Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

小笠原宗長

小笠原 宗長(おがさわら むねなが、1272年~1333年)は、鎌倉時代後期から室町時代前期の武将。信濃小笠原氏の当主。父は小笠原長氏、母は伴野長房(長泰の誤りか)の娘と伝わる。

 

 

北条時宗の烏帽子子

今野慶信がご紹介の通り、『甲斐信濃源氏綱要』(以下『綱要』とする)*1、『系図綜覧』*2や『諸家系図纂』*3に所収の各小笠原氏系図によると、弘安7(1284)年正月11日に13歳(数え年)元服したという*4。逆算すると文永9(1272)年生まれ。「」の名乗りに着目すると、「長」が小笠原氏の通字であるから、わざわざ上(1文字目)に置く「」が烏帽子親からの一字拝領と考えられるが、鈴木由美が述べられる通り、当時の執権・北条時偏諱で間違いないだろう*5時宗が同年4月4日に亡くなる僅か数ヶ月ほど前のことであった。

時宗の代にも「鎌倉府執政北條氏之第」で元服し「乞(こ)時宗偏諱」うたという石川時光や、鎌倉で元服したという戸次時親の例が挙げられるが、山野龍太郎が他の例を紹介されている通り、得宗が烏帽子親を務めた元服の儀は鎌倉にある北条氏の邸宅で行われる傾向にあった。それに対し『綱要』によれば宗長元服の場所は新羅明神の社前であったが、これは祖先・新羅三郎源義光以来の慣例に倣ったものである。時宗自身の元服を伝える『吾妻鏡』の記事には、烏帽子親である将軍・親王からの「時」と書いた「書下」の存在が確認され*6、今野氏はこれが後の一字書出(加冠状)に繋がるものと説かれている*7。時光などの例を見る限り、偏諱は申請して認可を受けるものだったようなので*8得宗専制が強まる中で協調・従属的な姿勢を示すためか、小笠原氏側から得宗家に「宗」字を請い、史料は残っていないが「書下(加冠状)」のようなものでやり取りが行われたのではないかと推測される。

 

 

当主としての活動

小笠原宗長の史料上における初見は、次の史料とされる。 

【史料1】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*9

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

 一 番

(省略)

 四 番
  伊具三郎左衛門入道  小笠原孫次郎
  佐介殿        長崎三郎左衛門入道(=思元)
  土肥三郎左衛門尉   下山刑部左衛門入道
  塩飽三郎兵衛尉    佐野左衛門入道

(以下略)

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

徳治2年に定められた、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎」北条時宗忌日)における結番4番衆の一人に「小笠原孫次郎」の名があり、『尊卑分脈*10や『綱要』等との照合により宗長に比定される*11。前述の生年に従えばこの当時36歳。この時はまだ信濃に任官していなかったことになるが、武田氏など甲斐・信濃源氏の諸氏に関しては国守任官年齢が40代以上と遅い傾向にあったので特に問題は無いと思われる。

また『小笠原系図』によると、宗長の父・長氏は正安2(1300)年2月15日に出家したらしく*12、宗長が家督を譲られていた可能性が高い。この頃から小笠原氏当主として幕府に奉公していたと判断される。

 

『綱要』や『系図纂』等では、元亨3(1323)年2月15日に剃髪し、元徳2(1330)年9月6日に亡くなったとするが、この情報には疑問がある。実際の史料と照らし合わせてみよう。

『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)によると、元亨3年10月27日の貞時13年忌供養において「小笠原信乃前司」が「砂金20両 銀剣一 馬一疋 置鞍、栗毛、」を進上しており、『神奈川県史』はこれを宗長の子・貞宗に比定する*13が、後の史料により貞宗はこの頃「彦五郎」を名乗っていたと考えられるので、これは宗長とすべきであろう。すなわちこの当時はまだ出家していなかったことになる。前述の生年に従うとこの当時52歳。信濃守に任官し辞した年齢としては十分に適していると思う。

 

尊卑分脈』宗長の項では「信乃守」「孫二郎」の注記と共に「法名順長(じゅんちょう)」の記載があり、実際、貞時供養より後に出家していたことが後述【史料2】で確認できる。前述の剃髪の年月日は、元亨3年12月15日、元亨4年2月15日、元3(1331)年2月15日などの誤記であろう。

 

【史料2】(元弘3(1333)年4月日付)「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*14
大将軍
 陸奥大仏貞直遠江国       武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国
 遠江尾張国            武蔵左近大夫将監(北条時名)美濃国
 駿河左近大夫将監(甘縄時顕)讃岐国  足利宮内大輔(吉良貞家)三河国
 足利上総三郎吉良満義        千葉介貞胤一族并伊賀国
 長沼越前権守(秀行)淡路国         宇都宮三河権守貞宗伊予国
 佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 小笠原五郎(頼久)阿波国
 越衆御手信濃国             小山大夫判官高朝一族
 小田尾張権守(高知)一族         結城七郎左衛門尉(朝高)一族
 武田三郎(政義)一族并甲斐国      小笠原信濃入道 一族
 東大和入道祐宗 一族        宇佐美摂津前司貞祐一族
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)一族    安保左衛門入道(道堪)一族
 渋谷遠江権守(重光?)一族      河越参河入道貞重一族
 三浦若狭判官(時明)         高坂出羽権守(信重)
 佐々木隠岐前司清高一族      同備中前司(大原時重)
 千葉太郎胤貞

勢多橋警護
 佐々木近江前司(京極貞氏?)       同佐渡大夫判官入道京極導誉

(*http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)

倒幕の挙兵に対し、幕府側は軍勢を上洛させたが、その中に一族をまとめる「小笠原信濃入道」の名がある。同じく元弘年間に上洛した「小笠原彦五郎*15が前述の各系図類との照合により嫡男・貞宗に比定され、貞宗信濃守となったのも後のことであるため、この信濃入道は前述の「小笠原信乃前司」が出家した同人で、やはり宗長(順長)に比定されよう。 

 

また、『小笠原文書』には5月16日*16、6月7日・8日*17の各日付で足利高氏(のちの尊氏)が「小笠原信濃入道殿」宛てに送った書状が残されているが、後者6月の書状に「関東合戦……静謐*18」という記述が見られることから、元弘3(1333)年5月22日の鎌倉幕府滅亡前後に出されたものと推定される。高氏が「尊氏」と改名したのは幕府滅亡から数ヶ月後のことであり、それ以前に出された書状であることは確実である。従って、この頃も宗長はまだ存命であった。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

但し、同年8月4日付の「後醍醐天皇綸旨」東京大学史料編纂所蔵『小笠原文書』)の宛名には「小笠原彦五郎」とある*19ので、病気に悩まされていたのか、宗長から彦五郎貞宗に当主の座が譲られていることが窺えよう。

「元徳二年九月六日」は「元弘三年九月六日」とすべきところを書写の際に誤って記してしまい、そのまま誤伝されたものではないかと思う。

 

(参考ページ)

 源・小笠原宗長は中原宗長と同一人物か? - 九里 【九里】を探して三千里 

 

脚注

*1:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*3:『編年史料』後醍醐天皇紀・元徳2年8~12月 P.13

*4:今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.52 註(10)。

*5:鈴木由美「御家人得宗被官としての小笠原氏 ー鎌倉後期長忠系小笠原氏を題材にー」(所収:『信濃』第64巻第12号 (通巻755号)、信濃史学会(以下同じ)、2012年)P.955 脚注24。

*6:北条時宗 - Henkipedia 参照。

*7:注4前掲今野氏論文 P.44。

*8:鎌倉時代の元服と北条氏による一字付与 - Henkipedia 参照。

*9:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*10:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*11:熊谷知未「小笠原氏と北条氏」(所収:『信濃』第43巻第9号、1991年)P.827~828。花岡康隆「鎌倉後期小笠原氏一門の動向について 信濃守護系小笠原氏と藤崎氏を中心にー」(所収:『信濃』第62巻第9号、2010年)P.675。注5前掲鈴木氏論文 P.948~949。

*12:注2同箇所より。尚、同系図によると小笠原長氏は延慶3(1310)年8月13日まで存命であったといい(享年65)、晩年は隠居していたのではないかと思われる。

*13:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.705・708。

*14:『鎌倉遺文』第41巻32136号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*15:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*16:『鎌倉遺文』第41巻32165号。『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘3年5月15~20日 P.56

*17:『鎌倉遺文』第41巻32246号・32251号。『大日本史料』6-1 P.94『信濃史料』巻5 P.206~207

*18:世の中がおだやかに治まること。静謐(セイヒツ)とは - コトバンク より。

*19:『鎌倉遺文』第41巻32445号。『大日本史料』6-1 P.170