二階堂行泰
二階堂 行泰(にかいどう ゆきやす、1211年~1265年)は、鎌倉時代前期の御家人。鎌倉幕府政所執事。父は二階堂行盛。
史料数点によれば、文永2(1265)年10月2日に享年55(数え年、以下同じ)で亡くなったと伝えられ*1、逆算すると、建暦元(1211)年生まれとなる。
紺戸淳氏の論考に従えば、10~15歳での元服とした場合、元服の年次はおよそ1220~1224年頃と推定できる*2。貞応3(1224)年6月28日からは北条泰時が幕府の第3代執権となっており、行泰はその期間に「泰」の偏諱を許されていたことが分かる。
以上により、紺戸氏の説の通り、北条泰時と二階堂行泰は烏帽子親子関係にあったと判断される。泰時が執権となって間もない頃の元服であろう。『吾妻鏡』では安貞2(1228)年に初めて登場する*3。
参考文献・リンク
● 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表」No.145「二階堂行泰」の項
脚注
*1:『吾妻鏡』同日条のほか、『関東評定衆伝』、『北条九代記』(または『鎌倉年代記』)にも記載あり(→ 『史料総覧』5編905冊 P.111 参照)。『尊卑分脈』では同日に57歳で亡くなったとする(→ 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション)が単なる誤記(または誤写・誤伝)であろう。
*2:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)P.15。
*3:吉川本『吾妻鏡』(中卷) - 国立国会図書館デジタルコレクション によると、初出は7月23日条「信濃次郎左衛門尉」、10月15日条「信濃次郎左衛門尉行泰」が実名の初見である。次に実名が現れる嘉禎元(1235)年6月29日条には「信濃次郎左衛門尉行泰」とともに、その弟とみられる「信濃三郎左衛門尉」なる者が初めて登場し、同3(1237)年6月23日条「信濃三郎左衛門尉行綱」に同定される。更にその後、仁治元(1240)年正月3日条には「信濃三郎左衛門尉行綱 同四郎左衛門尉行忠」と兄弟揃って書かれており、この行泰・行綱・行忠3兄弟は『尊卑分脈』(→ 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション)により二階堂氏であることが分かる。尚、3兄弟の父である行盛は同時期においては出家して「信濃民部大夫入道行然」等と呼ばれていた(『尊卑分脈』および『吾妻鏡』建長5(1253)年12月9日条により二階堂行盛と分かる)。以上の情報は、御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、本項作成にあたっては第5刷〈1992年〉を使用)に拠る。