北条 重時(ほうじょう しげとき、1198年~1261年)は、鎌倉時代前期の武将、御家人。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の3男。母は義時最初の正室であった、比企朝宗の娘・姫の前。極楽寺流北条氏の祖にあたり極楽寺重時とも呼ばれる。
六波羅探題北方・鎌倉幕府連署をはじめとする幕府の要職を歴任したことなど、重時の生涯や活動については、本稿最後の参考ページを参照していただければと思う。以下本稿では、重時を巡る烏帽子親子関係に重きを置いて述べることとしたい。
重時の烏帽子親は誰か?
北条義時は「義」が三浦氏(義明または義澄)からの偏諱であったと推定されており*1、息子についても一部が『吾妻鏡』によってその烏帽子親を知ることができる。
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義時の子 |
烏帽子親 |
年齢 |
『吾妻鏡』 |
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(のち泰時) |
①源頼朝 |
12 |
建久5(1194)年2月2日条 |
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③源実朝 |
13 |
建永元(1206)年10月24日条 |
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重時 |
? |
? |
なし |
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? |
? |
なし |
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三浦義村 |
9 |
建保元(1213)年12月28日 |
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(のち実泰) |
③源実朝 |
7 |
建保2(1214)年10月3日条 |
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? |
? |
なし |
重時は朝時の同母弟でありながら『吾妻鏡』に元服に関する記事が見られない。重時の伝記をまとめた森幸夫氏は「重」の1字を与えた人物が烏帽子親であったとし*2、その後の論文では八田(小田)知重と葛西清重を候補に挙げた上で、重時がのちに最初の正室として八田知家(知重の父)の養子・中条家長の姪(実弟・苅田義季の娘)であった荏柄尼(えがらのあま、法名:西妙(さいみょう)、北条為時(苅田時継)の母)を迎えている*3ことから、知重の可能性が高いのではないかと説かれている*4。
「北条時政以来後見次第」(東大影写)や『武家年代記』宝治元年条によると、重時は建久9(1198)年生まれであったという。元服の時期は不明だが、森氏は泰時や朝時と同じ12・13歳(数え年、以下同様)で行われたと考えて承元3(1209)年か同4(1210)年ではないかと推定されている*5。
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翌年には長男の小田泰知が生まれており、重時が存命であった知重の1字を受けることは可能である。また、今度は北条氏→小田氏という形で、泰知と次男・泰重(高岡泰重)がのちに泰時の1字を受けて元服した様子である。義時や政村のように、北条氏と三浦氏は互いに烏帽子親子関係を重ねた*6が、北条氏と小田氏も同様だったのであろう。「佐野本 三浦系図」によると、三浦泰村の娘の一人が泰知に嫁いで嫡男の時知をもうけたと伝わり*7、北条・小田・三浦の3氏が烏帽子親子や婚姻を通じた深い関係を構築していたことになる。
*ちなみに、重時の弟、政村の兄にあたる北条有時については、『吾妻鏡』正治2(1200)年5月25日条に生誕の記事があり、13歳となった建暦2(1212)年の元服であったと推測される。弟の政村・実義は、義時2番目の正室・伊賀の方所出の子のためか、前倒しでの元服となったが、それでも兄弟の順に行われたことになり正しいのではないかと思われる。同様に「有」の字を与えた人物が烏帽子親の可能性が高い。
北条重時の一字拝領者とみられる人物
重時が存命の間に、重時に近い関係にして「重」字を持つ人物が散見される。寛喜2(1230)年から六波羅探題北方として在京であった重時は、宝治元(1247)年7月に同探題を辞した上で鎌倉に戻りすぐさま連署に就任した*8が、建長8(1256)年3月の出家による連署辞任、ひいては弘長元(1261)年の死没*9までの間に「重」の字を得て元服したとみられる関東御家人もその中に含まれる。彼らは、今度は反対に重時が「重」の字を与えたものとみられ、この節ではその該当者とみられる人物をピックアップしてみたいと思う。
結城重光(山川重光)
結城重光(しげみつ、山河重光/山川重光)は、結城朝光の子で山川氏の祖となった人物である。通称は五郎。官途は兵衛尉、左衛門尉(左衛門少尉)。
弘長元(1261)年11月3日に重時が亡くなると、すぐさま重光はその死を悼んで出家し、同時に検非違使を辞退した。法名は覚日(『結城小峯文書』所収「結城系図」)*10。
このような重時と重光の関係から、両者は烏帽子親子関係にあったのではないかと推測されており*12、筆者も同意である。以下具体的に検証してみたい。
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父・朝光についてはこちら▲の記事で紹介の通り、40歳で左衛門尉、62歳で上野介に任官したという。
重光の生年は不明だが、長兄(朝光の長男)結城朝広が生まれた文治5(1189)年~建久元(1190)年*13以後であることは確かだろう。一応1190年生まれを採用の上で、『吾妻鏡』での朝広の登場箇所や表記を辿っていくと次の通りである*14。承久3(1221)年5月25日条「結城七郎朝広」を初出とし、貞応2(1223)年10月13日条「結城七郎兵衛尉」(翌元仁元年2月11日条にも「結城七郎兵衛尉朝広」)の頃に34歳で兵衛尉となった可能性はあるが、再び「結城七郎」のみの表記に戻っており不明である。45歳となった文暦元(1234)年7月26日条「上野七郎左衛門尉」以降は左衛門尉に任官していたことが窺え、その後は上野判官・大蔵権少輔などと表記が変わっていった。左衛門尉任官は父・朝光より遅いタイミングだが、初任官が逆に低年齢化した可能性がある。
以上を踏まえた上で重光についても見ていくと、『吾妻鏡』では寛喜元(1229)年9月17日条「結城五郎重光」が初出とされ、暦仁元(1238)年2月28日条「上野五郎重光」から仁治元(1240)年3月7日条「上野弥四郎右衛門尉時光(=兄・寒河時光) 同五郎兵衛尉重光」の間に兵衛尉に任官した様子である*15。間を取って1239年に兄・朝広と同じ34歳で任じられたとすると1206年生まれとなり、この数年後に元服した重時からの一字拝領は可能である。
父・朝光と同じ13~14歳で行ったとすると、1218~1219年の元服と推定され、六波羅探題北方として上洛する前の重時から偏諱を受けたことになる。兄・時光の「時」も北条氏(泰時か?)から賜った可能性があり、時光・重光兄弟は何か個人的な事情・経緯で北条氏と烏帽子親子関係を結んだのであろう。
出家後の動向や死没については不明である。重光には男子がなく、その跡は甥(時光の子)の重義(しげよし)が継ぎ、その子・貞重も得宗専制体制が強化される中で得宗・北条貞時の偏諱を受けたと考えられている。重光の娘は安達時顕の母となっている(後掲の安達氏系図を参照)。historyofjapan-henki.hateblo.jp
戸次重秀
大友親秀(初名:親直)の子で大友頼泰の実弟にあたる。梅野敏明氏*16が紹介の東京大学史料編纂所所蔵本「戸次系図」のほか、『速見 入江文書』所収の「大友田原系図」*17や『続群書類従』所収「大友系図」によると、重時の娘・中村禅尼(法名:玲阿)が重秀に嫁ぎ、その嫡男・時親の母であったと伝えられ、その後の戸次氏当主「時親―貞直―高貞」は歴代得宗「時宗―貞時―高時」を烏帽子親としその偏諱を受けたというが、その名乗りを見ても疑いはなかろう。特に、戸次時親と北条時宗はともに重時の外孫にあたり、従兄弟の関係にあった。
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また、こちら▲の記事で紹介の通り、兄・頼泰も初名の「泰直」が元服時に北条泰時の一字を拝領したものとみられ、従って梅野氏もご指摘の通り、その弟・重秀が泰時の弟・重時と"弟同士で"烏帽子親子関係を結んだと考えても自然と思われ、中村禅尼との結婚の前提になっていたのではないかと考えられる。『系図纂要』の重秀の注記にも「以赤橋重時縁坐服近北条氏」*18という、重時との関係性をきっかけに北条氏に接近するようになったことを示唆するような記載が見られる。
安達重景

生没年は1242年~1285年とみられる。
上に掲げた『尊卑分脈』などの系図類によると、時盛(1241年生まれ)と顕盛(1245年生まれ)の間の、義景の5男とされ、実際に「五郎」を称していた。異母の兄弟なのだろうが、重景(しげかげ)の生年は1241~1245年の間(1240年代前半)と推定可能である。
『吾妻鏡』では、建長4(1252)年4月3日条「城五郎重景」が初出とされ*19、この時までに10代前半という適齢を迎えて元服を済ませていた筈である。また、正嘉元(1257)年12月29日条では「城五郎重景」とあったものが、翌2(1258)年1月1日条では「城五郎左衛門尉」・「城四郎左衛門尉時盛 同五郎重景」と表記に変化が見られ、この頃に左衛門尉に任官したと推測される。時盛も同じく『吾妻鏡』での表記の変化*20から1256~1257年の間に16~17歳で左衛門尉任官を果たしたことが窺えるので、重景も同様でその1歳下の弟であったと考えておきたい。元服も時盛に同じく9歳を迎えた建長2(1250)年に行われたのではないかと思う。
先行研究では兄弟について、頼景は時頼(正しくは4代将軍・九条頼経か?)、泰盛は泰時、時盛は時頼、時景は時宗から偏諱を受けたものと考えられており、重景の場合は「景」が父・義景からの継字であるから「重」が烏帽子親からの偏諱とみるべきであろう。
1250年当時は、執権が北条時頼、連署が北条重時の体制下にあり、時頼の1字を受けた時盛に対し、重景は重時の加冠により元服し、その偏諱を受けたと見なして良いのではないかと思う。重時と安達氏は、重時の娘・藤岡が長兄の安達泰盛に嫁いだ関係で縁戚関係も構築していた。
系図でも「出家 弘安八被誅」とある通り、弘安8(1285)年の霜月騒動では泰盛ら一族と運命を共にしており、12月2日付「安達泰盛乱自害者注文」(熊谷直之氏所蔵『梵網戒本疏日珠抄 裏文書』)*21にある「城五郎左衛門入道」が重景に比定されよう。法名は不明。
難を逃れた遺児の安達師景(もろかげ)は成長して10代執権・北条師時の偏諱を受けたとみられ、『公衡公記』に登場する。詳しくは下記記事をご覧いただければと思う。
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備考
その他、重時の側近・被官層にも「重」字を共有する人物が見られ、森氏の先行研究に頼りながら紹介したい。
1人目は六波羅評定衆に列なるほどの有力者であった波多野義重である。初名は宣政(のぶまさ)であったという。元々は相模国波多野庄(現・神奈川県秦野市)に拠点を置く御家人であったが、南波多野庄が重時の所領となったためにその被官になったとされ、義重・宣時(のぶとき)父子は重時やその子長時・時茂に仕えたという*22。「秀郷流系図」松田によると義重に重時娘の一人が嫁いで宣時を産んだというが、宣時の活動年代からして無理があるとする*23。
2人目に佐治重家を挙げたい。森氏*24によると、和田合戦で義時側に付き戦功を挙げた恩賞として因幡国佐治郷の地頭に任ぜられた佐治重貞の子孫(あるいは子)とされ、重時の六波羅探題在任中に家人になったと考えられている。前述の山河重光に同じく、重時逝去の際に出家したという。
義重は『吾妻鏡』では承久3(1221)年6月6日条「波多野五郎義重」が初出で、寛元4(1246)年正月10日条「波多野出雲前司義重」までには出雲守を退任している*25。遅くとも重時が元服した頃の1210年あたりの生まれとみられ、若き重時からの一字拝領は可能かもしれないが、当時の執権・義時や泰時を差し置いて、わざわざそうする動機が不明である。
一方、息子・波多野宣時も「宣」が義重(宣政)の一字継承に対して「時」は北条氏からの偏諱の可能性が高い。『吾妻鏡』では宝治2(1248)年正月20日条「波多野出雲五郎」が初出、次いで建長2(1250)年正月3日条「出雲五郎左衛門尉宣時」とあるのが確認できる*26から、遅くとも1230年頃の生まれとみられ、当時の執権(泰時・経時・時頼)や重時がその候補になり得ると思うが判断し難い。
佐治重家についても単に重貞の「重」を通字継承しただけとも考えられ、一字拝領の確証はないので、その判断は差し控えたい。
(参考ページ)
● 北条重時(ホウジョウシゲトキ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
● 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その26-極楽寺重時 | 日本中世史を楽しむ♪
脚注
*1:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.17。
*2:森幸夫『北条重時』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2009年)P.5。
*3:注2前掲森氏著書 P.25~26 でも言及あり。
*4:森幸夫「重時の烏帽子親は誰か」(所収:『本郷』84号、吉川弘文館、2009年)。
*5:注2に同じ。
*6:この頃の他の例としては、義時の弟・時連(のちの時房)が三浦(佐原)義連の加冠により元服したことが『吾妻鏡』文治5(1189)年4月18日条に見える。
*8:「前田本平氏系図」(→『大日本史料』5-22 P.258)ほか。次注の職員表も参照のこと。
*9:以上、重時の経歴については 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その26-極楽寺重時 | 日本中世史を楽しむ♪ を参照のこと。
*10:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図I】参照。
*11:『結城市史 第一巻 古代・中世 史料編』P.580 より引用。漢文訓読の返り点(一二点)も同書に拠った。
*12:市村高男「鎌倉末期の下総山川氏と得宗権力 : 二つの長勝寺梵鐘が結ぶ関東と津軽の歴史」(所収:『弘前大学國史研究』100号、弘前大学國史研究会、1996年)P.26。
*13:『続群書類従』所収の各結城氏系図での記載より。
*14:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.358~359「朝広 結城」の項 より。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。
*15:『吾妻鏡人名索引』P.237「重光 結城」の項 より。
*16:梅野敏明「鎌倉期由布院における戸次一族の所領獲得について」(所収:『挾間史談』 第6号、挾間史談会、2018年)P.38~39。
*18:系図纂要18(12ページ目)参照。尚、極楽寺流北条氏の嫡流(重時の嫡男で6代執権・長時の系統)が赤橋流北条氏と呼ばれることから、この「赤橋重時」は年代から考えても本項の北条重時と見なして良かろう。
*19:『吾妻鏡人名索引』P.236「重景 安達」の項 より。
*20:『吾妻鏡人名索引』P.198~199「時盛 安達」の項 より。
*21:『鎌倉遺文』第21巻15738号。年代記弘安8年 も参照のこと。
*22:注2前掲森氏著書 P.169。
*23:注2前掲森氏著書 P.177。
*24:注2前掲森氏著書 P.171~172。