金沢実泰
北条 実泰(ほうじょう さねやす、旧字表記:北條實泰(實𣳾)、1208年~1263年)は、鎌倉時代前期の御家人、北条氏の一門。金沢流北条氏の祖で、金沢実泰(かねさわ ー)とも呼ばれる。初名は北条実義(さねよし、金沢実義)。通称(輩行名)は五郎。
▲伝・北条実泰像(称名寺蔵)
生没年の根拠となるのは次の史料(記事)である。
逆算すると、承元2(1208)年生まれとなる。実泰は27歳であった天福2(1234)年に、息子の実時に家督 および 小侍所別当の座を譲る形で出家していた*2が、生涯無官のままで「五郎」(陸奥五郎入道)を通称としていたことが窺える(これに対して嫡男・実時は父・実泰が亡くなるまでに、越後守に昇進した)。
尚、父・北条義時が相模守→陸奥守と転任するに従って、実泰の呼称も「相模五郎」→「陸奥五郎」と変化している(『吾妻鏡人名索引』)。次の史料は、第2代執権・相模守義時の息子・五郎の元服に関する記事である。
「御前」とは「貴人・主君などの面前」の意である*4が、この表現が使われるのは将軍の時であり、当時の将軍・源実朝の御前に於いて元服したことになる。この時、実泰は初名の「実義(さねよし)」を名乗っているが、「義」が父・義時の1字である一方で、「実」は源実朝が加冠役となって偏諱を下賜したものであろう*5。
ところで、『吾妻鏡』での実名の表記は途中で変化している。嘉禄元(1225)年5月12日条(「陸奥四郎政村 同五郎実義」)まで「実義」で通されていたものが、安貞2(1228)年1月3日条からは「陸奥五郎実泰」と変化しており*6、この間に改名を行ったものと推測される。
元仁元(1224)年には父・義時が亡くなり、その継室であった伊賀の方が兄・光宗とともに、自身の長男である北条政村を執権に立てよう*7と画策するも頓挫し配流になる事件が起こっている(伊賀氏の変)。しかし、第3代執権の座にあった長兄・北条泰時の計らいにより、伊賀の方の息子であった政村と実泰(実義)については連座を免れ、「実泰」の名は泰時から偏諱を許されたものと考えて良いだろう*8。
(参考リンク)
脚注
*5:『朝日日本歴史人物事典』「北条実泰」の項(執筆:福島金治/コトバンク掲載)、山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』, 思文閣出版、2012年)P.182 脚注(27)、今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.46。
*6:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、1971年)P.224。
*7:政村がのちに得宗・北条時宗の就任までの中継ぎとして第7代執権となったのは、60歳となった文永元(1264)年8月のことである。
*8:注5山野氏論文、同箇所。