金沢実時
北条 実時(ほうじょう さねとき、旧字表記:北條實時、1224年~1276年)は、鎌倉時代中期の御家人、北条氏の一門。金沢流北条氏の第2代当主で、金沢実時(かねさわ ー)とも呼ばれる。通称(輩行名)は太郎。
次の史料は、実時の元服についての記事である。
天福元年十二月小廿九日己亥。陸奥五郎*子息小童 歳十。於武州**御亭元服。号太郎実時。如駿河前司在座。一事以上。亭主御経営也。即又為加冠。是非兼日之構***。有所存俄及此儀之由。被仰云々。
***兼日之構へに非ず=予めの備えではなかった(=前もって予定はしていなかった)が。
まだ10歳であった陸奥五郎実泰の息子が、当時第3代執権の座にあった北条泰時の邸宅において元服したことが記されており、加冠役(=烏帽子親)など儀式の差配も、亭主たる泰時自らが行ったと伝える*2。この「小童」は「実時」と名乗ったが「時」の字は烏帽子親の泰時から偏諱を許されたものと考えられている。「実」の字は父・実泰から継承したものだが、この実泰も兄である泰時から「泰」字を与えられたので、同名を避けるために元々北条氏の通字であった「時」字が下賜されたのであろう。
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尚、この元服は「前もって予定していたわけではなかったが、所存(思うところ)あって俄(にわ)かにこの儀(式)に及んだ」のだという。翌年の6月30日には実泰が病気を理由に27歳の若さでありながら出家している*3が、その4日前には誤って腹を突き切って度々気絶し、狂気の自害かと噂される*4などその予兆は確認されており、伊賀氏の変後の不安定な立場に耐えられずにこの頃、精神的に病んでいたのだろう*5。万一に備えて、実泰が息子の烏帽子親を兄・泰時に頼んだことは想像に難くない。泰時も甥である実時の親代わりとなり、実泰が出家と同時に小侍所別当の座を幼少の実時に譲った際にも、他から危惧する意見が出る中で、その手助けをすることを明言して世襲を認めている*6。泰時としても、嫡男の時氏が早世し、その遺児である経時を後継者(家督継承者)に指名していたが、その側近として経時と同年齢でもある実時の育成を図っていたのだという*7。
結果として、実泰―実時父子は本家筋(得宗家)の泰時から一字を拝領したことになり、この慣例に従ったのか、実時の嫡男・時方(のちの顕時)も北条時頼の邸宅にて、その嫡男・時宗の加冠により元服し、顕時の嫡男・貞顕も北条貞時の偏諱を受けた形跡が見られる。このように、金沢流北条氏は家督継承者が代々、得宗家と烏帽子親子関係を結ぶ家柄となったのである*8。
以上、本項では名乗りに関する記述のみに留めておきたいと思う。
その後の活動・経歴については次のページをご参照いただきたい。
● 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その54-金沢実時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)
脚注
*2:今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.47。
*4:北条実泰 - Wikipedia 参照。典拠は『明月記』天福2年7月12日条。
*5:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.7。
*6:前注永井氏著書、同箇所。
*7:前注に同じ。
*8:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』, 思文閣出版、2012年)P.182 脚注(27)。