は他に該当者なしのため「四郎」のみで問題なかったものと判断できる。

 

もう一つは、同じく系図1】の時直の項に「」、すなわち本(もと)の名(=初名)が「長直(ながなお)」であったことが記されていることである。「長」・「時」はいずれも父・時長の1字であるが、わざわざ「長」を「時」の字に改めたわけである。そしてこの字は、鎌倉幕府の権力者である執権・北条氏の通字であり、その使用が許されたわけを考えると、北条氏からの偏諱授与だったのではないかと思われる。

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時の異母弟・は初め「実」と名乗っていたが、嘉禄元(1225)年から安貞2(1228)年の間に改名し、また天福元(1233)年末には10歳の嫡男・が泰の加冠により元服を遂げている。この頃は、他にも平賀惟大友直→足利利氏→のように北条氏絡みで改名したケースが確認できるので、長直も北条泰の1字を得て直に改名したのではないかと思われる。そして北条実時のケースに同じく、息子の直兄弟は時を烏帽子親として元服を遂げたものと推測する。

泰盛や実時の例の通り、元服は10代前半で行われることが多かったから、長泰兄弟の生年は遅くとも1230年頃とすべきで、後述の通り1285年まで生きたことを考えると、これを大幅に遡るとは考えにくい。よって、泰盛とほぼ同世代であったと判断できよう。

 

長泰の最期と子孫の動向

霜月騒動で死す

その後は、弘安8(1285)年11月の霜月騒動で、秋田城介・陸奥守を経て出家した泰盛法名:覚真)一族が討たれた時、従兄弟である長泰運命を共にしている。系図1】での注記に「出羽守」・「城陸奥入道事於鎌倉被誅畢」とあるように、泰盛側につき鎌倉で討伐されたという。このことは『甲斐信濃源氏綱要』(『系図綜覧』所収)にも同様の記載がある*11ほか、以下の史料でも確認ができる。

『保暦間記』:「終ニ泰盛法師 法名覚真・子息宗景、弘安八年十一月十七日誅セラレケリ……(中略)……三浦対馬守隠岐入道(=二階堂(懐島)行景)伴野出羽守等志有ル去ルベキ侍ドモ、彼ノ方人トシテ亡(ほろび)ニケリ、是ヲ霜月騒動ト申ケリ」*12

(弘安8年11月17日)「安達泰盛乱自害者注文」(熊谷直之氏所蔵『梵網戒本疏日珠抄・裏文書』)*13:「伴野出羽守

(弘安8年?)「安達泰盛乱聞書」(熊谷直之氏所蔵『梵網戒本疏日珠抄・裏文書』)*14:「伴野出羽守

鎌倉年代記』裏書・弘安8(1285)年条

今年弘安八十一月十七日、申時、城陸奥入道覚真(=泰盛)一族悉被誅。但丹後守頼景法師脱殃訖、合戦之日、余炎移将軍御所焼失訖、越後守顕時泰盛入道縁坐之間、左遷総州埴生庄、永仁四年被召返、合戦之時非分被誅輩、刑部卿相範、三浦対馬前司懐島隠岐入道伴野出羽入道、太宰少弐、大曽祢上総前司足利上総三郎南部孫次郎(=政光か?)等云々、

こちらの「入道」表記から、泰盛に同じく北条時宗逝去を悼んでのタイミングであろうか、正確には出家していたのかもしれない。

 

長男・盛時と次男・長直の最期

尚、同年12月2日のものとされる「安達泰盛乱自害者注文」(熊谷直之氏所蔵『梵網戒本疏日珠抄・裏文書』)*15に「伴野三郎 信乃自害 同彦二郎」の名が見られるが、各々『分脈』(【系図1】)で「父同時被誅畢」と記される長男・伴野盛時(もりとき)と次男・伴野長直(ながなお)に比定されよう。『分脈』での「二郎」・「彦三郎」と数字が逆になっているが、恐らく泰偏諱を受けたとみられる時が嫡男で、時直―長泰と継承されてきた「三郎」を称したとみて間違いないのではないかと思われる。

*ちなみに「伴野三郎」については、父・長泰が出羽守に任官していたため、区別して「弥三郎」等と名乗る必要は無かったとみられる。

 

泰行らの没落と嘉元の乱

3男・伴野泰行(やすゆき)について、『甲斐信濃源氏綱要』では「父同時死」と記す一方、同じく系図綜覧』所収の「幡豆小笠原系図*16では盛時の子・泰房(やすふさ)霜月騒動で敗北の際に三河国大陽寺荘に逃れ、その息子を泰行とする。

系図2】「幡豆小笠原系図」より

長泰 孫次郎〔ママ〕、出羽守―┐

┌―――――――――――┘

└―盛時 次郎、泰盛ト共誅 ―┐

┌―――――――――――┘

城入道合戦敗北之時、所領三州大陽寺庄没落、

始而住三州、三州小笠原祖

└―泰房――――――――泰行――長房

河村昭一は、伴野泰房およびその伝承は『続群書類従』所収「小笠原三家系図」の「三河小笠原系図」での記載を前提としたもので、「幡豆小笠原系図」そのものについても「史実を反映する部分よりも、むしろ矛盾点、作為性の方が目立つ、きわめて粗雑な系図」であるとされている*17

よって、『分脈』(【系図1】)に書かれていないことに加え、後述の伴野長房との代数を考えても泰房の実在は否定されると思うが、ただその記載の内容は泰行なら当てはまる可能性があり、『甲斐信濃源氏綱要』での「父同時死」については誤りと考えられる。

その根拠は、嘉元3(1305)年5月4日付「伴野出羽三郎・大野彌六祈福本尊銘文」(『駿河北山本門寺文書』)*18である。この史料は、同日の駿河守(=北条宗方)謀叛の大将であった伴野出羽三郎大野弥六石川孫三郎源義忠(石川義忠)により討ち取られたが、両名の後生の成仏を保証する旨で書かれたものである。

この伴野出羽三郎通称名は「出羽守の "三郎"(同前)」を表しており、【系図1】と照らし合わせると、盛時・長直は既に霜月騒動で自害したことは前述の通りなので、比定し得るのは又三郎泰行もしくは孫三郎長盛である。単なる「三郎」については前述の通り、伴野氏の家督継承者が代々称したとみられることから、恐らく泰行ではないかと思う。いずれにせよ、長泰の遺児が霜月騒動後に落ち延びたものの、今度は嘉元の乱でまたしても反幕府側について滅ぶこととなってしまったのである。

 

孫・伴野長房以降

泰行(および弟たち)霜月騒動当時、まだ幼少であったと思われ、嘉元の乱に至るまで20年間を生きて、恐らく享年も20~30代の若さであっただろう。泰行の子・伴野長房もまた、幼少で親を亡くしての家督相続であったと思われる。

長泰の代まで得ていた、信濃国伴野荘の地頭職は霜月騒動後、北条氏の手に渡っていた。「伴野出羽三郎」が宗方の謀叛に加担したのもその奪回のためだったのかもしれない。その後1333年に鎌倉幕府および北条氏が滅亡しても、地頭職は伴野氏のもとには還らず、後醍醐天皇によって没収の上、寄進された大徳寺のものとなっていた。

建武2(1335)年2月、伴野荘で「出羽弥三郎以下輩」が濫妨(暴力を用いて無法に掠奪)を行って停められている*19が、【系図1】より長房に比定される。通称は、父・泰行(出羽三郎)が無官のまま亡くなったため、祖父・長泰にちなむ「出羽」を付している。「弥」は「孫」の意味である。すなわち、長房も地頭職の回復を目指して大徳寺と争ったわけであった。

ja.wikipedia.org

早くから足利尊氏に従っていた長房は、ようやく地頭職を得たようで*20、【系図1】でも記載の通り康永4(1345)年8月29日の天龍寺落慶供養に後陣髄兵の一人「伴野出羽前司」として同伴している*21

尚、時期の近さから『山城天龍寺造営記録』康永元(1342)年12月5日条の「伴野出羽守*22長房に比定され、この当時はかつての長泰と同じ出羽守に在任であったことが窺える。本節冒頭で述べたように、嘉元の乱(1305年)当時幼少であったとすると、30代後半~40代での任官であったと推測できよう。

文和2(1353)年6月9日、楠木正儀南朝勢が京都・神楽岡足利義詮(尊氏の子、のち室町幕府第2代将軍)を破ったことを伝える『園太暦』の同日条において「伴野入道」が戦死し、土御門油小路にあった「伴野出羽守〔ママ〕」の邸宅も焼失したというが、これらも出家後の長房とされる*23

長泰の息子たち・孫と、戦での敗死が続いてしまうこととなったが、『群書類従』所収『相国寺供養記』には、明徳3(1392)年に3代将軍・足利義満相国寺落慶供養に際し、長房の子・伴野長信(ながのぶ)と思しき「〔ママ〕次郎源長信」が武田満信(みつのぶ)と共に先陣髄兵の二番を務めているのが確認でき*24伴野氏はその後も途絶えることなく続いたのであった。

 

(参考ページ)

 伴野長泰 - Wikipedia

 伴野長泰とは - コトバンク

 伴野氏 - Wikipedia

 武家家伝_伴野氏

 伴野氏とは - コトバンク

 

脚注

*1:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第三篇』(吉川弘文館、1983年)P.340~341より。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション とは若干異なり、同書は前田家所蔵林家訂正本を底本とする。

また、系図中の凡例は次の通りである。

また、「无」は "記載無し" を表す。

*2:『大日本史料』5-26 P.134

*3:『分脈』の泰盛の注記に「母小笠原六郎源時長女」とある(→ 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第4巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。

*4:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*5:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*6:『吾妻鏡』文治5(1189)年8月12日条によると、長自身も河村秀の烏帽子親を務めたようで「清」の1字を与えた様子が伺える。

*7:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.203「時長 小笠原」の項より。尚、本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*8:吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.205「時直 小笠原」の項より。

*9:前注に同じ。

*10:弥太郎 - Wikipedia も参照のこと。

*11:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*12:『大日本史料』5-26 P.194

*13:『鎌倉遺文』第21巻15734号。年代記弘安8年 も参照のこと。

*14:『鎌倉遺文』第21巻15736号。年代記弘安8年 も参照のこと。

*15:『鎌倉遺文』第21巻15738号。

*16:系図綜覧 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション河村昭一「将軍近習小笠原蔵人と若狭守護代小笠原長房」(所収:『若越郷土研究』34巻1号、福井県郷土誌懇談会、1989年)P.2。

*17:前注河村論文 P.3~4 および P.10 注(12)。小笠原長房 (若狭守護代) - Wikipedia も参照のこと。

*18:『鎌倉遺文』第29巻22200号。年代記嘉元3年 も参照のこと。

*19:『大日本史料』6-2 P.275『信濃史料』巻5-3 P.253

*20:『信濃史料』巻6-1 P.22や文和元(1352)年12月15日付「足利尊氏御判御教書」(『松原諏訪神社所蔵文書』、現在紛失中:https://rarememory.sakura.ne.jp/justsystem/tomono/to.htm より)から、長房が伴野荘地頭になっていたことが窺える。

*21:大日本史料』6-9 P.247250275278に「伴野出羽前司」、P.287に「伴野出羽前司長房」(『伊勢結城文書』「天龍寺供養日記」)、P.304伴野出羽守〔ママ〕」とP.306の「伴野出羽前司」(『天龍寺造営記録』)、P.315に「伴野出羽守長房〔ママ〕」(『太平記』)とある。尚、同月16日の除目において河越直重と思しき「平直重」が出羽守に任ぜられているので「出羽前司」が正しい。

*22:『大日本史料』6-7 P.429

*23:『大日本史料』6-12 P.856『信濃史料』巻6-2 P.164

*24:『史料稿本』後亀山天皇紀・元中九年八月 P.34