Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

二階堂行泰

二階堂 行泰(にかいどう ゆきやす、1211年~1265年)は、鎌倉時代前期の御家人鎌倉幕府政所執事。父は二階堂行盛。 


史料数点によれば、文永2(1265)年10月2日に享年55(数え年、以下同じ)で亡くなったと伝えられ*1、逆算すると、建暦元(1211)年生まれとなる。

 

紺戸淳の論考に従えば、10~15歳での元服とした場合、元服の年次はおよそ1220~1224年頃と推定できる*2。貞応3(1224)年6月28日からは北条時が幕府の第3代執権となっており、行はその期間に「」の偏諱を許されていたことが分かる。

以上により、紺戸氏の説の通り、北条二階堂行は烏帽子親子関係にあったと判断される。泰時が執権となって間もない頃の元服であろう。『吾妻鏡』では安貞2(1228)年に初めて登場する*3

 

参考文献・リンク 

細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表」No.145「二階堂行泰」の項

 二階堂行泰 - Wikipedia

 

脚注

*1:『吾妻鏡』同日条のほか、『関東評定衆伝』、『北条九代記』(または『鎌倉年代記』)にも記載あり(→ 『史料総覧』5編905冊 P.111 参照)。『尊卑分脈』では同日に57歳で亡くなったとする(→ 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション)が単なる誤記(または誤写・誤伝)であろう。

*2:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)P.15。

*3:吉川本『吾妻鏡』(中卷) - 国立国会図書館デジタルコレクション によると、初出は7月23日条信濃次郎左衛門尉」、10月15日条信濃次郎左衛門尉行泰」が実名の初見である。次に実名が現れる嘉禎元(1235)年6月29日条には「信濃次郎左衛門尉行泰」とともに、その弟とみられる「信濃三郎左衛門尉」なる者が初めて登場し、同3(1237)年6月23日条信濃三郎左衛門尉行綱」に同定される。更にその後、仁治元(1240)年正月3日条には「信濃三郎左衛門尉行綱 同四郎左衛門尉行忠」と兄弟揃って書かれており、この行泰・行綱・行忠3兄弟は『尊卑分脈』(→ 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション)により二階堂氏であることが分かる。尚、3兄弟の父である行盛は同時期においては出家して「信濃民部大夫入道行然」等と呼ばれていた(『尊卑分脈』および『吾妻鏡』建長5(1253)年12月9日条により二階堂行盛と分かる)。以上の情報は、御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、本項作成にあたっては第5刷〈1992年〉を使用)に拠る。