Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

尾藤時綱

尾藤 時綱(びとう ときつな、生年不詳(1260年代?)~1331年頃?)は、鎌倉時代後期の武将、御内人得宗被官)。尾藤頼景(景頼)の嫡男。通称および官途は二郎、左衛門尉、左衛門入道。法名演心(えんしん)。初名は尾藤時景(ときかげ)とも(『尊卑分脈』)

 

 

はじめに:2つの尾藤氏系図

藤原秀郷流尾藤氏については、現在確認されている限りで2種類伝わっている。以下本項でも参考にするため、細川重男の著書*1より一部引用して掲げる。

◆【系図A】『尊卑分脈』尾藤氏系図 より

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◆【系図B】『続群書類従』所収「尾藤系図」より

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以下、【系図A】・【系図B】はこれらいずれかの系図を指すものとする。

 

史料における尾藤左衛門尉

まずは同じく細川の先行研究*2に頼りながら、尾藤時綱(演心)の登場箇所とされる史料を以下に列挙する。 

 

【史料1】正安3(1301)年12月24日付「関東御教書」*3

奉寄進

 正八幡宮

  日向国臼杵郡田貫田尾藤左衛門尉時綱

右、為聖朝安穏・異国降伏、所奉寄進也。雖為向後、就社務令管領、可被御祈祷者、依鎌倉殿(=当時の将軍・久明親王仰、奉寄如件。

 正安三年十二月廿四日  正五位下相模守平朝臣師時在判

             従四位下武蔵守平朝臣時村在判

確認できる限りで初見の史料にして、通称・実名が共に確認できる貴重なものである。【系図A】では景氏の子・景頼の息子を時景 改め時綱、【系図B】では景氏の子・頼景の息子を時綱(時景の父)と記載していて若干異なるが、いずれにせよ正安3年の段階で時綱左衛門尉の官途を持って実在していたことは認められよう。

 

【史料2】嘉元元(1303)年11月30日付「得宗家執事奉書」(『金剛三昧院文書』)*4

高野山金剛三昧院領筑前国粥田庄上下諸人幷運送船事、任宝治・弘安・正応過書、門司関不可致其煩之由候也。仍執達如件。

  嘉元ゝ年十一月卅日  左衛門尉時綱

 下総三郎入道殿

 下総又次郎殿

 

【史料3-a】嘉元4(1306=徳治元)年7月日付「東大寺法華堂訴状案」

【史料3-b】(嘉元4年)7月29日付「東大寺別当聖忠御教書案」

この2つの史料は、この年に東大寺法華堂が、その所領であった「摂津国猪名荘東野」・「長洲村開発田東野」を濫妨したとして、摂津国杭瀬村(杭瀬荘とも)の地頭であった美藤左衛門尉の代官・左衛門三郎を訴えたという書状の写しであり*5、西田友広はこの「美藤左衛門尉」が「びとう」と読める音の共通から尾藤左衛門尉の誤記で、時綱(演心)またはその一族にあたるものと推測されている*6。【史料1】でもそう書かれる通り、尾藤氏で「○郎」の仮名が付かずに「左衛門尉」とのみ呼ばれたのは嫡流の当主であった時綱に限られたから(詳しくは後述参照)、「美藤左衛門尉」=時綱本人に比定して良いのではないかと思う。

 

【史料4】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*7

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

 一 番

(省略)

 九 番

  尾藤左衛門尉        長崎四郎左衛門尉(高貞
  神四郎入道(了義)     渋川次郎左衛門入道
  安東平内右衛門入道(道常) 工藤治部右衛門尉
  内嶋四郎左衛門尉      諸岡民部五郎

 十 番

  長崎左衛門尉(盛宗?)    尾藤六郎左衛門尉
  長崎後家         権医博士
  狩野介          尾張権守
  矢野民部大夫(倫綱   粟飯原右衛門四郎(常久

 十一番

  南條左衛門尉(貞直   岡村太郎右衛門尉
  尾藤五郎左衛門尉     武藤後家
  中三中務入道       佐藤宮内左衛門尉
  万年新馬允        矢田四郎左衛門尉

  十二番

  工藤右衛門入道      五大院左衛門入道
  出雲守          妙鑑房
  武田弥五郎        諏方兵衛尉
  内嶋後家         水原図書允

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

この史料は、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日*8)」の結番を定めたものであり、9番筆頭の「尾藤左衛門尉」は時綱に同定される。ちなみに、10番衆の「尾藤六郎左衛門尉」は尾藤頼氏(よりうじ)*9、11番衆の「尾藤五郎左衛門尉」は尾藤頼連(よりつら)*10にそれぞれ比定され、両名は時綱の従兄弟にあたる。

 

【史料5】(延慶元(1308)年)11月7日付「金沢貞顕書状」(『円覚寺文書』)*11

円覚寺額事、任被仰下之旨、可令申入仙洞(=伏見上皇給由、内〻伺申西園寺殿(=公衡)候之処、悉被下 震〔宸〕筆候。子細定長崎三郎左衛門入道(=思元)令言上候歟。以此旨、可有洩御披露候。恐惶謹言。

 十一月七日 越後守貞顕 (花押)

進上 尾藤左衛門尉殿

*理由は不明だが、花押の部分は他文書の貞顕花押を切り貼りしたものである。*12

この書状は、貞顕が越後守在任であった嘉元2(1304)年6月2日~延慶2(1309)年10月2日の間*13に書かれたことが分かるが、円覚寺伏見上皇宸筆額が下賜されることになったことを伝えていて、細川氏円覚寺定額寺に列した延慶元年*14のものと判断されている。

 

【史料6】(延慶2(1309)年)4月10日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*15:前日9日における寄合の「合奉行」として「長入道(=長崎入道円喜)」・「尾金」の記載あり。後者は「尾藤金吾(金吾は左衛門尉の唐名」の略記と考えられ、時綱が寄合に参加のメンバーに含まれていたことが分かる*16

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【史料7】延慶3(1310)年3月8日付「得宗公文所奉書」(『明通寺文書』)*17

異國降伏御祈事、御教書如此、早任被仰下旨、可相觸若狭國寺社別〔当 脱字カ〕神主之由、可被下知代官候、仍執達如件、

 延慶三年三月八日 親經 在〻

          了曉 在〻

          時綱 在〻

          資□ 在〻

 工藤四郎右衛門尉殿

この史料は、若狭国内の寺社に「異国降伏御祈事」を命じる関東御教書を施行したもので、工藤四郎右衛門尉(実名不詳)守護代へこのことを伝達するよう命じたものである。細川氏が述べるように、宛名の工藤氏は若狭守護代を複数人輩出した得宗被官であるから、この書状は得宗公文所奉行人連署奉書であり*18細川氏は奉者第一位の「資□(2文字目欠損か)」がのちの長崎高資、第二位の「時綱」がのちの尾藤演心と推測されている。

 

【史料8】延慶3年8月29日付「得宗家執事書状」(『鶴岡神主家伝文書』)*19

参内〔ママ、御内カ〕御恩所望事、申状披露之処、便宜之可有御計候。仍可進御事書之由、被仰出候之間、書進之候了。可有御存知其旨候。恐ゝ謹言。

 延慶三

  八月廿九日 時綱(花押)

 八幡神主殿

 

 ★応長元(1311)年10月26日、得宗(副将軍)北条貞時逝去*20

 これに伴って出家か。

*【系図A】には「時景 改綱 出家」とあり、(改名の有無はともかく)【史料1】で実在が確認できる時綱が後に出家したことは認めて良いだろう。

 

【史料9】(正和年間)『当社記録鶴岡八幡宮國學院大學所蔵本〉

梶川貴子の紹介によると、長崎左衛門入道圓喜、諏訪左衛門入道直性、尾藤左衛門入道演心、安藤左衛門入道昌顕、長崎三郎左衛門入道思元、長崎四郎左衛門尉時元、南条左衛門入道性延(梶川氏は南条貞直に比定)などの得宗被官が鶴岡八幡宮評定衆として名を連ねているという*21。正和元(1312)年に時綱(演心)鶴岡八幡宮評定衆に列せられ、その別当や供僧の事務を統括した*22という根拠の史料であろう。梶川氏の論文は史料での表記通りに記述されていると思われるので、正和元年に評定衆に列せられた段階で出家済みであれば、貞時が亡くなって間もなく「演心」と号したことが裏付けられよう。

 

【史料10】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用の「施楽院使・丹波長周注進状」*23:同月8日に鎌倉で起きた大火の被災者の中に「尾藤左衛門入道演心」。 

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【史料9】・【史料10】により尾藤演心の実在が確認できる。その通称は出家前「尾藤左衛門尉」であったことを表すから、時期の近さからしても、先行研究でご指摘の通り【史料1】等の「尾藤左衛門尉時綱」が出家した同人とみなせる。

 

【史料11】正和5(1316)年閏10月18日付「得宗公文所奉書」(『多田神社文書』)*24

攝州多田院塔供養御奉加御馬事、先日被仰下之處、無沙汰云〻、不日可被沙汰進之由候也、仍執達如件、

 正和五年閏十月十八日 □直(花押)

            了□(花押)

            演心

            高資(花押)

 工藤右近入道殿

 

【史料12】『門葉記』「冥道供七 関東冥道供現行記」 文保元(1317)年6月9日条*25

文保元年六月九日。於明王院北斗堂被修之 扈藤左衛門入道〔ママ〕子息労之間申之云々、支物一万疋。」 

 

【史料13】『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』):元亨3(1323)年10月の貞時13年忌供養において、「尾藤二郎左衛門入道」が25日の一品経の阿弥陀経調進に銭10貫、27日の進物に「砂金五十両 銀剱一 馬一疋 置鞍、葦毛、」を支出*26

*尾藤氏嫡流の当主ゆえ、他史料では「左衛門尉」とのみ書かれてきた時綱(演心)だが、【系図B】では「二郎左衛門尉」と注記されており、細川氏が述べられる通り、この二郎左衛門入道演心に比定されよう*27。同氏はそのもう一つの根拠として、この法要ではこの二郎左衛門入道のほか、尾藤五郎左衛門入道(=出家後の頼連か)・尾藤六郎左衛門尉(=頼氏か)の計3名が進物を出しているが、二郎左衛門入道の支出が他の2名に比して群を抜いて多額であることを挙げ、彼が尾藤氏の中心人物であったと説かれている*28詳しくは後述するが、尾藤氏における「二郎(次郎)」は嫡流における代々の称号のようなものと化していた可能性が高い。

 

【史料14】『門葉記』「冥道供七 関東冥道供現行記」 嘉暦元(1326)年12月17日条*29

嘉暦元年丙寅十二月十七日丁亥。於御本坊瑠璃光院被修之。

 扈藤左衛門入道〔ママ〕室家産餘気祈云々。支物一万疋。

 

【史料15】(年不詳:1331年?)正月10日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*30

御吉事等、於今者雖事旧候、猶以不可有尽期候。

抑自去六日神事仕候而、至今日参詣諸社候。仍不申候ツ。今暁火事驚入候。雖然不及太守禅閤(=北条高時[崇鑑])御所候之間、特目出候。長崎入道(=円喜)同四郎左衛門尉(=高貞)同三郎左衛門入道(=思元)同三郎左衛門尉(=高頼)尾藤左衛門入道南條新左衛門尉等宿所炎上候了。焼訪無申計候。可有御察候。火本者、三郎左衛門尉宿所ニ放火候云々。兼又御内御 数御返事、昨日被出候。進之候。又、来十二日無御指合候者、早旦可有入御候。小點心可令用意候。裏可承候。恐惶謹言。

  正月十日    崇顕

方丈進之候

 「(切封墨引)

方丈進之候   崇顕

これ以後の史料上で、尾藤左衛門入道なる人物は確認できない。1333年の鎌倉幕府滅亡に際しては、【史料10】に掲載のメンバーのうち、赤橋守時が戦闘の中で自害し、その後得宗北条高時に殉じた者の中に安達時顕(延明)や、安達師景・師顕と思しき人物、更に御内人では長崎円喜・諏訪直性・摂津親鑒(道準)が含まれているが、尾藤演心の記載は特に無い。この時まで存命であれば【史料15】で明らかな通り在鎌倉であった演心もこれに巻き込まれている筈であり、逆に当時既に亡くなっていた可能性が考えられる。

 

 

世代と烏帽子親の推定

次に本節では時綱(演心)の生年と烏帽子親の考証を行っていきたいと思う。

 

北条時宗の烏帽子子

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『尊卑分脈』を見ると、時綱佐藤公清から数えて11代目にあたるが、親戚にあたる後藤氏での基宗と同じ代数となる*31。 

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また、こちら▲の記事で、父・景が暦仁元(1238)年生まれの後藤基とほぼ同世代人にして5代執権・北条時より1字を拝領した可能性を指摘した。

綱と後藤基の関係もまた同じく、共に8代執権・北条時宗の烏帽子子だったのではないかと思われる。【系図A】の記載に従えば元服直後の初名は「」だったことになるが、いずれにせよ上(1文字目)に戴く「」字は北条氏の通字を許されたものに間違いなく、時宗からの偏諱とみて良いだろう(「綱」は祖父・景氏の伯父/養父にあたる尾藤景綱に由来するものであろう)時宗の執権在任期間(1268~1284年*32内の元服であったとみられる(これについての考証は次節参照)

 

尾藤氏における左衛門尉任官年齢と生年の推定

前項の内容を裏付けるべく、尾藤氏における左衛門尉任官に相応の年齢を考えてみたい。その参考にそれまでの尾藤氏歴代当主に着目する。

先祖を遡ると、藤原藤成(776-822)までは生没年が判明しており、その曽孫にあたる藤原秀郷(藤成―豊沢―村雄―秀郷)について、『田原族譜』により導かれる元慶4(880)年生まれ*33というのは藤成との年齢差やその活動時期からして妥当ではないかと思われる。この秀郷から13世孫にあたる尾藤景綱*34の生年は1180年~1200年あたりになるだろう*35

吾妻鏡』建保元(1213)年5月2日条によれば、景綱はまだ無官で「尾藤次郎」と称されていたようだ*36が、次の承久3(1221)年5月22日条に「尾藤左近将監」(次いで同年6月13日条に「尾藤左近将監景綱」)と書かれる*37までに左近衛将監従六位上相当)*38となったことが窺え、30~40歳頃には何かしらの官職を得ていたと考えられる。

景綱の後継者となったのは甥(弟・中野三郎景信の子)尾藤景氏であった。前述の景綱の生年(推定)からすると景氏の生年は1212年以後と一応推測は可能である。1212年は奇しくも、景綱の妻が乳母になっていたという北条時実の生年であり、景綱夫妻は時実の親くらいの世代、時実と景氏はほぼ同世代の関係であったとみなして良いのだろう。『吾妻鏡人名索引』を見ると、寛喜2(1230)年正月4日条に「尾藤太景氏」として初めて登場し、嘉禎2(1236)年12月19日条「尾藤太郎」、寛元3(1245)年7月25日条「尾藤太景氏」と3回現れた後、寛元4(1246)年5月25日条・6月10日条の「尾藤太平三左衛門尉」も景氏に比定される*39。寛元4年の2箇所については通称の面で若干違和感を覚えるが、仮に信用すれば30代で左衛門尉に任官していたことになる

景氏の子・頼景については前述したが、景氏との年齢差を踏まえても問題ない。『吾妻鏡』を見ると、建長4(1252)年正月1日条では無官で「尾藤二郎」と呼ばれていたものが、康元元(1256)年正月3日条では「尾藤次郎兵衛尉」と変化しており、20代に入って間もない頃に左兵衛尉(七位相当)*40となっていた可能性が高い。

この他に確認できる史料として、弘安5(1282)年5月12日付「尾藤景連等連署避状案」(『祇園社記』神領部七)は、「尾藤五郎左衛門尉景連」・「尾藤六郎左衛門二郎頼氏」らが連名で発給した書状の写し(控え)であり*41、頼景の弟である景連、その更に弟で頼氏の父でもある頼広が当時左衛門尉任官済みであったことが窺える。景連・頼広兄弟は早くとも1240年代の生まれの筈だが、その場合でも40歳を迎えるまで(遅くとも30代)には左衛門尉になっていたことになる。また頼広の子・頼氏も1260年代以後の生まれと推測可能で、10~20代であった弘安5年当時はまだ無官で「二郎」を名乗っていたことが窺えよう。 

 

以上の考察より、【史料1】から正安3(1301)年の段階で左衛門尉在任が確認できる頼景の子・時綱についてはその当時30代に達していた可能性が高いだろう。逆算すれば遅くとも1271年頃の生まれとなる。父との年齢差を考慮すればその生年は1260年代~1270年頃の間に推定され、元服は多く10代前半で行われたから、弘安7(1284)年4月4日に時宗が亡くなるまでの元服であったと考えて問題ないと思う。

 

 

出家の時期と法名「演心」について

前述したように、【系図A】で「出家」と注記される時綱は、のちに演心と号したが、その契機は時期からし得宗北条貞時の逝去に伴うものであろう。の「」は祖父・景氏の法名*42の1字を継承したもの、もう一方の「」は貞時の法名」から取ったものと考えられるからである。同様の前例として、弘安7年に北条時宗が「道」と号して間もなく逝去した際にも、追随して出家した御内人である工藤時光(禅)平頼綱(円)*43がその1字を使用した様子が窺える。

 

(参考ページ・文献) 

 尾藤時綱 - Wikipedia

御内人人物事典 ー 尾藤時綱

細川重男「尾藤左衛門入道演心について」(所収:同『鎌倉政権得宗専制論』〈吉川弘文館、2000年〉第1部第6章)

 

脚注 

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.428~430。

*2:前注細川氏著書、第1部第6章「尾藤左衛門入道演心について」。

*3:前注細川氏著書 P.201 より。『鎌倉遺文』第27巻20938号などにも掲載。

*4:『鎌倉遺文』第28巻21691号。

*5:西田友広「東大寺宝珠院所蔵絵図から見た鎌倉時代後期の尼崎地域」(所収:『東京大学史料編纂所紀要』27号、2017年)P.4。尚、2つの書状は「京都大学所蔵宝珠院文書」科研報告書『中世寺院における内部集団史料の調査・研究』(研究代表者:勝山清次)所収『法華堂文書』平安・鎌倉時代分110・111号 に翻刻が掲載されている。

*6:前注西田氏論文 P.6。

*7:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*8:時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日(→ 細川氏のブログ:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より)。尚、同職員表は注1前掲細川氏著書の巻末にも掲載あり(以下同様)。

*9:系図A】・【系図B】双方において「六郎左衛門」・「六郎左衛門尉」と注記される。

*10:系図B】において父・景連と揃って「五郎左衛門尉」と注記される。

*11:『鎌倉遺文』第31巻23445号。

*12:注1前掲細川氏著書 P.213 註(12)。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その56-金沢貞顕 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*14:注1前掲細川氏著書 P.213 註(13)。典拠は同年12月22日付「太政官符」(『円覚寺文書』所収)。

*15:金沢文庫古文書』324号文書。

*16:注1前掲細川氏著書 P.206。

*17:『鎌倉遺文』第31巻23932号。

*18:注1前掲細川氏著書 P.184 註(73)。

*19:『鎌倉遺文』第31巻24052号。

*20:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*21:梶川貴子「得宗被官南条氏の基礎的研究 ー歴史学的見地からの系図復元の試みー」(所収:『創価大学大学院紀要』第30号、2008年)P.437 によれば、坂井法曄「南条一族おぼえ書き(下)」(所収:『興風』第16号、興風談所、2004年)に翻刻が掲載されているという。

*22:御内人人物事典 ー 尾藤時綱 より。

*23:注1前掲細川氏著書 P.19 より。読み下しは年代記正和4年を参照のこと。

*24:『鎌倉遺文』第34巻26002号。

*25:注1前掲細川氏著書 P.212 註(8)①。

*26:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.698~699・707。

*27:注1前掲細川氏著書 P.202。

*28:前注同箇所、および 同書 P.209。尚、『貞時供養記』には他にも、禄役人・手長等を務める一族として「尾藤弾正左衛門尉資広」・「尾藤孫次郎資氏」の名が確認できる。

*29:注1前掲細川氏著書 P.212 註(8)②。

*30:『鎌倉遺文』第41巻32185号、『金沢文庫古文書』(武将編456号)、『神奈川県史』(資料編2古代・中世(2)3038号)に収録。年については1333年とする説もある。文章および人物比定は、注1前掲細川氏著書 P.211 注(3) より。「南条新左衛門尉」は『御的日記』元徳2(1330)年1月14日条に的始の一番筆頭の射手として確認できる「南条新左衛門尉高直」(『新編埼玉県史 資料編7 中世3 記録1』、埼玉県、1985年、P.642)と同人とする梶川貴子の説(梶川「得宗被官の歴史的性格―『吾妻鏡』から『太平記』へ―」《所収:『創価大学大学院紀要』34号 所収、2012年》P.390)に従った。

*31:途中養子相続を挟むため、後藤氏について正確には公清―季清―康清―仲清―基清―基綱―基政―基頼―基宗と、公清から9代目にあたるが、能清の実弟である基清が実基の養子であったということは重要であって、養父よりは年少(或いは老いていてもほぼ同世代)であったと考えるのが自然と思われる。代数の少なさは親子の年齢幅の違いに起因するものであろう。

*32:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*33:正暦2(990)年9月25日に数え111歳で亡くなったとの記載があり、逆算すると880年生まれとなる。享年があまりにも長寿ゆえ疑問は残るが、一応平将門の乱(935)年など秀郷の活動期間はその中に収まる。

*34:尊卑分脈』によると、秀郷―千常―文脩―文行―公光―公清―公澄(或いは公郷)―知基―知昌―知忠―(尾藤)知広―知景―景綱。

*35:各親子間の年齢差は多少の誤差があったとしても概ね20~30くらいで収まるのではないかと考えられるので、仮に平均で25とすれば秀郷から景綱に至るまで300年となる。本文で示す通り1213年には景綱が史料上に現れており、1180年生まれとしても数え34歳となって決しておかしくはないし、1190~1200年頃にまでなら下らせることも可能であろう。

*36:『大日本史料』4-12 P.487

*37:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.88「景綱 尾藤」の項 より。

*38:左近将監(さこんのしょうげん)とは - コトバンク左近衛将監(さこんえのしょうげん)とは - コトバンク より。

*39:吾妻鏡人名索引』P.90「景氏 尾藤」の項 より。

*40:左兵衛の尉(さひょうえのじょう)とは - コトバンク より。

*41:八坂神社記録. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『鎌倉遺文』第19巻14623号。

*42:系図A】・【系図B】双方での注記に「法名浄心」とあるほか、『吾妻鏡』弘長3(1263)年11月19日条にも「尾藤太 法名浄心」とある。

*43:梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.116で紹介の通り、平頼綱の出家時期は霜月騒動直後の弘安8(1285)年12月27日であったというが、それでも時宗逝去の翌年にあたるので、頼綱の法名「杲円」は時宗のそれである「道杲」に関係していると考えて問題ないだろう。元々頼綱と安達泰盛時宗の政治的後継者(継承者)を巡って争ったのであり、頼綱は自分こそが時宗の政治姿勢を引き継ぐ者であることを示す一環として「杲」の字を自ら用いたのではないかと推測される。尾藤時綱こと演心は、頼綱のように内管領となって政治を動かすほどの地位を得たわけではないが、年代も近い主君であった貞時を偲んで、同じく自分の意志で「演」の字を用いたのかもしれない。