二階堂高貞
二階堂 高貞(にかいどう たかさだ、1300年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人物。『尊卑分脈』*1(以下『分脈』と略記)によると、のちに二階堂行広(ゆきひろ)に改名。通称は三郎左衛門、山城左衛門大夫、丹後守。従五位下。父は二階堂行貞で、二階堂貞衡の次弟にあたる。
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こちら▲の記事で紹介の通り、兄・貞衡については正応4(1291)年生まれと判明しており、高貞はこれより後に生まれた筈である。
ここで、次の史料に着目したい。
〔史料A〕建武元(1334)年正月付「関東廂番定書写」(『建武(年間)記』)*2
定廂結番事、次第不同、
番 〔※原文ママ、"一"番脱字カ〕
( 略 )
二番
( 略 )
②丹後三郎左衛門尉盛高 ③三河四郎左衛門尉行冬
三番
( 略 )
④山城左衛門大夫高貞 前隼人正致顕
四番
( 略 )
小野寺遠江権守道親 ⑤因幡三郎左衛門尉高憲
遠江七郎左衛門尉時長
五番
伊東重左衛門尉祐持 後藤壱岐五郎左衛門尉
⑦美作次郎左衛門尉高衡 丹後四郎政衡
六番
中務大輔満儀〔満義カ〕 蔵人伊豆守重能
⑨下野判官高元 高太郎左衛門尉師顕
加藤左衛門尉 下総四郎高宗(※高家とも)
実在が確かめられる史料として、上記〔史料A〕にある関東廂番の三番衆の一人に高貞の名が記載されている。通称名は、亡父・行貞の最終官途が「山城守」、自身は左衛門尉(従六位下相当)でありながら叙爵済み(従五位下)であった*3ことを表すもので、二階堂高貞に間違いない。そして、左衛門尉に任官できるほどの年齢=若くとも20歳前後に達していたことが窺えるので、遅くとも1310年代前半には生まれていたと考えて良いだろう。
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ところで、『分脈』の二階堂高貞の傍注には「改行廣」とあって、後に改名したことが窺えるが、〔史料A〕当時はまだ改名していなかったことが窺える。『分脈』二階堂氏系図によると、高貞のみならず〔史料A〕における太字人物(高貞・高憲・高衡・高元)は皆、後に「高」の字を棄てて改名したという(〔図B〕参照)。
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こちら▲の記事で言及の通り、彼らが一斉に改名の理由は、「高」が前年(1333年)に滅亡した得宗・北条高時の偏諱であったからに他ならないだろう。
それまでの「行宗―行貞―貞衡」が代々得宗と烏帽子親子関係を結んでいたことが指摘されており*4、貞衡の子高衡・高行兄弟も高時から一字を拝領した形跡が見られる。貞衡は前述の生年から、北条貞時晩年期の元服であることは確かで、その弟である高貞は代替わりした後の高時(貞時の子、1311年家督継承/14代執権在職:1316~1326年*5)からの一字拝領と考えて良いと思う。
その後「行廣(行広)」への改名が裏付け得る史料を紹介しておきたい。
まずは、建武元年9月27日付「等持院殿(足利尊氏)行幸供奉随兵次第」(『小早川家文書』*6・『朽木文書』*7)にある「二階堂信濃三郎左衛門行廣」であろう。「山城」ではなく「信濃」となっているのがやや妙であるが、二階堂行忠の系統が「信濃」を苗字化していたとの指摘があり*8、父・行貞も山城守となる前に信濃守であった経歴がある*9ので、「三郎左衛門」の通称からしても高貞(行広)に比定し得ると思う*10。これが正しければ〔史料A〕から僅か8ヶ月の間に改名を行ったことになる。
また、『師守記』康永元/興国3(1342)年6月12日条には「二階堂丹後守……等位階、可被注給、」、その裏書にも「二階堂前丹波守〔ママ〕行廣 建武五年正月廿四日叙爵」とあり*11、これは『分脈』にある高貞の注記「改行廣」・「丹後守」を裏付けるものと言えよう。
脚注
*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『大日本史料』6-1 P.423。
*2:『南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)39号 または『大日本史料』6-1 P.421~423。【論稿】北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia〔史料A〕も参照。
*3:左衛門大夫(サエモンノタイフ)とは - コトバンク、左衛門の大夫(さえもんのたいふ)とは - コトバンク より。
*4:紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』2号、中央史学会、1979年)P.15。
*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪。
*6:『大日本古文書』家わけ第十一 小早川家文書之二 P.169(二九四号)。
*8:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.81 註(32)。
*9:二階堂行貞 - Henkipedia 参照。
*10:この頃二階堂氏で「信濃守」を称していた人物としては、「信濃入道行珍」=二階堂行朝が挙げられるが、『分脈』を見ると行朝の次男・行通の注記に「四郎左衛門尉」とあるから、建武2年に討たれたという長男・左衛門尉行親の通称が「三郎左衛門尉」であった可能性が考えられるが、この行親が「行広」と名乗ったという記載も史料的根拠も無い。