塩冶頼泰
佐々木 頼泰(ささき よりやす、1243年頃?~没年不詳(1303年以前))は、鎌倉時代中期から後期にかけての武士、御家人。塩冶頼泰(えんや ー、旧字体:鹽冶賴泰)とも。
『吾妻鏡』正元2(1260=文応元)年正月1日条には「信濃次郎左衛門尉」(=佐々木時清)と共に「信濃三郎左衛門尉」の名が見られ*1、これが史料上における頼泰の初見とされる*2。
この「信濃三郎左衛門尉」について、『吾妻鏡人名索引』*3では、通称名の一致から、文永3年7月3日条の「信濃三郎左衛門尉行章」と同人とする*4が、実名の一致からすると同じ頃に現れる「和泉三郎左衛門尉行章」(=二階堂行章)*5の誤記ではないかと思う。正元2年の記事の後半には「和泉三郎左衛門尉行章 信濃次郎左衛門尉時淸」と書かれており、「信濃三郎左衛門尉」は行章とは別人と考えるべきであろう。
「信濃次郎左衛門尉時清」の名は父・佐々木泰清が前信濃守であったことによるもので、「信濃三郎左衛門尉」は次郎時清の弟に比定して良かろう。実名は『尊卑分脈』により、義重・時清に次ぐ泰清の3男「頼泰」と分かる*6。
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こちら▲の記事で紹介している通り、次兄の時清は仁治3(1242)年生まれ*7(『吾妻鏡』での初見は建長2(1250)年正月16日条「隠岐新左衛門尉時清」)であるから、頼泰の生年はこれ以後となる。時清と同年の生まれとしても、前述の『吾妻鏡』初見の段階では19歳(数え年)となり、左衛門尉に任官して間もない年齢としては妥当である。よって、頼泰は時清とさほど年齢が離れていない弟であったと考えられる。
「頼泰」の名乗りは、「泰」が父・泰清からの継字であるから、「頼」が烏帽子親からの一字拝領と考えられる。元服が通常10数歳で行われることが多かったことを踏まえても、寛元4(1246)年から執権の座にあった北条時頼*8から偏諱を許されたものと見て間違いなかろう*9。
史料上での終見は、弘安7(1284)年9月4日、二月騒動(1272年)で誅せられた北条時輔の遺児の諸所巡回を用心すべきとの関東御教書を、出雲守護として鰐淵寺に施行した「佐々木頼泰施行状」(『鰐淵寺文書』)*10であり、同年までの生存は確認できる。
*勝山清次氏は、頼泰が弘安11(1288)年9月に塩冶郷内大津村田地一町を杵築大社神田に寄進したとする*11が、これは同元(1278)年の誤りである*12。弘安11年当時も頼泰がまだ存命であった可能性があるが、史料で確認できるのは同7年までである。
乾元2(1303=嘉元元)年4月11日、頼泰の嫡子・貞清が鰐淵寺北院三重塔修理料田として生馬郷内一町を寄進しているが、その寄進状(『出雲鰐淵寺文書』)*13中に「亡祖父信州禅門」(=泰清、最終官途:信濃守)とともに、「亡父金吾禅門」の名が記されている*14。「金吾」は衛門府の唐名*15で、『尊卑分脈』での頼泰の注記「左衛門尉」に一致する。よって、乾元2年の段階で頼泰は既に故人であったことが分かる。享年は50代後半であったと推定できよう。
(参考ページ)
● 隠岐流佐々木氏: 佐々木哲学校(佐々木哲氏のブログ記事)
● 佐々木泰清の子孫
●『尊卑分脈』(新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
脚注
*3:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)。
*5:『吾妻鏡人名索引』P.147~148「行章 二階堂」の項。
*6:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。
*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その102-隠岐時清 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪より。
*9:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.15系図。佐々木泰清の子孫の名前: 資料の声を聴く。
*10:『鎌倉遺文』第20巻15300号。
*11:安田元久編『鎌倉・室町人名事典:コンパクト版』(新人物往来社、1990年)P.244 「佐々木頼泰」の項(執筆:勝山清次)より。
*12:弘安元年9月4日付「佐々木頼泰田地寄進状」(『出雲大社文書』、『鎌倉遺文』第17巻13166号)。「左衛門尉源頼泰」名義で花押を据えている。
*13:『鎌倉遺文』第28巻21425号。
*14:出雲国守護について(補足): 資料の声を聴く、出雲国守護について(補足)参照。
*15:金吾 - Wikipedia より。左衛門尉に任官し「金吾」と呼ばれた例としては、四条頼基、平頼綱(平左衛門尉/平金吾)、尾藤時綱(尾金=尾藤金吾)等が挙げられる。