二階堂貞綱
二階堂 貞綱(にかいどう さだつな、1260年代?~没年不詳)は、鎌倉時代後期の御家人。
生年の推定
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こちら▲の記事で紹介した通り、『尊卑分脈』には父・二階堂頼綱について「弘安六十廿四卒 四十五」(弘安6(1283)年10月24日、数え45歳で死去)との注記があり*1、逆算すると延応元(1239)年生まれと分かる。従って、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、貞綱の生年はおよそ1259年より後の筈である。
一方で、『実躬卿記』正応4(1291)年5月9日条には、この日の新日吉社五月会流鏑馬5番を務める人物として「下総三郎左衛門尉藤原貞綱」の記載がある*2。細川重男氏は「下総」が「下野」の誤記として宇都宮貞綱に比定される*3が、『尊卑分脈』に「下総守 頼綱」の子で「三郎左衛門尉 貞綱 本名師綱」と書かれる二階堂貞綱*4とするのが正しいのはないかと思う*5。
この頃在京であったことが窺えるが、その通称名に着目したい。「三郎左衛門尉」はかつて父・頼綱も称していたものであるが、22歳(数え年)で左衛門尉に任官済みであったことが確認できる*6ので、正応4年当時の貞綱も20代前半には達していたと推測される。従って遅くとも1260年代後半の生まれであろう。
以上2点より、1260年代の生まれであることは確実であると思われる。
息子・二階堂行朝(行珍)について
『尊卑分脈』には貞綱の子として二階堂行朝(ゆきとも)が載せられている。その注記によると、左衛門尉・信乃守(=信濃守)任官を経て、正中3(1326)年3月に出家し「行珍(ぎょうちん)」と号したという*7。得宗・北条高時の剃髪に追随したものであろう。
行朝については没年が1353年であることは分かっている*8ものの、没年齢(享年)については明らかにされていないため、貞綱に同じく生年不詳である。史料上では「二階堂信濃入道行珍」*9、「信濃前司入道行珍」*10等と呼ばれていることが確認できるが、その呼称から出家前の最終官途が信濃守であったことが分かる。すなわち、正中3年の段階で信濃守を既に辞していたことになり(信濃前司は前信濃守の意)、国守任官に相応の30代以上の年齢であったと推測される。
『尊卑分脈』によれば、長男・行親は建武2(1335)年正月に討たれたといい、次男・行通は康永4(1345)年の天龍寺供養に随兵として同行した時、美濃守であった*11から、彼らは遅くとも1310年代には生まれていたと考えられる。よって、父である行朝の生年は1280年代~1290年頃だったのではないかと推定され、前節で述べた貞綱の生年の推定期間を裏付けるものになるだろう。
(参考ページ)
貞綱の名乗りについて
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こちら▲の記事でも紹介の通り、父・頼綱は得宗(第5代執権)北条時頼を烏帽子親としてその偏諱を受けたものとみられる*12。
このような観点に基づけば、その嫡男である貞綱も同様であったと推測される。すなわち、正応4年の段階で「貞綱」を名乗っていたことは前述した通りだが、当時の得宗・北条貞時(第9代執権在職:1284年~1301年)*13の偏諱が許されていることが分かる。 弘安7(1284)年4月以後に貞時から直接一字を拝領したと考えて問題ないだろう。
但し前述の通り『尊卑分脈』には「本名師綱」とあり、元服時の烏帽子親が同じく貞時であったかどうかは判断し難い。ただ、前述の生年からすると弘安7年当時は元服前後の年齢であったと考えられるので、師綱(もろつな)を名乗った期間は短かったと推測される。或いは安達盛長(藤九郎)の加冠を受けた佐々木盛綱(初名:秀綱)*14と同様に「師綱」は幼名だったのかもしれない*15。
脚注
*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№106-宇都宮貞綱 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*4:『大日本史料』6-18 P.375 も参照。
*5:前述の通り、この当時は頼綱が亡くなってから8年が経っているが、父の死後もその官途を付けた通称名で呼ばれた例は、北条高時(相模守・相模入道)亡き後に「相模次郎」を称したその遺児・北条時行や、父・北条師時(10代執権、相模守)の死後も「相模左近大夫」と呼ばれた北条貞規など、少なからず確認できる。
*6:『吾妻鏡』での初見である、文応元(1260)年正月1日条に「伊勢次郎左衛門尉行経 同三郎左衛門尉頼綱」とある。御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.424「頼綱 二階堂」の項による。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。
*7:その他『武家年代記』にも「行珍、俗名行朝、信濃入道」と書かれている(→『大日本史料』6-5 P.12)ことにより、「信濃入道行珍」=行朝であったことは確実である。
*9:前注同箇所 など。
*10:『大日本史料』6-1 P.455 または http://www.infoaomori.ne.jp/~kaku/akiiemonjyo.htm。
*11:『太平記』巻24「天龍寺供養ノ事付大佛供養ノ事」などで確認ができる。
*12:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。
*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*15:『諸家系図纂』には貞綱の子・行朝の注記に「元 師継〔ママ〕」とあり(→ 注4同箇所)、行綱―頼綱―貞綱と「綱」を通字としてきたことも考慮すれば、師綱が行朝の初名であった可能性も排除は出来ないだろう。この場合、10代執権・師時からの一字拝領を想定できなくはないが、裏付けられる史料の無い今はその判断を差し控えたい。