Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

名越貞宗

北条 貞宗(ほうじょう さだむね、生年不詳(1280年代後半?)~1305年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人

本項では名越流北条宗長の息子(通称:備前四郎、備前掃部助)について扱う。

北条氏一門では他に大仏流北条維貞(の初名)およびその息子が「貞宗」を名乗っており*1、区別する意味もあって名越貞宗(なごえ ー)とも呼ばれる。 

 

 

 

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系図類での記載について 

『前田本 平氏系図*2『正宗寺本 北条系図』に宗長の3男として記載がある。これらの系図によれば、兄に春時(『尊卑分脈』等では夏時)・家政(または家貞)、弟に公長(または宗朝)、実助(僧/初名:朝忘)、長助(僧)がいたという。

但しそれ以外の情報は少なく、前田本系図に「掃部助」と注記されるのみである。また『入来院本 平氏系図*3では、春時・家政の弟(宗長の3男)を「宗定(むねさだ)」と掲載するが、名前の類似からし貞宗のことであろう。「備前か)四郎」と注記されているが、次兄・家政にも「同三郎」とあり、恐らく長兄・春時(左京亮)が父と同じく「次郎」を名乗り、長幼の順(春時=次郎、家政=三郎、貞宗=四郎、公長=五郎*4に輩行名を称していったのであろう。

 

 

嘉元の乱での戦死者「備前掃部助貞宗」について 

ここで次の史料2点をご覧いただきたい。 

【史料A】『鎌倉年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』)より

今年嘉元三……同月(五月)四日、駿河守宗方被誅、討手陸奥守宗宣下野守貞綱、既欲攻寄之処、宗方聞殿中師時館、禅閤(=北条貞時入道崇演)同宿、騒擾、自宿所被参之間、隠岐入道阿清宗方被討訖、宗方被管〔ママ、被官か〕於処々被誅了、於御方討死人々、備前掃部助貞宗信濃四郎左衛門尉下条右衛門次郎等也、被疵者八人云々、……

 

【史料B】『武家年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』)より

嘉元二年

同 三年

(中略)

    依陰謀露顕也、

五月四日宗方被誅、隠岐入道阿清討死、討手大将 陸奥守宗宣宇都宮下野守貞綱云々、備前掃部助貞光〔ママ〕信乃四郎〔ママ、并か?〕下条右衛門二郎〔ママ〕等討死、同手負八人云々、……

 

いずれも、嘉元3(1305)年、連署北条時村が殺害される事件が起こり、この首謀者であったとして内管領北条宗方が討たれた、いわゆる嘉元の乱に関するものである。

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細川重男の論考*5に従うと、概要は次の通りである。

時村殺害(同年4月23日)が宗方の陰謀であったとの風聞に対処するため、得宗(前執権)北条貞時は、宿所である執権・北条師時の館で評定を行っていたが、「殿中(師時館)騒擾」*6を聞いた宗方はやがて手勢を率いて師時邸に駆け付ける。これに対し、貞時は「暫不可来臨(=しばらく来るな)」と伝えるよう、隠岐入道阿清(=佐々木時清)を遣わす。しかし、行き会った宗方と阿清はたちまち合戦となって、共に討死した。

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この時、大仏宗宣宇都宮貞綱を大将とする討手が宗方邸を襲い、宗方の被官も所々に討たれた*7が、討手側も多くの死傷者を出す結果となった。

 

上記2点史料では、8人の負傷者の他、戦死者として3名の記載があるが、これについて細川氏

備前掃部助貞宗京極貞宗

信濃四郎左衛門尉 = 後藤顕清(佐々木時清の実弟・後藤基顕の子)

下条右衛門次郎=不明

としている*8。しかし、貞宗に関しては京極流佐々木氏ではなく、名越流北条氏ではないかと思う。 

 

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確かに京極貞宗は『尊卑分脈』や『系図纂要』に嘉元3年5月8日に19歳で亡くなった旨の記載があり、時期からしても嘉元の乱が死因に関係している可能性は高いと思う。しかし「備前掃部助」は父が備前守で(息子である自身が)掃部助に任官した者を表す通称であり、同じく細川氏によれば 父・宗綱頼氏の弟)が任官したのは備前守ではなく能登守である*9から、「備前掃部助」という通称名はその息子としては妙である。 同系図類には「左衛門尉」の注記があるのみで、京極貞宗が「掃部助」であった根拠は確かめられない

 

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一方、こちらの記事▲で紹介した通り、この頃「備前」の通称名で呼ばれていたのは、「備前入道定證」=「名越備前々司宗長法師」であった(宗長より後に、長らく「備前守」であった常葉時範は1304年遠江守に転任)。冒頭で前述の『前田本 平氏系図』にも宗長の項に「備前守 左近大夫」の注記があるから、名越流時長系北条氏 #北条貞宗(外部HP)での記述通り、その息子「掃部助」貞宗こそ【史料A】での「備前掃部助貞宗」に相応しい*10。故に、【史料B】での「貞光」、『入来院本 平氏系図』での「宗定」はいずれも「貞宗」の誤記と考えられよう。

 

 

年代(世代)と烏帽子親の推定 

【史料A】【史料B】2点での記載から、「掃部助」が名越貞宗の最終官途であったことが分かる。官位は従六位上相当であり*11、叙爵(従五位下)前であったことになる。名越流北条氏では20歳前半で叙爵する者が多かったことから、この時の貞宗はそれに満たない若年であったと思われる。 

参考までに金沢流北条実時の例を挙げると、掃部助への任官年齢は15歳であり*12貞宗も同様であったと思われる。すなわち、亡くなった当時は掃部助任官からまだ数年程度であったと推測できよう。

 

」の実名は、「宗」が父・宗長から継承したものであるから、わざわざ上の字(1文字目)にしている「」が烏帽子親からの一字拝領であろう。前述の通り当時の得宗で、正安3(1301)年まで執権の座にあった北条偏諱を許されたと考えて問題ない。春時・家政とは異なって得宗を烏帽子親にしていることから、嫡子の座にあったのかもしれない。

*前述の『正宗寺本 北条系図』では家政の名を「家」 と記しているが、父・宗長と同じ「備前守」に任官していること(『前田本 平氏系図』にも記載あり)、息子に北条時の偏諱を受けたとみられる家、長を載せることから、貞宗亡き後、次兄の家政が代わって嫡子となり、時の偏諱を受けて「家」に改名した可能性も考えられよう(長兄・春時の家系は得宗偏諱「貞」「高」を受けておらず庶流であった可能性がある)。但し同系図は江戸時代の成立にして杜撰な誤りも見られ(→ 例:常葉重高 - Henkipedia 参照)*13、長男・高家の注記「尾張守」も嫡流筋の名越高家と混同している可能性があるので、扱いには注意を要する*14

 

 

(参考ページ) 

 名越流時長系北条氏 #北条貞宗

 

脚注

*1:北条貞宗 - Wikipedia 参照。

*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.369。

*3:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.4。

*4:『前田本 平氏系図』に注記あり。注2同箇所参照。

*5:注2細川氏著書、P.266。

*6:「騒擾」とは、集団で騒ぎ・事件などを起こして社会の秩序を乱すこと、騒ぎ立てること(→ 騒擾(ソウジョウ)とは - コトバンク)。評定(政務会議)中に諍いでも起きたという(虚偽の)情報を流したのかもしれない。

*7:嘉元3年5月4日付「伴野出羽三郎・大野彌六祈福本尊銘文」(『北山本門寺文書』)により、宗方方の伴野出羽三郎(『尊卑分脈』(国史大系本 第三篇) P.341には、霜月騒動で討たれた伴野出羽守長泰の息子である泰行・長盛に「又三郎」もしくは「孫三郎」と注記されており、いずれかであろう)と大野弥六が石川義忠(討手側、『尊卑分脈』(同前) P.305にある石川弥太郎義忠か、石川源氏 - Wikipedia も参照)によって、『続群書類従』所収「秀郷流系図・河村」により同じく宗方方の河村秀行が、各々討ち取られたことが判明している。注2細川氏著書、P.302 注(8) より。

*8:注7 細川氏著書 同箇所。

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№100-京極宗綱 | 日本中世史を楽しむ♪細川氏のブログ記事)参照。注2細川氏著書 巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.100「京極宗綱」の項と同内容。

*10:注7 細川氏著書 同箇所において、細川氏は京極貞宗の没月日 "8日" は "4日" の誤記であるとしているが、戦死した「備前掃部助貞宗」が京極氏でない以上、必ずしも肯定はできない。4日後の死去であれば、戦傷死と考えることも可能なので、むしろ負傷者8名の中に京極貞宗が含まれていた可能性が考えられるのではないか。

*11:掃部寮 - Wikipedia 参照。

*12:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その54-金沢実時 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照。注2細川氏著書 巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.54「金沢実時」の項と同内容。

*13:注2細川氏著書、P.45 注(3)。

*14:但し、『鎌倉年代記』裏書・元亨元(1321)年条に「九月九日、備前々司家政息 高家為御代官御出仕、若宮」とあることから、家政の子・高家の実在自体は確認できる。