Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

二階堂高貞

二階堂 高貞(にかいどう たかさだ、1300年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人物。『尊卑分脈*1(以下『分脈』と略記)によると、のちに二階堂行広(ゆきひろ)に改名。通称は三郎左衛門、山城左衛門大夫、丹後守。従五位下。父は二階堂行貞で、二階堂貞衡の次弟にあたる。

 

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こちら▲の記事で紹介の通り、兄・貞衡については正応4(1291)年生まれと判明しており、高貞はこれより後に生まれた筈である。

ここで、次の史料に着目したい。

史料A建武元(1334)年正月付「関東廂番定書写」(『建武(年間)記』)*2

定廂結番事、次第不同、

  番 〔※原文ママ、"一"番脱字カ〕

 ( 略 )

 

二番

 ( 略 )

丹後三郎左衛門尉盛高 三河四郎左衛門尉行冬

 

三番

 ( 略 )

山城左衛門大夫   前隼人正致顕

相馬小次郎高胤

 

四番

 ( 略 )

小野寺遠江権守道親   因幡三郎左衛門尉

遠江七郎左衛門尉時長

 

五番

丹波左近将監範家    尾張守長藤

伊東重左衛門尉祐持    後藤壱岐五郎左衛門尉

美作次郎左衛門尉  丹後四郎政衡

 

六番

中務大輔満儀〔満義カ〕   蔵人伊豆守重能

下野判官      高太郎左衛門尉師顕

加藤左衛門尉       下総四郎高宗(※高家とも)

実在が確かめられる史料として、上記〔史料A〕にある関東廂番の三番衆の一人に高貞の名が記載されている。通称名は、亡父・行貞の最終官途が「山城守」、自身は左衛門尉従六位下相当)でありながら叙爵済み従五位下であった*3ことを表すもので、二階堂高貞に間違いない。そして、左衛門尉に任官できるほどの年齢=若くとも20歳前後に達していたことが窺えるので、遅くとも1310年代前半には生まれていたと考えて良いだろう。

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ところで、『分脈』の二階堂高貞の傍注には「改行廣」とあって、後に改名したことが窺えるが、〔史料A〕当時はまだ改名していなかったことが窺える。『分脈』二階堂氏系図によると、高貞のみならず〔史料A〕における太字人物貞・憲・衡・元)は皆、後に「」の字を棄てて改名したという(〔図B〕参照)

 

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こちら▲の記事で言及の通り、彼らが一斉に改名の理由は、「」が前年(1333年)に滅亡した得宗北条偏諱であったからに他ならないだろう。 

それまでの「行」が代々得宗と烏帽子親子関係を結んでいたことが指摘されており*4、貞衡の子衡・行兄弟も時から一字を拝領した形跡が見られる。衡は前述の生年から、北条時晩年期の元服であることは確かで、その弟である貞は代替わりした後の(貞時の子、1311年家督継承/14代執権在職:1316~1326年*5からの一字拝領と考えて良いと思う。

 

その後「行廣(行広)」への改名が裏付け得る史料を紹介しておきたい。

まずは、建武元年9月27日付「等持院殿足利尊氏行幸供奉随兵次第」(『小早川家文書』*6・『朽木文書』*7にある「二階堂信濃三郎左衛門行廣」であろう。「山城」ではなく「信濃」となっているのがやや妙であるが、二階堂行忠の系統が「信濃」を苗字化していたとの指摘があり*8、父・行貞も山城守となる前に信濃守であった経歴がある*9ので、「三郎左衛門」の通称からしても高貞(行広)に比定し得ると思う*10。これが正しければ〔史料A〕から僅か8ヶ月の間に改名を行ったことになる。

また、『師守記』康永元/興国3(1342)年6月12日条には「二階堂丹後守……等位階、可被注給、」、その裏書にも「二階堂前丹波〔ママ〕行廣 建武五年正月廿四日叙爵」とあり*11、これは『分脈』にある高貞の注記「改行廣」・「丹後守」を裏付けるものと言えよう。

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション『大日本史料』6-1 P.423

*2:南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)39号 または『大日本史料』6-1 P.421~423【論稿】北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia〔史料A〕も参照。

*3:左衛門大夫(サエモンノタイフ)とは - コトバンク左衛門の大夫(さえもんのたいふ)とは - コトバンク より。

*4:紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』2号、中央史学会、1979年)P.15。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪

*6:『大日本古文書』家わけ第十一 小早川家文書之二 P.169(二九四号)

*7:『大日本史料』6-1 P.914

*8:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.81 註(32)。

*9:二階堂行貞 - Henkipedia 参照。

*10:この頃二階堂氏で「信濃守」を称していた人物としては、「信濃入道行珍」=二階堂行朝が挙げられるが、『分脈』を見ると行朝の次男・行通の注記に「四郎左衛門尉」とあるから、建武2年に討たれたという長男・左衛門尉行親の通称が「三郎左衛門尉」であった可能性が考えられるが、この行親が「行広」と名乗ったという記載も史料的根拠も無い。

*11:『大日本史料』6-7 P.182