Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

小笠原貞宗

小笠原 貞宗(おがさわら さだむね、1292年頃~1347年)は、鎌倉時代後期から室町時代前期の武将。信濃小笠原氏の当主。信濃守護。

 

幼名は豊松丸。今野慶信がご紹介のように、各種小笠原系図*1や『甲斐信濃源氏綱要』*2によると、徳治元(1306)年11月20日に13歳(数え年)元服したという*3。逆算すると永仁2(1294)年生まれ。「」の名乗りに着目すると、「宗」が父からの継字と考えられるから、わざわざ上(1文字目)に置く「」が烏帽子親からの一字拝領と推測されるが、鈴木由美が述べられる通り、当時の得宗北条偏諱で間違いないだろう*4

今野氏は徳治元年当時、貞時は法体の身であった法名:崇演)ことから烏帽子親として良いかについては回答を保留されているが、出家したからといって俗名が変わることはないし、またこの頃は得宗家当主として依然として権勢を保ち "副将軍" 等と呼称されていたこと*5、次期得宗である嫡子の成寿(のちの高時)がまだ元服の段階になかったこと*6を踏まえれば、貞時が加冠あるいは一字付与を行っていても良いのではないかと思う。

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こちら▲の記事で、父・宗長が他の御家人とは異なって、祖先・新羅三郎源義光以来の慣例に倣う形で園城寺新羅明神の社前において元服しており、「宗」字は得宗北条時宗に対して偏諱の申請を行い「一字書出」等のやり取りがあったのではないかと推測した。貞宗元服の場所は同じであり、同様に「貞」字の申請がなされたのではないかと思われる。

 

鈴木氏と花岡康隆の論考によれば、内閣文庫蔵『御的日記』延慶3(1310)年正月10日条・同4(1311=応長元)年正月10日条に「小笠原彦五郎貞宗*7の名が見られるといい、これが貞宗の史料上における初見である。応長元年10月26日まで時は存命であり*8、その「」の偏諱を許されていたことが分かる。

 

この後はしばらくの間を経て、次に示す鎌倉末期の史料に再び現れるようになる。 

 

史料1】元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*9

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥(大仏貞直)       河越参河入道貞重
 小山判官高朝       佐々木近江入道(貞氏?)
 佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎胤貞
 武田三郎(政義)       小笠原彦五郎
 諏訪祝(時継?)         高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道(貞久)     長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉(宇都宮高房)  安保左衛門入道(道堪)
 加地左衛門入道(家貞)     吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助(金沢貞冬)      駿河八郎
 千葉介貞胤          長沼駿河権守(宗親)
 小田人々(高知?)          佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 伊東大和入道祐宗       宇佐美摂津前司貞祐
 薩摩常陸前司(伊東祐光?)     □野二郎左衛門尉
 湯浅人々           和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道(時見?)       遠江前司
 武田伊豆守           三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)       狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道貞親        信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫高氏      結城七郎左衛門尉(朝高)
 加藤丹後入道        加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道      美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参

(*http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。) 

 

【表2】(正慶元/元弘2(1332)年)『太平記』巻6「関東大勢上洛事」*10における幕府軍の構成メンバー

<相摸入道(=得宗北条高時)一族>

阿曾弾正少弼(=治時)名越遠江入道大仏前陸奥守貞直・同武蔵左近将監・伊具右近大夫将監・陸奥右馬助

<外様>

千葉大介・宇都宮三河(=三河権守貞宗?)小山判官・武田伊豆三郎・小笠原彦五郎・土岐伯耆入道(=頼貞)・葦名判官(=盛貞)・三浦若狭五郎(=時明?)千田太郎・城太宰大弐入道・佐々木隠岐前司・同備中守(=大原時重?)・結城七郎左衛門尉(=朝高)・小田常陸前司(=時知?)・長崎四郎左衛門尉(=高貞)・同九郎左衛門尉(=師宗?)・長江弥六左衛門尉(=政綱?)・長沼駿河(=駿河権守宗親?)・渋谷遠江(=遠江権守重光?)河越三河入道・工藤次郎左衛門高景・狩野七郎左衛門尉・伊東常陸前司(=祐光)同大和入道・安藤藤内左衛門尉(=藤内左衛門入道円光)宇佐美摂津前司二階堂出羽入道・同下野判官(=二階堂高元)・同常陸(=二階堂宗元?)・安保左衛門入道(=道堪)・南部次郎・山城四郎左衛門尉、他132人

307,500余騎

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<その他>

河野九郎(通盛)ら四国勢:大船300余艘

厚東入道(武実)・大内介(重弘?)・安芸熊谷(直経?)ら周防・長門勢:兵船200余艘

甲斐・信濃源氏(武田・小笠原氏などか)7,000余騎

江馬越前守・淡河右京亮(時治か)ら率いる北陸道7箇国勢:30,000余騎

いずれも鎌倉幕府滅亡前、倒幕の挙兵に対して幕府側が京に派遣した軍勢のメンバーを載せたものである。その中の「小笠原彦五郎」は前述の『御的日記』に加え、『尊卑分脈*11等とも照らし合わせても、やはり貞宗に比定される。父・宗長もこの頃はまだ存命であったが、その呼称が「小笠原信濃入道」であったことはこちら▼の記事で述べた通りである。

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鎌倉幕府滅亡後は、元弘3(1333)年8月4日付の「後醍醐天皇綸旨」東京大学史料編纂所蔵『小笠原文書』)の宛名には「小笠原彦五郎」とある*12一方、『建武記』(『建武年間記』)建武元(1334)年10月14日条に北山殿笠懸射手の1人として「小笠原信濃守 貞宗」と記載が見られる*13ので、貞宗信濃守任官はこの1年の間で行われたことになる*14足利高氏(のちの尊氏)に呼応して鎌倉攻めに参加した功績により建武政権から父がかつて就任していた信濃守への任官が許されたのであろう。同時に信濃守護職も与えられている。 

 

『師守記』貞和3/正平2(1347)年5月26日条に「今日小笠原信乃入道正宗他界」という記述があり*15、『開善寺過去帳』にも「泰山正宗大居士、貞和三年丁亥五月廿六日、世寿五十六載〔歳〕而逝矣、……」とある*16。『尊卑分脈』の貞宗の注記に「法名正宗 五十七才卒」*17とあること、「信乃(=信濃入道」という通称名が最終官途=信濃守で出家したことを表すものとして相応しいことから、小笠原貞宗を指すことは間違いなかろう。

過去帳と『尊卑分脈』で享年が若干異なるが、逆算すると1291~1292年頃の生まれとなる。これは冒頭で掲げた生年(1294年)と若干ずれるが、いずれにせよ1290年代前半の生まれということには間違いないだろう。『甲斐信濃源氏綱要』等にあった13歳での元服というのも年齢的に問題はなく、生年がいずれであってもその年次は1300年代初頭となり、当時の得宗北条貞時の1字を賜ったことは確実と言って良いと思う。

 

(参考ページ)

 小笠原貞宗 - Wikipedia

 小笠原貞宗(おがさわらさだむね)とは - コトバンク

南北朝列伝  #小笠原貞宗

小笠原貞宗 

 

脚注

*1:「越前勝山 小笠原家譜」(→『大日本史料』6-10 P.658)、「豊前豊津 小笠原家譜」(→ 同前 P.662)など。

*2:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*3:今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.52 註(10)。

*4:鈴木由美「御家人得宗被官としての小笠原氏 ー鎌倉後期長忠系小笠原氏を題材にー」(所収:『信濃』第64巻第12号 (通巻755号)、信濃史学会、2012年)P.955 脚注24。

*5:得宗貞時・高時の「副将軍」呼称については、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.263~264 注(55)を参照のこと。

*6:高時の元服は延慶2(1309)年1月21日である。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*7:花岡康隆「鎌倉後期小笠原氏一門の動向について 信濃守護系小笠原氏と藤崎氏を中心にー」(所収:『信濃』第62巻第9号、信濃史学会、2010年)P.675。注4前掲鈴木氏論文 P.947。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*9:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*10:「太平記」関東大勢上洛事(その1) : Santa Lab's Blog より。

*11:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*12:『鎌倉遺文』第41巻32445号。『大日本史料』6-1 P.170『信濃史料』巻5 P.216

*13:『大日本史料』6-2 P.36

*14:建武2(1335)年の書状中にも「小笠原信濃貞宗」と書かれており(→『大日本史料』6-2 P.464)、建武政権下で任ぜられたことは確かであろう。

*15:『大日本史料』6-10 P.657

*16:前注同箇所。

*17:前注同箇所 および 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。