二階堂貞衡
二階堂 貞衡(にかいどう さだひら、1291年~1332年)は、鎌倉時代後期から末期にかえての御家人、鎌倉幕府の政所執事。父は二階堂行貞。官途は左衛門尉、美作守。法名は行恵(ぎょうけい)。
『北条九代記』(『鎌倉年代記』と同内容)に「行恵 美作入道 俗名貞衡 元徳四年正月七日四十二」とあるなど、複数の史料で元徳4/元弘2(1332)年1月7日に42歳(数え年、以下同様)で亡くなったことが確認でき*1、逆算すると正応4(1291)年生まれとなる。
紺戸淳氏の見解によると、元服の年齢を10~15歳と仮定した場合その時期は1300~1305年と推定可能で、「貞衡」の名は当時の得宗・北条貞時(執権在職:1284~1301年、1311年逝去)*2が烏帽子親となって偏諱を与えたものとする*3。
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貞時が執権を辞して出家した正安3(1301)年当時、貞衡は11歳と十分元服の適齢であったが、小笠原貞宗のように貞時が得宗(副将軍)の立場でその後も暫く一字付与を行っていた可能性があり(1309年の嫡男・高時の元服までと推測される)、貞衡が同様の事例であった可能性も否定はできない。いずれにせよ、貞時が亡くなる1311年には貞衡は21歳となり元服を済ませていたことは確実と言って良いだろう。
貞時からの一字拝領とするもう一つの理由として、『尊卑分脈』二階堂氏系図*4には、弟に高貞(のち行広)、息子に高衡(のち行直)・高行(のち行光)の記載が見られるが、いずれも次の得宗・北条高時の偏諱を受けたことは間違いない。鎌倉幕府滅亡後の建武元(1334)年までその名を名乗っていたことが確認され、改名がその後であったことは明らかで、等しく「高」の字を棄てているからである。(これについては下記記事▼を参照のこと。)
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行貞・貞衡と2代続けて貞時の偏諱を賜った例は大変珍しいが、父と同名を避けるためもう1字には二階堂氏通字の「行」ではなく「衡」を用いている。これは祖先にあたる藤原為憲の父・維幾(これちか)の初名「真衡(藤原真衡)」(『尊卑分脈』)*5に由来するものと思われ、嫡男・高衡も同字を継承している。烏帽子親子関係を通じて得宗家と関係を深めた様子が窺え、正中3(1326)年3月の出家も高時の出家*6に追随したものであろう。
文保3(1319)年3月11日付「将軍家(守邦親王)政所奉行人連署奉書」(『色部文書』)*7には奉者の一人「前美作守」の署名と花押が据えられている(上図)が、これは貞衡のものではないかとされる*8。貞衡が美作守であったことは冒頭の『北条九代記』や『常楽記』に「美作入道」とあるほか、嫡男の高衡が「美作次郎左衛門尉高衡」と呼ばれている(『建武年間記』)ことからも裏付けられ、前述の生年に基づけばこの当時29歳となるが、国守に任官し辞した年齢としては決しておかしくはないだろう。
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この頃も父・行貞(法名:行暁)が政所執事の座にあったが、 その嫡子として代理を務めることがあったのかもしれない。貞衡が執事を継ぐのは父が亡くなった嘉暦4/元徳元(1329)年のことであるが、冒頭で示した通りその約3年後に「頓死」(『鎌倉大日記』)してしまった。それ故か、政所執事としての発給書状など貞衡に関する史料はほとんど残されていないようである。
(参考ページ・文献)
● 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.160「二階堂(信濃)貞衡」の項
脚注
*1:『史料稿本』後醍醐天皇紀・元弘2年正~2月 P.19。『尊卑分脈』や『鎌倉大日記』では元弘元年とするが、単なる誤記であろう。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*3:紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』2号、中央史学会、1979年)P.15。
*4:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『大日本史料』6-1 P.423。
*5:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。