Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

名越長頼

北条 長頼(ほうじょう ながより、1235年頃?~12??年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人、北条氏一門。名越流北条時長の子で、名越長頼(なごえ ー)とも。

母は三浦義村の娘。金沢流北条実時の娘を妻に迎えた。(いずれも後述参照。)

 

 

長頼の父母について 

「前田本 平氏系図」では「駿河守義村女 備前三郎」と注記される*1。「義村」は三浦義村に間違いなく*2、長頼は義村の外孫であったということになる。

 

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義村については生年が明らかとなっていないが、こちら▲の記事で1160年代前半の生まれと推定した。従って、その娘(長頼母)は早くとも1180年代前半以降に生まれている筈である。

しかしながら、同記事にて1204年生まれが正確であると結論づけた、義村の後継者三浦泰村とさほど年齢の離れた兄妹では無いと考えた方がより現実的に思われるので、仮に同年の生まれとすると、長頼は早くとも1220年代半ばの生まれとなる。

 

ここで考えなければならないのが、父・時長の世代(生没年)である。時長の死没が建長4(1252)年であることは『吾妻鏡』から分かる*3が、その記事に没年齢(享年)の記載は無く、時長の生年を明らかにすることは出来ない。

しかし、次兄・時章の生年=建保3(1215)年より後に生まれた筈で、『吾妻鏡』嘉禎3(1237)年4月22日条に「遠江三郎」として初出する*4までに元服を済ませていることが窺えるので、1210年代後半の生まれと推定できよう。暦仁元(1238)年12月3日条「遠江三郎左衛門尉」までに左衛門尉任官が確認でき、この時20数歳にして叙爵したと考えられる*5ので、1216~17年頃の生まれではないかと思われる*6

従って、その嫡男・長頼の生年は1234~36年頃とすべきであろう(後述するが、1263年の段階で嫡男・宗長が元服済みのため)

 

 

吾妻鏡』での長頼 

吾妻鏡』での初見は、建長6(1254)年6月16日条「備前三郎」。同年8月15日条に「備後三郎長頼〔ママ〕とあり、康元元(1256)年正月11日条より康元~文応年間には「備前三郎長頼」と表記される記事が17箇所確認できるので、これらは皆、名越長頼に比定して良いだろう*7通称名は、建長4年まで「備前前司(前備前守」であった名越時長(前述参照)*8の「三郎(三男)」を表すものである。但し「三郎」は実際に3男だったのではなく、時長の嫡男として父の輩行名を引き継いだものであった可能性が高いだろう。

 

単なる「三郎」という通称名から、初見の段階では元服から間もない頃であったため無官であったと推測される。「」の名は、「長」が父・時長からの継字であるため、「頼」が烏帽子親からの偏諱と考えられるが、当時の執権(第5代)・北条時の1字を許されていたことになる。これは言うまでもなく烏帽子親子関係であり、長は時の加冠により元服したと判断できる。よって元服の時期は、時頼が執権職を継いだ寛元4(1246)年以後ということになり、1230年代半ばの生まれとすれば、時頼が就任して間もない頃に元服の適齢期となる(例:1236年生まれとした場合、1246年当時数え11歳となる)

 

ところで、『吾妻鏡』が文永3(1266)年7月の6代将軍・宗尊親王の京都送還までを記すのに対し、長頼は文応元(1260)年2月20日条「備前三郎」(実名の終見は同年1月20日条「備前三郎長頼」)を最後として、以後登場しなくなる。

一方、『尊卑分脈』等の系図類では、長頼の子に宗長を載せるが、『吾妻鏡』弘長3(1263)年正月1日条にある「備前〔太〕郎宗長」と同人ではないかと思われる。「備前二郎」と注記する系図もある*9が、いずれにせよその通称名は、父親が「備前守」でその「太郎」ないしは「二郎」であったことを示すものである。

 

冒頭で紹介した「前田本 平氏系図」のほか、『正宗寺本北条系図』には「三良〔ママ、郎〕*10『諸家系図纂』所収の2種類の北条氏系図でも、一方の長頼の項に「備前三郎」、もう片方の系図では金沢実時の娘(実村の妹)の一人に「備前三郎長頼妻」と書かれており*11、あたかもそれが最終的な名乗りであるかのような書きぶりだが、鎌倉時代の成立で信憑性が高いとされる「入来院本 平氏系図」で「号名越備前」と注記される*12のに着目しておきたい。 更に、『吾妻鏡人名索引』では人物不詳としているが、弘長元(1261)年4月24日条には「備前前守〔ママ、前の字の重複で備前守の誤記か〕の記載が確認できる*13。宗長の登場はこの2年後の元旦であり、その前年(1262年)までに元服を済ませたと考えられるので、その父・長頼は1260年の終見以降、「備前前守」までの間に備前守に任官したのではないかと推測される。1236年の生まれとした場合でも25歳という若さでの任官となるが、父・時長も同様であったと推測されるので特に問題はなく*14、むしろ生年の裏付けになるかと思う。

 

 

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.369。

*2:『諸家系図纂』「三浦系図」には、義村従四位下 駿河守 平六兵衛尉)の女子の1人に「備前守室」と書かれており、「前田本 平氏系図」と相互に対応させれば、この義村娘は時長の妻、長頼の母であったことが分かる。

*3:吾妻鏡』同年8月26日条。

*4:吾妻鏡人名索引』P.203~204「時長 北条」の項。尚、実名の初見は暦仁元(1238)年6月7日条「遠江三郎時長主」。

*5:参考までに、名越流では父・朝時が31歳、次兄・時章が24歳、弟の教時が20歳、時章の嫡男・公時が22歳で叙爵している。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.45を参照。

*6:吾妻鏡』仁治元(1240)年正月3日条には「備前守時長」とあり、この時までの国守任官が確認できる。この生年に基づくと24, 25歳ということになり、父・朝時(32)、次兄・時章(32)、弟・教時(36) よりかなり早い段階での任官となる。

*7:以上、『吾妻鏡人名索引』P.357「長頼 名越(北条)」の項による。

*8:注3に同じ。尚、時長卒去当時、長頼が既に元服済みの可能性が高いことは本文を参照のこと。

*9:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.4。

*10:『正宗寺本北条系図』 参照。父・時長には「名越」「備前守」の注記あり。

*11:『諸家系図纂』所収「北条系図」  参照。

*12:注9に同じ。

*13:吾妻鏡人名索引』P.520。

*14:時長については注10参照。尚、細川重男氏によると、この頃の得宗家では経時が20歳で武蔵守時頼が23歳で相模守時宗が15歳で但馬権守相模守に任官しており、これより僅かに遅い程度の年齢で時長・長頼父子は備前守に任官したことになる。名越流の中では比較的、国守任官までの期間が短く、この系統は待遇されていたと言えよう。宮騒動後、時長は備前守を解任されるも得宗・時頼に協調的な姿勢をとるようになり、息子・長頼に対する偏諱の授与、父とほぼ同年齢での備前守任官の承認はその良好な関係の証と見受けられる。