五大院宗繁
五大院 宗繁(ごだいいん むねしげ、1270年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武士、御内人(得宗被官)。通称は五大院太郎右衛門尉か。
軍記物語であるが『太平記』の次の部分に宗繁なる人物が登場する。
【史料1】『太平記』巻11「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」より*1
……中にも五大院右衛門尉宗繁は、故相摸入道殿(=北条高時)の重恩を与たる侍なる上、相摸入道の嫡子相摸太郎邦時は、此五大院右衛門が妹の腹に出来たる子なれば、甥也。主也。……
1333年の鎌倉幕府滅亡直後の部分を描いた箇所であるが、通称名や「○繁」という名乗りの類似、年代の近さからであろうか、先行研究では専ら、元亨3(1323)年10月の故・北条貞時(9代執権、1311年逝去)13年忌供養について記した『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』、以下『供養記』と略す)にある「五大院右衛門太郎高繁」*2と同人とされる。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
こちら▲の記事で筆者は【史料1】の「宗繁」は本来「高繁」と記すべきところを、単なる誤記か、軍記物語ゆえ意図的な脚色でわざと変えたかの理由で父親の名前を記してしまったものと推測した。『供養記』での高繁の通称「五大院右衛門太郎」は、「五大院右衛門(尉)」の「太郎(長男)」を表すものであり、高繁の父の通称が「五大院右衛門尉」であったことが分かるが、【史料1】での宗繁に等しい。勿論、1333年当時高繁が父親と同じく右衛門尉であった可能性も否めないが、「宗繁」という名をただの思いつきで書くとも考え難いので、先代の「五大院右衛門尉」の実名を記した可能性を一説として掲げたい。「高繁」の名は14代執権・北条高時からの一字拝領によるものに間違いないと思うが、「宗繁」の「宗」字も8代執権・北条時宗(高時の祖父)の偏諱なのではないか。
高繁の父「五大院右衛門尉」と思しき人物は、次の史料で確認ができる。
【史料2】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*3
一 番
(省略)
八 番
諏方左衛門尉 塩飽右近入道
主税頭 諏方三郎左衛門尉
安保五郎兵衛入道 五大院太郎右衛門尉
本間五郎左衛門尉 岡田十郎
(以下略)
右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、
徳治二年五月 日
徳治2年、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎」(北条時宗忌日)における結番8番衆の一人に「五大院太郎右衛門尉」の名がある。『鎌倉遺文』では高繁に比定するが、「太郎右衛門尉」は仮名(輩行名)が太郎で右衛門尉に任官済みであることを表すもので、「右衛門太郎高繁」とは別人とすべきである。但し、高繁と同じ「太郎」の仮名を持つことからすると、この人物が高繁の父である可能性が高い。
他の例を見ると右衛門尉には20~30代で任官する傾向にあったから、太郎右衛門尉の生年は遅くともおよそ1277~1287年の間に推定される。弘安7(1284)年4月までは北条時宗が得宗家当主・8代執権の座にあった*4から、この太郎右衛門尉の実名が「宗繁」であったとしてもおかしくないだろう。
また上記記事で高繁の生年を1304年と推定した。現実的な親子の年齢差を考えれば、宗繁は1284年までに生まれたと考えられるから、時宗執権期間での元服はほぼ確実と言って良いだろう。元服は通常10~15歳で行われることが多かったので、生年は遅くとも1270年前後と推定される。
(参考ページ)
脚注
*1:『大日本史料』6-1 P.55~ も参照のこと。
*2:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.692。
*3:『鎌倉遺文』第30巻22978号。
*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。