Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

二階堂貞綱

二階堂 貞綱(にかいどう さだつな、1260年代?~没年不詳)は、鎌倉時代後期の御家人

 

 

生年の推定

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こちら▲の記事で紹介した通り、『尊卑分脈』には父・二階堂頼綱について「弘安六十廿四卒 四十五(弘安6(1283)年10月24日、数え45歳で死去)との注記があり*1、逆算すると延応元(1239)年生まれと分かる。従って、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、貞綱の生年はおよそ1259年より後の筈である

 

一方で、『実躬卿記』正応4(1291)年5月9日条には、この日の新日吉社五月会流鏑馬5番を務める人物として「下総三郎左衛門尉藤原貞綱」の記載がある*2。細川重男は「下総」が「下野」の誤記として宇都宮貞綱に比定される*3が、『尊卑分脈』に「下総守 頼綱」の子で「三郎左衛門尉 貞綱 本名師綱」と書かれる二階堂貞綱*4とするのが正しいのはないかと思う*5

この頃在京であったことが窺えるが、その通称名に着目したい。「三郎左衛門尉」はかつて父・頼綱も称していたものであるが、22歳(数え年)で左衛門尉に任官済みであったことが確認できる*6ので、正応4年当時の貞綱も20代前半には達していたと推測される。従って遅くとも1260年代後半の生まれであろう

以上2点より、1260年代の生まれであることは確実であると思われる。

 

 

息子・二階堂行朝(行珍)について

尊卑分脈』には貞綱の子として二階堂行朝(ゆきとも)が載せられている。その注記によると、左衛門尉・信乃守(=信濃守)任官を経て、正中3(1326)年3月に出家し「行珍(ぎょうちん)」と号したという*7得宗北条高時の剃髪に追随したものであろう。

行朝については没年が1353年であることは分かっている*8ものの、没年齢(享年)については明らかにされていないため、貞綱に同じく生年不詳である。史料上では「二階堂信濃入道行珍*9、「信濃前司入道行珍*10等と呼ばれていることが確認できるが、その呼称から出家前の最終官途が信濃守であったことが分かる。すなわち、正中3年の段階で信濃守を既に辞していたことになり信濃前司は前信濃守の意)、国守任官に相応の30代以上の年齢であったと推測される。

 

尊卑分脈』によれば、長男・行親は建武2(1335)年正月に討たれたといい、次男・行通は康永4(1345)年の天龍寺供養に随兵として同行した時、美濃守であった*11から、彼らは遅くとも1310年代には生まれていたと考えられる。よって、父である行朝の生年は1280年代~1290年頃だったのではないかと推定され、前節で述べた貞綱の生年の推定期間を裏付けるものになるだろう。

 

(参考ページ)

 二階堂行朝 - Wikipedia

二階堂行朝(にかいどう ゆきとも)とは - コトバンク

● 南北朝列伝 #二階堂行朝

 

 

貞綱の名乗りについて 

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こちら▲の記事でも紹介の通り、父・綱は得宗(第5代執権)北条時を烏帽子親としてその偏諱を受けたものとみられる*12

このような観点に基づけば、その嫡男である貞綱も同様であったと推測される。すなわち、正応4年の段階で「」を名乗っていたことは前述した通りだが、当時の得宗北条(第9代執権在職:1284年~1301年)*13偏諱が許されていることが分かる。 弘安7(1284)年4月以後に貞時から直接一字を拝領したと考えて問題ないだろう。

 

但し前述の通り『尊卑分脈』には「本名師綱」とあり、元服時の烏帽子親が同じく貞時であったかどうかは判断し難い。ただ、前述の生年からすると弘安7年当時は元服前後の年齢であったと考えられるので、師綱(もろつな)を名乗った期間は短かったと推測される。或いは安達(藤九郎)の加冠を受けた佐々木(初名:秀綱)*14と同様に「師綱」は幼名だったのかもしれない*15

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:『実躬卿記』正応4(1291)年5月9日条

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№106-宇都宮貞綱 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*4:『大日本史料』6-18 P.375 も参照。

*5:前述の通り、この当時は頼綱が亡くなってから8年が経っているが、父の死後もその官途を付けた通称名で呼ばれた例は、北条高時(相模守・相模入道)亡き後に「相模次郎」を称したその遺児・北条時行や、父・北条師時(10代執権、相模守)の死後も「相模左近大夫」と呼ばれた北条貞規など、少なからず確認できる。

*6:吾妻鏡』での初見である、文応元(1260)年正月1日条に「伊勢次郎左衛門尉行経 同三郎左衛門尉頼綱」とある。御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.424「頼綱 二階堂」の項による。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*7:その他『武家年代記』にも「行珍、俗名行朝、信濃入道」と書かれている(→『大日本史料』6-5 P.12)ことにより、「信濃入道行珍」=行朝であったことは確実である。

*8:『大日本史料』6-18 P.374

*9:前注同箇所 など。

*10:『大日本史料』6-1 P.455 または http://www.infoaomori.ne.jp/~kaku/akiiemonjyo.htm

*11:『太平記』巻24「天龍寺供養ノ事付大佛供養ノ事」などで確認ができる。

*12:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*14:『大日本史料』4-13 P.806

*15:『諸家系図纂』には貞綱の子・行朝の注記に「元 師継〔ママ〕」とあり(→ 注4同箇所)、行綱―頼綱―貞綱と「綱」を通字としてきたことも考慮すれば、師綱が行朝の初名であった可能性も排除は出来ないだろう。この場合、10代執権・師時からの一字拝領を想定できなくはないが、裏付けられる史料の無い今はその判断を差し控えたい。