北条頼直
北条 頼直(ほうじょう よりなお / よりただ?、1241年頃?~没年不詳(1263年以後))は、鎌倉時代中期の武将、御家人。北条氏一門。武蔵守・北条(大仏)朝直の8男。通称は八郎(武蔵八郎)。子に北条(佐介)宗直。
まず、『吾妻鏡』での登場箇所は次の通りである。
年 |
月日 |
表記 |
建長2(1250) |
12.27 |
武藤〔武蔵?〕八郎 |
建長6(1254) |
8.15 |
武蔵八郎頼直 |
建長8(1256) |
6.29 |
武蔵守 同太郎 同四郎 同五郎 同八郎 |
7.6 |
武蔵太郎 同五郎 同八郎 |
|
正嘉元(1257) |
12.24 |
武蔵八郎 |
12.29 |
武蔵八郎頼直 |
|
正嘉2(1258) |
1.1 |
武蔵八郎 |
1.2 |
武蔵五郎時忠 同八郎頼直 |
|
文応元(1260) |
2.20 |
武蔵八郎 |
4.1 |
武蔵五郎 同八郎 |
|
弘長元(1261) |
1.1 |
武蔵八郎 |
8.15 |
武蔵八郎頼直 |
|
弘長3(1263) |
1.1 |
武蔵八郎頼直 |
1.7 |
武蔵前司朝直 同式部大夫朝房 同五郎時忠 同八郎頼直 |
「武蔵八郎」という通称は、父が武蔵守で、その「八郎(本来は8男の意)」であることを表している。【表A】の弘長3年条で明らかなように、この頃の武蔵守・武蔵前司(前武蔵守)であった北条朝直*2の子息であったと見て問題なかろう。
『吾妻鏡人名索引』で見る限り、在職の間には頼直の他にも"武蔵太郎"朝房*3、武蔵三郎(建長8年正月1日条)、"武蔵四郎"時仲*4、"武蔵五郎" 時忠、武蔵六郎(宝治元年2月23日条)、"武蔵九郎"朝貞*5と、次に掲げる「前田本平氏系図」上での朝直の子息たちの名前が確認できる(武蔵三郎=時長、武蔵六郎=朝氏と判断される)。
更に、これより古いもので、鎌倉時代に成立の系図も2種類掲げよう。
【系図C】『福富家文書』所収「野津本北条系図」より、北条時房流の部分(一部抜粋)
田中稔氏の紹介によると、この系図は最終的には豊後国の野津院で嘉元2(1304)年に写されたとされる*7が、奥書には弘安9(1286)年9月7日に新旧校合して書写された旨が記されており、実際に北条氏各系統の系図は当時の得宗(9代執権)北条貞時とほぼ同世代の人物で終わっている*8。よって、宗宣(上野前司五郎、のち11代執権)の注記「六波羅南方、永仁五年」等一部の追記を除いた大半の部分は弘安9年までに書かれたと考えられ、宗宣に同じくそれまでに8代執権・北条時宗の偏諱を受け元服済みであった息子・宗直が左近大夫であったことが窺える。
尚、この系図では宗直の父・八郎の実名が「直房」となっているが、ここで次に掲げる「入来院本平氏系図」を見ておこう。
【系図D】「入来院本平氏系図」より、大仏流北条氏の部分(一部抜粋)*9
山口隼正氏によると、この部分を含む北条氏系図について、成立時期を鎌倉時代後期の1316~1318年の間と推定されている*10。『吾妻鏡』などでもしばしば同様の例があり(後述の「武藤五郎宣時」もこの一例である)、【表A】も踏まえれば、頼直の注記「武藤八郎」は「武蔵八郎」の誤記或いは誤写と考えて良い。この【系図D】では「直房」が頼直の別名として扱われており、「頼直―宗直」の父子関係は認められよう。
但し、【系図B】から判断すると頼直と直房は別人と見なすべきなのかもしれない。また「直」の字は足利直義のように「ただ」と読むことがあり、【系図C】で直房の隣にある「頼忠」が頼直のことを指すのかもしれない。ただ、【表A】に示したように『吾妻鏡』が「朝直、(「時直」ではなく)時忠、頼直」と表記を分けていることからすると、朝直・頼直父子の「直」は「なお」で良いと思われ、「頼忠」は或いは時忠の方を指す可能性もあるが、いずれにせよ誤記であろう。
他にも、江戸時代の成立で比較的信憑性は劣る『正宗寺本北条系図』でさえ、注記で若干の違いはあるものの、「朝直―頼直―宗直―直時」の系譜は【系図B】に一致している。この系図では頼直に「遁世」との注記があるが、どの系図を見ても官職が記されていないことから、無官のまま若年で出家した可能性が高く、【系図C】での直房(【系図D】では頼直の別名)の注記「八郎入道」がその裏付けになるのではないかと思う。
尚、以上の各系図では朝直の子の中で唯一「時忠」のみ確認できないが、『吾妻鏡』では建長2(1250)年3月25日条「武蔵五郎」が初出(実名の初出は、翌3(1251)年正月1日条「武蔵四郎時仲 同五郎時忠」)で、弘長3(1263)年8月11日条「武蔵五郎時忠」に至るまで計48回登場し*11、僅か4日後の8月15日条に「武藤〔ママ、前述参照〕五郎宣時」、文永2(1265)年6月23日条に「武蔵五郎宣時」と書かれている*12ことから、時忠=宣時であったことが分かる。
時忠 改め 宣時(宗宣・宗泰・貞房・貞宣らの父)は大仏流の家督を継いだ人物で、暦仁元(1238)年生まれと判明しており、初出時13歳の時点で元服を済ませていたことが分かる。父・朝直は7歳で元服したとみられ、北条氏一門(他の系統)の傾向も踏まえると、大仏流における元服の年齢は7~13歳であったと考えて良いだろう。
【表A】を見る限り、「太郎」・「四郎」・「五郎」……といった仮名(輩行名)はそのまま兄弟順を表すと考えられるので、六郎朝氏、七郎(夭折か?)の存在を考慮して、八郎頼直の生年は早くとも1241年頃と思われる。
実名の「頼直」に着目すると、「直」が父・朝直から継承した1字であるのに対し、上(1文字目)に戴く「頼」は烏帽子親からの一字拝領と考えられる。朝直の子たちの中で頼直だけが将軍(藤原(九条)頼経・頼嗣父子)をより賜ったとは、時期的なことを合わせても現実的に考え難く、当時の5代執権・北条時頼(在職:1246年~1256年)*13からの偏諱と見なす方が妥当であろう。
尚、祖父・時房や父・朝直の1字を用いた朝房・朝氏・直房・朝貞に対し、時長・時仲・時忠については「時」が同様に時頼の偏諱だったのではないかと筆者は見ている*14が、元々北条氏の通字で断定はし難く、裏付ける史料が無い今はその判断を差し控えたい。
(参考ページ)
脚注
*1:御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.439「頼直 北条」より。
*2:『吾妻鏡人名索引』P.369~370「朝直 北条(大仏)」の項によると、暦仁元(1238)年6月5日条~寛元元(1243)年7月17日条、寛元4(1246)年8月15日条~建長8(1256)年7月17日条の間、武蔵守であったことが窺える。3代執権在任中に辞した北条泰時の後任として就任し、4代執権・北条経時が就任の間だけ一時的に遠江守に転任していた(5代執権・時頼以降の得宗は代々相模守に任官)。
*3:『吾妻鏡人名索引』P.371「朝房 北条」の項によると、初見は宝治元年6月5日条「武蔵々人(=蔵人)太郎朝房」であり、弘長3年正月1日条「武蔵式部大夫朝房」から表記が変化している。
*4:『吾妻鏡人名索引』P.201「時仲 北条」の項によると、初見は宝治元(1247)年11月15日条「武蔵四郎」(実名の初出は翌2(1248)年閏12月10日条「武蔵四郎時仲」)で、正嘉元(1257)年6月23日条から武蔵左近大夫将監と表記が変化する。但し注 で述べたように朝直は1243~46年の間、一時的に遠江守となっており、寛元3(1245)年8月15日条「遠江四郎時仲」が実際の初出ではないかと思われる。また、弘長元(1261)年10月4日条では「武蔵左近大夫将監時遠」と書かれており、後に改名か。
*5:『吾妻鏡人名索引』P.371「朝貞 北条」の項 によると、『吾妻鏡』での登場箇所は弘長元(1261)年正月1日条「同九郎」と同3(1263)年正月1日条「武蔵九郎朝貞」の2つのみ。
*6:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.379~381 より。
*7:田中稔「史料紹介 野津本『北条系図、大友系図』」(所収:『国立歴史民俗博物館研究報告』第5集、1985年)P.46。主な収蔵資料 | 史料編纂書(皇學館大学 研究開発推進センターHP)。
*8:前注田中氏論文 P.33・45。
*9:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.28。
*10:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(上)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.4。
*11:『吾妻鏡人名索引』P.202「時忠 北条」の項 より。
*12:『吾妻鏡人名索引』P.304「宣時 北条」の項 より。
*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*14:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年)P.182 脚注(27)では、北条氏一門の中で将軍を烏帽子親として一字を与えられていた得宗家と赤橋流北条氏に対し、北条氏の金沢・大仏両流はそれよりも1段階低い、得宗家を烏帽子親とする家と位置づけられていたことが指摘されており、大仏頼直はまさにそれを象徴する名乗りである。そして山野氏もご紹介のように、金沢流では『吾妻鏡』に次の2つの事例が確認できる。①金沢実時の加冠役は伯父で執権の北条泰時、②実時の子・時方(のちの顕時)は北条時頼の邸宅でその嫡男・時宗の加冠により元服。実時の父・実義は兄である泰時の1字を受け「実泰」に改名しているし、顕時の嫡男は北条貞時の1字を受け「貞顕」と名乗っており、他の兄弟を見ても「時」を用いている者は案外少ない。よって金沢流では「時」を通字とする認識・慣例が無かった可能性が高い。大仏流の系図を見ると、嫡流を中心に、同様のことが当てはまっているように見受けられる。時頼は武田時綱や平賀惟時などへ、(恐らくはそれまでの義時・泰時・経時と同様に1文字目であるという認識で)「時」の方を偏諱として下賜することも多々あったので、3名がその例に当てはまる可能性を考えても良いのではないかと思う。特に時忠(宣時)については、その後の子孫が代々得宗の一字を受けるようになっただけでなく、『徒然草』第215段に、最明寺入道(=時頼)の邸宅に招かれ、小土器に残っていた味噌を肴に酌をかわしたというエピソードが描かれているが、実は以前にこの場で烏帽子親子関係を結んだ仲だったのではないかということを想像させる。