Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

河越宗重

河越 宗重(かわごえ むねしげ、1271年~1323年)は、 鎌倉時代後期の武将、御家人河越経重の嫡男。官途および通称は、出羽守、河越出羽入道。法名は不詳*1

 

紺戸淳の論文*2によると、『続群書類従』所収「千葉上総系図*3の宗重の注記に「出羽守」と書かれており、

【史料A】『常楽記』元亨3(1323)年6月13日条

 河越出羽入道他界五十三

とあることから、この "河越出羽入道" を出家後の宗重に比定されている。没年齢(数え年、以下同様)から逆算すると文永8(1271)年生まれとなる。

宗重」の名は、「重」が河越氏代々の通字であるから、一方の「」が烏帽子親からの偏諱と考えられるが、同3(1266)年に解職・京へ送還された6代将軍・親王*4から賜ったものでなく、紺戸氏の見解通り、亡くなる弘安7(1284)年4月まで執権の座にあった北条時*5から1字を許されたこと確実である。 前述の生年に基づくと弘安7年の段階では14歳と元服の適齢期であり、宗重=出羽入道とする根拠の1つになり得る。

 

次の記事で紹介している、中山信名撰『平氏江戸譜』(静嘉堂文庫蔵)所収の河越氏系図でも、宗重の注記を見ると、「元三年」を「元三年」と誤記してはいるものの、上記に同じく『常楽記』に基づいて「河越出羽入道」に同定しており、名前についても「時宗ノ一字」と書かれている。

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宗重の死から4ヶ月後、10月27日の北条貞時十三年忌供養において「砂金五十両 二文匆、銀剣一」を「河越三河前司」が献上しており、これは後継者の貞重とされる*6系図類では宗重の子とするが、元弘3(1333)年5月9日の近江国番場宿における自害者を載せる『近江番場宿蓮華寺過去帳』に、出家後とみられる「川越参河入道乗誓六十二歳」の名があり、逆算すると宗重より僅か1歳年下となる文永9(1272)年生まれとなるから、実際は宗重の実弟で、兄・宗重の跡を継いだと考えられている(下記記事参照)

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備考

建武3(1336=延元元)年3月30日、高師直(武蔵権守)が豊後守護代に対し「河越安芸入道宗重、同子息小治郎〔ママ〕治重、次郎仲重」が豊後国香賀地荘に侵入して「濫妨(=乱暴)狼藉」を働くのを鎮めるよう命じた書状が残されている*7

同元(1334)年11月には「河越安芸入道(=旧領)」であった同荘(一部書状では香地荘とも書かれる)の地頭職が大友貞広豊前六郎/田原貞広)大友貞挙(さだたか?、豊前七郎/田原貞挙)兄弟に与えられた*8が、翌2(1335)年10月15日には「河越安芸小次郎治重(=前述の治重(はるしげ)と同人)」が伊藤五郎四郎長尾野蔵人房らを率いて香地荘に乱入して濫妨狼藉を働いている*9。詳細は不明だが、時期からすると1333年の鎌倉幕府滅亡後、幕府(北条氏)側に同調していたためか、元弘没収地となった可能性があり、命までは取られなかった河越安芸入道一家が旧領の奪還を図ったのであろう。

前述の通り、建武3年の書状でこの安芸入道の名が「宗重」と記されるので、一部研究等でこれが河越経重の子・宗重と同一人物とするものがあり、弘安8(1285)年9月晦日付『豊後国図田帳』(内閣文庫所蔵)に「香地郷 地頭川越安芸前司*10、ほぼ同内容を記す同月付の「豊後国大田文案」(『平林本』)にも「香々地郷六十町……地頭河越安芸前司」とある*11ことから、宗重が同年あたりに豊後国香地荘*12地頭として西国へ下ったとする説も生まれている。

しかし、父・経重以前の活動年代を踏まえても、宗重の生年が1271年なのは確実と言って良く、1285年当時15歳で安芸前司(=前安芸守)であったというのは明らかにおかしい。或いは1285年当時、一般の御家人で安芸守(国守)を辞した年齢としては若くとも30~40代ほどが妥当だが、その約50年後=80~90歳以上になるまで存命であったことになり、可能性が全くゼロでは無いにせよ、当時としては長寿過ぎる感じが否めない。

冒頭に掲げた通り、経重の子・宗重に同定される「河越出羽入道」は元亨3年に亡くなった人物として【史料A】に現れており、高師直の書きぶりからし建武3年当時も存命であった「河越安芸入道宗重」とは、官途の違い(出羽守と安芸守)からしても別人と見なすべきであろう。安芸入道の「宗重」は一見俗名にも見えるが「そうちょう(或いは そうじゅう)」と読む出家後の法名だったのではないか*13

 

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▲【系図B】武家家伝_河越氏 より一部抜粋

 

系図と年代から判断するに「河越安芸入道宗重」は河越重方(しげかた)に比定されよう。また、弘安8年当時の地頭「河越安芸前司」は『鎌倉遺文』での推測通り庶流の河越重輔(しげすけ)で良いと思われる。

 

(参考ページ)

河越宗重 - Wikipedia

 

脚注

*1:僅かに、『鎌倉攬勝考』巻九(所収:大日本地誌大系刊行会 編『大日本地誌大系 第5冊』、1914~1917年)「河越太郎第跡」の項の文中に「……元亨の頃、河越出羽入道道・其子弾正少弼某足利家に仕え、……」とあり、年代からして『常楽記』の「河越出羽入道」に比定し得るが、「道衍」は『常楽記』に出羽入道と同日に他界したという「長井将監入道」の法名に同じであり、混同されている可能性も考慮すべきである。また息子の「弾正少弼某」は、本文でも紹介の『平氏江戸譜』河越氏系図と照らし合わせれば、後継者の貞重を指す可能性があるが、史料で確認できる限りでは三河守であった可能性が高く、弾正少弼であったとの裏付けが困難である。「元亨の頃から足利家に仕えていた」という記述についても史料での裏付けが難しく、この『鎌倉攬勝考』での記述については慎重に検討すべき要素が多いので、参考に載せるだけに留めておきたい。

*2:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第二号、1979年)P.18~19。

*3:続群書類従』第六輯下所収。

*4:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:川越市史 第二巻中世編』(川越市、1985年)P.244。『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.708。

*7:『大日本史料』6-3 P.264

*8:『大日本史料』6-2 P.148~151

*9:『大日本史料』6-2 P.654

*10:『鎌倉遺文』第20巻15701号。渡辺澄夫「二豊の荘園について(一) ―豊後国図田帳を中心として―P.55。

*11:『鎌倉遺文』第20巻15700号。

*12:「香地」は香々地の旧表記であるといい(→ 「早田国東塔」が県指定有形文化財に指定されました! | 豊後高田市)、「香地」・「香々地」・「香賀地」はいずれも「かかじ」と読まれていたのだろう。明治時代に香々地村・見目村の区域をもって発足した岬村が1919年香々地町に改称したが、2005年の合併後は大分県豊後高田市内の一地名として残っている。

*13:類似の例として『太平記』巻4「笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事」に「河越三河入道円重」が登場している。河越高重に比定する説もあるが、これが誤りであることは 河越高重 - Henkipedia を参照。恐らくその父・貞重を指すと思われるが、本文でも述べた通り史料上で確認できる法名は「乗誓」である。但し『太平記』は元々軍記物語ゆえ史実と変えている可能性も十分考えられ、「円重」は河越氏系図類でこの俗名を持つ人物が確認できないことからやはり法名で「えんちょう/えんじゅう」と読むべきであろう。そもそも他の史料を見ても一般的に「~入道」の後には法名を記すのが普通である。