Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

六角宗信

佐々木 宗信(ささき むねのぶ、1267年~1292年(一説に1310年とも))は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。のちの六角氏となる家系に生まれ、六角宗信(ろっかく ー)とも呼ばれる。父は佐々木頼綱(六角頼綱)

 

「徳源院本 佐々木系図*1の記載によると、文永4(1267)年11月6日に生まれ(母は細川俊氏の娘)、13歳(数え年、以下同じ)となった弘安2(1279)年4月15日に元服したという。

 

一方で『尊卑分脈』〈国史大系本〉*2での注記は次の通りである。

 左衛門尉備中二郎 弘安九春日社行幸供奉

 宗信

 正応五十一廿四死

 

まず「備中二郎」については、国史大系本の注釈によると、複数伝わる『尊卑分脈』の異本のうち「前田家所蔵一本」ではこの部分「三郎」と記載しているという。『勘仲記』(『兼仲卿記』)弘安9(1286)年3月27日条を見ると、同日の春日行幸に供奉する中に「佐々木備中三郎 源宗信」の名が確認でき、「弘安九……」の記載も含めて裏付けられる*3。その通称名は備中守であった頼綱の「三郎」であったことを示すが、実際に3男であったというよりは、家督継承者に定められていたが故に、祖父・泰綱(信綱の3男)、父・頼綱と代々名乗ってきた輩行名を称したのであろう。

 

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父・綱が5代執権・北条時の邸宅で元服したことは『吾妻鏡』で確認できる*4が、その名乗りから「」の1字を受けたことが分かる。兄・頼明も同字を使っているが、時期からすると時頼からの一字拝領というよりは、単に父の1字を継承したと考えるのが良いだろう。それに対しは、父と同様に元服当時の8代執権であった北条時(時頼の嫡男、在職:1268~1284年*5を烏帽子親とし、その偏諱を受けたとみられ(「信」は曽祖父・信綱の1字による)当初から嫡子に定められていたのではないかと思われる。前述の生年および元服の時期に従えば、この時20歳だったことになるが、左衛門尉任官前の年齢としては妥当である*6。また、時宗が亡くなる弘安7(1284)年までの元服のはずであり、冒頭に掲げた「徳源院本 佐々木系図」の情報は的を射ていると言えるだろう。

 

次に、正応5(1292)年11月24日の死について、『諸家系図纂』では、富士川にて先陣を切り弟・成綱(『尊卑分脈』では盛綱)と共に戦没した*7としている。約5ヶ月後に起きた平禅門の乱に関連してその前哨戦があったのかもしれないが、史料で明確に把握することは出来ず、詳細は不明である。冒頭で前述の「徳源院本 佐々木系図」での生年を信ずれば、この時享年26という若さでの死去となる*8。尚、同系図では延慶3(1310)年40歳での死没(命日は同じ)とするが、『尊卑分脈』にある父・頼綱の命日(同年12月24日*9と混同されたものではないかと思われる。

 

尊卑分脈』によると、最終的に頼綱の後継者となったのは、末弟の佐々木時信(六角時信)で、正和3(1314)年12月14日の元服の際には、北条氏の通字「時」を賜るとともに「三郎」を称している。

 

脚注

*1:『大日本史料』6-2 P.559

*2:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.427。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.73 も参照のこと。

*3:勘仲記. 2 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『鎌倉遺文』第21巻15863号。備中守頼綱: 佐々木哲学校(佐々木哲のブログ)。

*4:『大日本史料』5-34 P.155

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)より。

*6:任官後であれば「備中三郎左衛門尉」と称されるはずであり、単に「備中三郎」と書かれるだけの『勘仲記』(弘安9年)の段階では元服してからさほど経っていなかったと考えられる。一方で、『尊卑分脈』に「左衛門尉」の官途と正応5年に死没したことが書かれているから、その間20代前半で左衛門尉に任官したことになり、年齢的に相応と言えよう。

*7:『諸家系図纂』「佐々木系図」(P.10)。この系図では名を「定信」と記載しているが、単なる誤記か、もしくは同族・京極宗氏の庶長子(=池田定信)と混同された可能性があり得る。

*8:備中守頼綱: 佐々木哲学校 参照。

*9:西暦では1311年(→ 佐々木頼綱 - Wikipedia 参照)。前注同箇所 または 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.72 を参照のこと。