Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

二階堂高行

二階堂 高(にかいどう たかゆき、1312年頃?~1392年?)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人物。通称は三郎。のちに二階堂行光(ゆきみつ、二階堂行元とも)に改名か。

尊卑分脈*1(以下『分脈』と略記)によると父は二階堂貞衡。兄・二階堂行直(初名:高衡)には母が秋田城介・安達時顕の娘と注記されるのに対して、高行については特に記載が無く、その異母弟なのかもしれない。

 

 

生年と烏帽子親の推定

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こちら▲の記事で紹介の通り、父・貞衡については正応4(1291)年生まれと判明しており、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、早くとも1311年頃の生まれと推測可能である。historyofjapan-henki.hateblo.jp

そして、こちら▲の記事で兄・行直が南北朝時代初期に得宗北条偏諱を受けた「衡」から改名したことを紹介したが、弟であるも同様であったと考えて問題なかろう。北条高時執権期間(1316~1326年)*2内の元服であろうから、高衡(行直)とさほど年齢の離れていない弟であったと推測される。

 

 

二階堂行光(中務少輔)とその関連史料について 

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ところで筆者はこちら▲の記事で、『分脈』において別々に書かれている高貞(改め行広)の子・行元が、高行が改名後の同人でないかと推測した*3。兄・高衡が「行直」と改名したのに対し、弟である高行がそうでないというのは不自然に感じるからである。

また、『分脈』を見ると、行元の注記に「実貞衡子」と書かれており、高行・行元両者とも「三郎」を称したという。同系図にはないものの、貞衡の嫡男・高衡(行直)が「次郎」を称したことは史料で確認できるが、その下に「三郎」を名乗る弟が2人いたというのもまた不自然と言わざるを得ない。

いずれにせよ、『分脈』での「実貞衡子」行元(=行光)の記載は後世、豊臣秀吉の命を受けた山中長俊によって編纂された『中古日本治乱記』*4巻8「持氏渡御於佐介 三浦義高夜討評定事」の文中に「二階堂山城守行直・舎弟中務少輔行光」とある*5によっても裏付けが可能であり、後述するが如く行直の地位継承者でもあった。

尚、行元(行光)の実名については、崩し字が似ているため「元」と「光」での混乱があるようだが、正しくは「行光」であろう。木下聡は「系図によっては『行光』とするものもあるが、崩し字の誤読による誤伝」として「行元」説を採られるが、後述するように当時の史料に現れるのは「行光」の方であり、それらが誤読とは考え難い。逆に「行元」と読まれているのはそれこそ系図である『分脈』や軍記物語の『太平記』(一部)ぐらいしかなく、史料的な質を考慮すればむしろこちらを疑うべきではないか(典拠不明ながら息子・忠広の別名が「元栄」であったというがこちらも正しくは「光栄」の可能性がある)。同名の祖先にあやかって「行光」に改名したのではないかと思われる。

以下、行光に関する史料を列挙する。

 

【史料1】康永4(1345)年8月、故・後醍醐天皇七回忌供養のため天竜寺に参詣した足利尊氏・直義兄弟に随兵として同行。

尊卑分脈:「康永天竜供養随兵」 

南北朝遺文 関東編第三巻』(東京堂出版)1581号:「山城三郎左衛門尉行光

同1382・1585号:「山城三郎左衛門尉

同1583・1584・1586号:「二階堂山城三郎左衛門尉

『太平記』巻24「天龍寺供養ノ事大佛供養ノ事」:文中に「二階堂美濃守行通・同山城三郎左衛門尉行光」。  

 

【史料2】『太平記』巻27「御所囲事」足利直義高師直両派間の対立が頂点に達していた貞治5/正平4(1349)年8月、師直派がクーデターを起こした際に、師直邸に集結した武将たちの中に「二階堂山城三郎行元」。

 

【史料3】『鎌倉大日記』観応2(1351)年条:「『政所』山城大夫判官 行光 行恵行暁の誤記貞衡

 

 ★ 1363年、2代将軍・足利義詮政権下で中務少輔に任官。

 

【史料4】貞治2(1363)年12月26日付「二階堂行元巻数返事」(『石上寺文書』)

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 伊勢国石上寺恒例

 歳末巻数令披露

 候了、仍執達如件、

  貞治二年十二月廿六日 中務少輔(花押)

 

【史料5】貞治3(1364)年12月27日付「二階堂行元巻数返事」(『石上寺文書』)

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 伊勢国石上寺歳末

 巻数入見参候了、

 仍執達如件、

  貞治三年十二月廿七日 中務少輔(花押)

 

【史料6】貞治4(1365)年12月22日付「二階堂行元巻数返事」(『石上寺文書』)

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 伊勢国石上寺歳末

 巻数入見参候了、

 仍執達如件、

  貞治四年十二月廿二日 散位(花押)

 

【史料7】貞治5(1366)年12月22日付「二階堂行元巻数返事」(『石上寺文書』)

 

 ★ 1367年、将軍・義詮の死去を悼んで出家(法名:行照)。

 

【史料8】応安元(1368)年12月27日付「二階堂行元巻数返事」(『石上寺文書』)

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 伊勢国石上寺歳末

 御祈禱巻数入見参

 候了、仍執達如件、

  應安元年十二月廿七日 沙弥(花押)

*「沙弥」とは「剃髪して僧形にありながら、妻帯して世俗の生活をしている者」の意で、日本ではしばしば "入道" あるいは "法師" と呼ばれる者がこれを用いることがあった*6

 

【史料9】『花営三代記』応安4(1371)年11月1日・2日条*7:この年の後円融天皇即位に関連して、1日、幕府御即位の沙汰が管領細川頼之の邸宅にて行われ、この際の奉行人の筆頭に「山城中務少輔入道 于時政所」。翌2日の御所における御沙汰においても「相州(=相模守であった頼之)中書入*8」らが参加。

 

ところで、上記史料における「山城」とは本来、父が山城守である場合に付けられる筈である*9。兄・行直も当初は父・美作守貞衡の官途にちなんで「美作次郎左衛門尉高衡」・「美作大夫判官」と呼ばれていたことが確認できる(下記記事参照)。 

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それにもかかわらず、高行 或いは 行光が「美作三郎」ではなく「山城三郎」、そしてその後も「山城三郎左衛門尉」・「山城中務少輔入道」と呼ばれているのは妙である。『分脈』に従えば、行光は叔父・高貞の養子であったが、上記で紹介した複数の「巻数返事」発給は、兄・行直が政所執事として行っていたことを引き継いだものであると言え、最終的には行直の後継者の立場にあったと捉えられる。その通称名から兄・行直の養子(或いは猶子)に転じたのではないかと思われる。 

 

(参考ページ)

 二階堂行元 - Wikipedia

南北朝列伝 ー 二階堂行元

『亀山市史』古代中世資料綱文・史料リスト

亀博WEB図録 亀山市内に伝わる中世文書

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション『大日本史料』6-1 P.423

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪

*3:『分脈』には同一人物が別々に書かれているケースが無いわけではない。例えば、北条時頼の弟として為時・時定が載せられるが、この2人は花押の一致によって同一人物であることが判明している。

*4:山中長俊(やまなか ながとし)とは - コトバンク より。

*5:『大日本史料』7-25 P.141

*6:沙弥(しゃみ)とは - コトバンク より。

*7:『大日本史料』6-34 P.357

*8:「中書」は中務省唐名(→ 中書(ちゅうしょ)とは - コトバンク)、「入」は入道の略。

*9:「山城宮内(少輔)」と呼ばれた氏貞は山城守行直の嫡子とされ、他にも二階堂忠貞(=摂津判官)、二階堂貞藤(=出羽判官)など、父の官途を付した通称を名乗っていた者は二階堂氏一門に多く見られる。