工藤貞祐
工藤 貞祐(くどう さだすけ、1283年?~1334年?)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。藤原南家工藤氏より分かれた奥州工藤氏の一族。内管領(得宗家執事)も務めた工藤時光(杲禅/杲暁)の嫡男。
父親と烏帽子親について
「南家伊東氏藤原姓大系図」では工藤時光(二郎右衛門入道、法名杲暁)の嫡男として載せられる*2が、『若狭国今富名領主次第』に「工藤次郎右衛門尉貞祐 杲曉の子そく〔子息〕。正安三年十月より正中元年九月迄。」とあるによって裏付けられる。正安3(1301)年10月から若狭国今富名の領主(=北条貞時)の代官を務めたといい、これが史料上での初見であろう。
すなわち、この時までに「工藤次郎貞祐」を名乗って元服を済ませた後右衛門尉に任官していたことが分かる。その名乗りは、同年8月まで9代執権の座にあった北条貞時*3を烏帽子親としその偏諱を受けたものと判断される*4(「祐」は工藤氏宗家での通字)。
史料上での工藤貞祐
次に、この節では史料上での登場箇所をピックアップしながら、その後の活動について見ていきたいと思う。
(参考記事)
●【史料1】正安3(1301)年10月~(『若狭国今富名領主次第』)… 若狭国今富名領主=北条貞時の代官(前述参照)。
●【史料2】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*5
一 番
(省略)
二 番
工藤次郎右衛門尉 粟飯原左衛門尉
(中略)
十二番
工藤右衛門入道 五大院左衛門入道
(以下略)
右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、
徳治二年五月 日
この史料は、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日*6)」の結番を定めたものであり、前述の『今富名領主次第』を信ずれば、2番筆頭の「工藤次郎右衛門尉」は貞祐に同定される*7。12番筆頭の「工藤右衛門入道」は父・杲暁であろう。親子揃って結番に割り当てられたことになる。
●【史料3】徳治2年7月12日付「鳥ノ餅ノ日記(矢開日記)」(『小笠原礼書』):「鳥ノ加用」を「工藤次郎衛門尉〔ママ〕」が担当*8。
*「じろうえもん」と読めることから「右」が脱字しているものと思われる。すなわち「次郎右衛門尉」の誤記と推測され、貞祐に比定される。
●【史料4】延慶2(1309)年~(『若狭国守護職次第』):若狭国が得宗の分国となり、その「御代官(=守護代)」を「工藤二郎右衛門尉貞祐」が務める。
*貞治6(1367)年10月日付「若狭国躰興寺・(姓不詳)十郎三郎安信申状」(『東寺百合文書』)*9の文中に「(前略)……(右)東寺御領太良御庄者、先代(=北条氏治世下)之時、為(=~として)御内御領工藤次郎右衛門尉代官石居五郎多年知行……」とあり、貞祐が御内人として若狭国守護代であったこと、代官を派遣して同国太良庄を治めていたことが分かる。
●【史料5】正和2(1313)年7月24日付「(工藤)貞祐書下写」(『摂津満願寺文書』)*10の発給者「貞祐」
*『鎌倉遺文』にある通り、本文書の写の一本では、署名「貞祐」の所に「赤松」と傍注しているが、後述の『多田神社文書』などから工藤氏(工藤貞祐)によるものと判断される。
●【史料6】文保元(1317)年5月10日付「得宗家公文所奉行人連署奉書」(『摂津多田神社文書』)*11の宛名に「工藤次郎右衛門尉殿」。訴訟の管轄替えに関する内容である。
●【史料7】元応元(1319)年7月25日付「(得宗公文所)工藤貞祐書下」(『摂津多田院文書』)*12:「貞祐」の署名と花押
*「工藤次郎右衛門尉」の押紙あり。
●【史料8】(元亨3(1323)年)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』):元亨3年10月27日の故・北条貞時13年忌供養において、一品経(妙音品 10貫)の調進、砂金50両・銀剣・馬一疋の供養等を行う「工藤二郎右衛門尉」*13。
●【史料9】元亨4(1324=正中元)年:8月、若狭国が執権・得宗の北条高時の分国となったのに伴い、同国守護代を(渋谷)小馬三郎に譲る(『若狭国守護職次第』)。9月2日、同国今富名の領主代官を渋谷重光(遠江守 ※渋谷遠江権守のことか)に譲る(『若狭国今富名領主次第』)。
●【史料10】『鎌倉年代記』裏書 /『北條九代記』嘉暦元(1326)年条*14:幕府の命により出兵した工藤祐貞が安藤季長を捕らえる。
今年嘉暦元三月十三日、正五位下行相模守平朝臣高時依所労出家、廿四、其後世間聊騒動、三月十四日、寅刻、若宮降誕、三月廿日、東宮後二条院一宮薨御、廿七、同廿九日、工藤右衛門尉祐貞為蝦夷征罰進発〔工藤右エ門祐貞為蝦夷征討進発〕、七月廿六日、祐貞虜季長帰参、同月、以持明院本院第一宮量仁親王為東宮、東使摂津右近大夫将監親秀、
冒頭には北条高時が出家し、その後任となった金沢貞顕が15代執権を僅か10日で辞した、いわゆる「嘉暦の騒動」があったことについて書かれているが、この貞顕(法名:崇顕)が翌年の書状の中で「工藤右衛門貞祐」と記しており、この当時 "工藤右衛門(尉)" と呼ばれ得る人物は貞祐であったと考えるほかにない。他に「祐貞」と記された史料が見当たらないことから、これは単に名前を誤認して書かれたものであったと捉えて良いだろう。
●【史料11】嘉暦2(1327)年閏9月29日付「工藤貞祐書下」(『摂津多田院文書』)*15:「貞祐」の署名と花押
*「工藤次郎右衛門尉」の押紙あり。
●【史料12】(嘉暦2年?)「崇顕(金沢貞顕)書状」(『摂津多田院文書』)*16:「…又工藤右衛門貞祐母儀、駿河国ニ候けるか、去七日他界候、…」
この年の9月7日に、駿河国に居住していた貞祐の母親(杲暁の妻)が亡くなったことが分かる。後述【史料17】に「工藤右衛門尉跡」として確認ができる駿河国沼津郷(現・静岡県沼津市)に住んでいたのではないか。今野慶信氏は、元々藤原南家流工藤氏一門は伊豆国で繁栄し、そのうち工藤維永の子(維職の弟)景任の系統*17は駿河国から北上して甲斐国に勢力を伸ばしたのではないかと説かれており*18、その過程で重光流工藤氏が駿河国内にも所領を持ったのかもしれない。
出自など詳細については明らかとなっていないが、貞顕に情報が伝わっていることからすると、金沢流北条氏と縁戚関係にあった可能性もある。
●【史料13】〔元徳3(1331)年カ?〕6月30日付「工藤貞祐書状」(『摂津多田神社文書』)*19:「右衛門尉貞祐」の署名と花押
●【史料14】元徳3/元弘元(1331)年11月21日付「工藤貞祐施行状」(『摂津多田神社文書』)*20:「貞祐」の署名と花押
*「工藤次郎右衛門尉」の押紙あり。
●【史料15】正慶元/元弘2(1332)年9月:「工藤次郎右衛門殿」が若狭国守護代を(渋谷)小馬三郎より再承(『若狭国守護職次第』)、同月21日には「工藤右衛門尉貞祐。けんぶ〔還付〕するなり。」が同国今富名の領主代官を渋谷重光(遠江守 ※渋谷遠江権守のことか)より再承(『若狭国今富名領主次第』)。
死没についての考察
以後、鎌倉幕府が滅亡に向かう中での貞祐の動向を史料で明確に追うことは出来ないが、後述【史料16】により南北朝時代初期(建武政権期)には貞祐の所領が没収され、他の人物に与えられていることが確認できる。従って、幕府滅亡に際しての動乱の最中で貞祐も没したと考えられるが、次に紹介する人物が貞祐のことではないかと思われる。
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こちら▲の記事でも紹介している通り、『近江国番場宿蓮華寺過去帳』には建武元(1334)年12月4日に「公藤二郎」と「同次郎右衛門尉 五十二歳」が六条河原で斬首されたとする記述が見られるが、「公藤」が「くどう」と読める(例:公家(くげ)・公方(くぼう)など)ことから、この2名は工藤氏と考えられる*21。
*同年に処刑された「佐助式部大夫 同右馬助」は大仏流北条貞宗・高直兄弟、「出羽入道」は二階堂貞藤(道蘊)に比定される。
工藤次郎右衛門尉については享年(※数え年)の記載があり、逆算すると弘安6(1283)年生まれとなるが、この人物が誰に比定されるのかを考えてみたい。
1332~1333年頃には、大仏高直を大将軍とする大和路の軍勢の軍奉行として、貞祐の嫡男とみられる「工藤次郎右衛門尉高景」が確認できる(「楠木合戦注文」)が、今野氏が仰る通り元服時に北条高時(得宗家督:1311年~1333年)の偏諱「高」を受けている筈*23なので、世代が合わない。前述の通り、この年には貞祐が依然として「工藤次郎右衛門尉」を名乗っており、一方高景については「工藤次郎左衛門尉(高景)」と書かれた史料が複数確認されることから、「右衛門尉高景」は誤記ではないかと思われる。
よって、処刑された工藤次郎右衛門尉は世代的に貞祐とするのが妥当ではないかと思う*24。弘安6年の生まれとすれば、正安3年までの北条貞時執権期間内に元服し「貞」の偏諱を受けたことが確実となり、同年10月から得宗の代官として若狭国今富名を領するようになった時、19歳で右衛門尉任官済みというのもおかしくはない。
一方の「公藤二郎」は左衛門尉の記載は無いが高景であろう。文和2(1353)年に「相模次郎」=北条時行とともに斬首された「工藤二郎」*25は今野慶信氏が述べるように高景の遺児(=貞祐の孫)だったのではないかと思われる*26。
併せて次の史料も見ておきたい。
【史料17】建武2(1335)年正月26日付「北畠顕家国宣(下文)写」(『曾我文書』)*27
(端裏書)めやの郷(目谷郷)御下文案
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御判
可令早工藤中務右衛門尉
谷郷 工藤右衛門尉貞祐法師跡 外濱野尻郷
等事、
右為勲功賞所被宛行也、早守
先例、可被其沙汰之状、所仰如件、
建武二年正月廿六日
(読み下し)
早く工藤中務右衛門尉貞行に領地せらるべし津軽鼻和郡目谷郷(工藤右衛門尉貞祐法師跡)外ヶ浜野尻郷等の事
右は勲功の賞のため宛行われる所なり 早く先例を守り其の沙汰せらるべきの状 仰する所件の如し 建武二年正月二十六日
曽我奥太郎時助申、駿河国沼津郷 工藤右衛門尉跡 事、任去二月八日御下文之旨、可被沙汰付之状、依仰執達如件、
まず【史料17】は【史料16】の翌月の史料であり、津軽国鼻和郡目谷郷が「貞祐 "跡"(没収地)」として同族の工藤貞行に与えられたことが窺える。
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次いで【史料18】はその更に翌年の史料となるが、工藤右衛門尉 "跡" として駿河国沼津郷が曽我時助に与えられたことが分かる*29。前述【史料12】で「工藤右衛門貞祐母」が居住し亡くなった場所であろう。
よって建武元年末に処刑された工藤次郎右衛門尉(【史料16】)=貞祐の所領がその後収公され、相次いで他の者に与えられていったと考えられよう。
(参考ページ)
脚注
*1:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115。
*2:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.67。注記には「二郎右衛門」とあるのみで、成立時にはまだ生まれていなかったためか、貞祐以降の記載は無い。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*4:注1前掲今野氏論文 P.114。
*5:『鎌倉遺文』第30巻22978号。
*6:時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照)。
*7:注4同箇所。
*8:中澤克昭「武家の狩猟と矢開の変化」(所収: 井原今朝男・牛山佳幸 編『論集 東国信濃の古代中世史』、岩田書院、2008年)P.200・203。細川重男「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻第12号、 信濃史学会、2012年)P.959。
*9:ハ函/67/1/:若狭国躰興寺安信申状|文書詳細|東寺百合文書。
*10:『鎌倉遺文』第32巻24933号。
*11:『鎌倉遺文』第34巻26172号。
*12:『鎌倉遺文』第35巻27103号。
*13:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.698・705・707。
*14:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店)P.63。『史料稿本』後醍醐天皇紀 嘉暦元年正~3月 P.77。同年4~7月 P.53。年代記嘉暦元年。
*15:『鎌倉遺文』第38巻30026号。
*16:『鎌倉遺文』第38巻30036号。
*17:注2同箇所によれば「景任(甲斐工藤㴓水〔=温水〕石岡松尾横溝祖)―資広―行景―景澄―工藤庄司景光(→【図A】)」と至る。
*18:注1今野氏論文 P.111。
*19:『鎌倉遺文』第40巻31546号。
*20:『鎌倉遺文』第40巻31545号。
*21:注19の6月30日付貞祐書状の端裏書にも「先代公藤次郎衛門殿状〔ママ〕」と書かれており、これも根拠の一つになり得ると思う。また『源平盛衰記』などにも「公藤」や「宮藤」の表記が見られるという(→ 信濃の工藤姓とその一族)。
*23:注4同箇所。
*24:南北朝についての日記?:工藤二郎左衛門尉と工藤二郎右衛門尉(その2 工藤貞祐)。
*25:『鶴岡社務記録』文和2年5月20日条に「廿日 於龍口 相模次郎 長崎駿河四郎 工藤二郎 被誅了」とある。
*26:注1今野氏論文 P.114~115。
*27:『新編弘前市史 通史編1(古代・中世)』P.318。https://core.ac.uk/download/pdf/144248047.pdf。http://www.infoaomori.ne.jp/~kaku/sadayuki.htm。津軽工藤氏と根城南部氏 - 「じぇんごたれ」遠野徒然草。
*28:苅米一志「西国における曽我氏の所領と文書」(所収:『就実大学史学論集』33号、就実大学人文科学部総合歴史学科、2019年)P.84。