京極貞宗
佐々木 貞宗(ささき さだむね、1287年~1305年)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。 京極流佐々木氏の第3代当主で、京極貞宗(きょうごく ー)とも呼ばれる。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
『尊卑分脈』によれば、佐々木宗綱の3男。長兄・祐信は「不孝」のため家督継承者からは外れ、次兄・時綱は父に先立って早世したため、貞宗が新たな嫡子に指名された。同系図では「三郎 左門尉」〔ママ〕と注記されるが、同族・高嶋行綱の娘の一人に「佐々木能登三郎左衛門尉貞宗妾」と書かれており*1、後者が正式な呼称であったことが窺える。その姪(兄・行信の娘)にも「能登三郎妾」と記される*2が、こちらも貞宗の妻かもしれない。
同じく『尊卑分脈』貞宗の項では「嘉元三五八死十九才」(※年齢は数え年、以下同様)とも注記されており、逆算すると弘安10(1287)年生まれとなる(『系図纂要』でも注記は同様)。『寛政重修諸家譜』では「弘安十年生る」と明記されており、これを裏付けよう。
貞宗が15歳となった正安3(1301)年には、得宗・北条貞時が執権職を辞して出家しており*3(但し1311年に亡くなるまで引き続き得宗家当主 および "副将軍" として事実上の最高権力者の座にあった)、その実名はこの時までに元服して「貞」の偏諱を許されたものとみられる。恐らく貞時が加冠役(烏帽子親)を務めたのであろう。
死去については、時期の近さから嘉元3(1305)年5月4日の嘉元の乱(北条宗方誅殺)で戦死したとみる見解もある(日付の「八」は「四」の誤記とする)*4が、その根拠とする史料での「備前掃部助貞宗」が名越流北条氏であることは、次の記事で述べた通りである。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
但し、鎌倉政権での一大事とも言えるこの合戦に京極貞宗も参加していた可能性は否定できず、8名であったという負傷者の中に含まれていた可能性もあり得よう。乱から僅か4日後の死去であることから、戦傷死であったとする佐々木哲氏の説*5が妥当と思われる。
『尊卑分脈』では女子を一人載せるのみ(母親は前述の高嶋氏か?)で、享年19歳であったことも考えると他に跡継ぎの男子はいなかったと考えられる。そのため、京極流佐々木氏の惣領の座は、従兄で姉婿の佐々木宗氏、その息子・高氏(のちの佐々木導誉)へと引き継がれた。
脚注
*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション を参照。
*2:前注同箇所。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*4:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.302 注(8)。
*5:能登守宗綱: 佐々木哲学校 参照。