Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

二階堂高実

二階堂 高実(にかいどう たかざね、1310年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代末期の御家人

尊卑分脈(以下『分脈』と略記)の記載*1によれば、二階堂光貞の嫡男にして「三郎 左衛門(=左衛門尉)」を称し、後に遁世して法名周琮(しゅうそう)と号したという。

 

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▲【図A】二階堂氏略系図 

 

この【図A】は『分脈』に基づいたものであるが、同族の行佐(ゆきすけ)流では行時が正安3(1301)年8月24日、その子・行憲が正中3(1326)年3月にそれぞれ出家したと書かれているが、各々当時の得宗である北条貞時・高時の出家*2に追随したことは明らかで、その当時の人物であったことの証左となる。特に行憲と同じく行泰の曾孫(行憲のはとこ)にあたる時元もやはり高時に追随して出家しており、行泰から見て代数の同じ者同士はほぼ同世代の人物と扱って良いと思う。

 

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▲【図B】二階堂氏行泰流の各人物生年の推定

そのような観点に加え、実際に【図B】のように各人物の生年を推定すると、行泰の玄孫にあたる、行実流のと、時元の子・(のち行春)、行憲の子・(のち行清)はほぼ同世代人と言える。彼らは共通して「」を持っているが、高元と高憲については各々の記事で言及の通り、鎌倉幕府滅亡後に改名したことが明らかとなっており、その理由は「」が最後の得宗北条偏諱であったからに他ならない。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

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父・光貞についてはこちら▲の記事で1290年頃の生まれと推定した。従って、親子の年齢差を考慮すると、の生年は早くとも1310年頃とするのが妥当で、執権期間(在職:1316年~1326年)*3内の元服であることがほぼ確実となり、「」もその偏諱を賜ったものと見なせる。後述するが左衛門尉任官のことを考えると生年はこれより下る必要はないと思う。行実流では「実―光実」と以前から北条氏得宗家と烏帽子親子関係を結び続けており、その慣例に従ったと言えよう。

『分脈』にある「遁世」の時期は不明だが、左衛門尉に任官していたとの注記があることも考えるべきである。この頃の二階堂氏では、行貞やその孫・高衡、前述の高元・高憲が20代で左衛門尉に任官していたことが確認され、高実も同様であったと考えられる。

(二階堂信濃家当主)(二階堂筑前家当主)(二階堂因幡家当主)の3名は鎌倉幕府滅亡後、建武元(1334)年正月の関東廂番に名を連ねている*4が、同じ行泰流の高実(二階堂下総家)の名は見られない*5。3名は後に各々時の偏諱を棄てて改名したが、高実には『分脈』等でそのような情報は確認できない。よって、1330年代に20代を迎え左衛門尉には任官はしたものの、思うところあって、建武政権樹立の前に引退したものと推測される。恐らくは1333年に烏帽子親の高時らが自刃して鎌倉幕府が滅亡したことが契機になったのではないか。関連史料が未確認で根拠に弱いが、これについては検討の余地があり、後考を俟ちたいところである。

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)参照。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪

*4:『大日本史料』6-1 P.421~423

*5:但し、前注史料での「下総四郎高宗」が二階堂氏である可能性がある。「下総」は旧国名であり、「関東廂番定書写」で苗字が無く旧国名から始まる呼称の人物は、傾向として高衡・高元・高憲の3名を含む二階堂氏に多いように見受けられる。よって高宗は二階堂氏で直近の下総守経験者である光貞の子息だったのではないか。北条高時偏諱「高」と祖父・宗実の1字による名付けられ方と考えると高実に同じである。但し『分脈』では光貞の「四郎」にあたる人物の名は「政宗(四郎左衛門尉)」となっている。しかし同系図では高行=行元(正しくは行光)のように改名の事実が伏せられている例もあるから、高宗が後に「高」の字を棄てて、恐らくは先祖の二階堂行政に由来の「政」に変えたと考えることもできるのではないか。三郎高実が関東廂番に名を連ねていないのは、既に当時は遁世していて、光貞の嫡子の地位が弟の四郎高宗(政宗)に移っていたからであると筆者は推測する。