二階堂貞宗
二階堂 貞宗(にかいどう さだむね、1289年?~1372年?)は、鎌倉時代後期から室町時代初期にかけての人物。
『作者部類』に「頓阿 法師俗名貞宗。二階堂下野守〔ママ〕光貞子」*1、『続群書類従』所収「工藤二階堂系図」に「光貞 下総守 ― 貞宗 遁世、頓阿」*2とあり、貞宗を僧・頓阿(とんあ / とんな)の俗名とし、二階堂光貞の子であったと伝えるものもある。
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『愚管記』・『東野州聞書』・『迎陽記』などによると、頓阿は応安5/文中元(1372)年3月13日に84歳で亡くなったといい*3、逆算すると正応2(1289)年生まれとなる。
『尊卑分脈』の二階堂氏系図上で二階堂光貞に該当するのは、二階堂行泰の子・行実の孫で「下総守」等と注記される人物以外にあり得ないだろう*4。ところが、この光貞の子には高実・政宗・行豊が記載されるのみで、貞宗はむしろ光貞の兄となっている。「工藤二階堂系図」では光貞の子は貞宗・行秋(因幡守、法名行欽)・行豊となっているが、末子・行豊の名が共通していることを考えると、何かしらの混乱が生じたのではないかと推測される。
ここで、二階堂氏行泰流について、親子の年齢差を20歳と仮定して各人物の生年を推定すると次の図のようになる。
図の中で、二階堂時元については生年が1288年と判明しているが、行頼―行元、行元―時元間の年齢差は20~40となっていて妥当と言えよう(恐らく行元は1260年頃の生まれで各年齢差を約30ずつとするのがより正確かもしれない)。実際の史料に現れる高元・高憲についても建武元(1334)年当時左衛門尉であったことが分かっており、図のように推定して十分的を射ていると思われる。
行実流でも同様の手法を試みると、光貞の生年は1276年前後、もしくはそれ以後と推定可能である。しかしその場合、貞宗(頓阿)が光貞14歳の時の子となってしまい、全くあり得ないこともないが、やはり現実的な想定ではないように思う。
『作者部類』(『勅撰作者部類』)は、延元2/建武4(1337)年に成立し、正平17/康安2(1362)年に増補されたもの*5で、頓阿在世中に書かれたものということになる。その成立年代から史料的価値は高いと思うが、前述の頓阿の部分に関しては「下総」を「下野」と誤記があるくらいなので、「光貞兄」とすべきところを「光貞子」と書いてしまったとも考えられる。
また、上の図で示した通り『尊卑分脈』での貞宗の法名は「法忠(ほうちゅう)」となっており、一方頓阿については『実隆公記』に「語及頓阿法師事、彼先祖者小野宮大納言能実 花山院左府家忠公 弟、大炊御門大納言経実卿 兄〔ママ〕也、後胤也、本名泰尋法印、妙法院出世法師也、遁世之後改頓阿云々、」*6とあって藤原師実の子・能実の末裔と伝えるから、むしろ(仮に俗名が「貞宗」であったとしても)頓阿=二階堂氏という『作者部類』の記載を疑うべきかもしれない。
とは言え、頓阿の生年1289年は、そのまま二階堂貞宗に適用してもほぼ問題はなかろう。「貞宗」の名は、父・宗実からの1字に対して「貞」は9代執権・北条貞時(在職:1284~1301年)*7の偏諱と考えられる。1289年生まれとした場合、貞時が執権を辞して出家した正安3(1301)年*8当時13歳と元服の適齢を迎え、二階堂貞宗と頓阿が同人か別人かに拘わらずほぼ同世代人であったとみなして良いと思う。光貞も同様に「貞」字を賜っているが、北条経時・時頼兄弟、安達盛宗・宗景兄弟、千葉宗胤・胤宗兄弟、平宗綱・飯沼資宗兄弟 などと同様に、嫡子・庶子(或いは準嫡子)の違いで偏諱の配置を逆転させた例と考えて良いだろう。宗実の嫡子は当初貞宗であったが、出家したためか、弟・光貞(実際は1290年頃の生まれであろう)に嫡流の地位が移り、その嫡男・高実に至るまで得宗家と連続的な烏帽子親子関係を結んだと推測される。
(参考ページ)
● 大東文化大学 浜口俊裕 電子ギャラリー 古筆 頓阿法師筆 業平歌 古筆了雪