桑原高近
桑原 高近(くわはら / くわばら たかちか、生年不詳(1300年代?)~没年不詳(1333年以前?))は、鎌倉時代末期の武将、得宗被官。通称は桑原新左衛門尉。
まず、高近については、元亨3(1323)年10月の故・北条貞時13年忌法要について記録された『北條貞時十三年忌供養記』(『円覚寺文書』)の以下の箇所でその名を確認することが出来る。
【史料A】
上記の他、27日「唐橋中将」こと唐橋通春*3に「馬一疋 栗毛、銀剱一」を「知久右衛門入道」が進上する際の「御使」を務めた「桑原新左衛門尉」も高近に同定される*4。
この他、『御的日記』嘉暦3(1328)年正月9日条(=【史料B】とする)にも「桑原新左衛門尉高近」の名があり、得永祐高(新五郎)との弓の対戦に敗れたという*5。
桑原氏については特に系図類も伝わっておらず、出自は不明であるが、【史料A】に書かれる尾藤・安東・工藤などといった氏族は、後掲【史料C】にも名を連ねる御内人(得宗被官)であり、【史料A】・【史料C】双方に登場の桑原氏も恐らく同様に得宗被官であった可能性が極めて高い。
『吾妻鏡』を見ると北条時頼執権期に「桑原平内盛時」(桑原盛時)なる人物が確認でき*6、下総国葛飾郡桑原郷発祥の桓武平氏流であったとみられる*7。この頃から桑原氏も得宗被官の一族として活動していた様子が窺える。
更に鎌倉時代後期に入ると、永仁7(1299)年正月27日付「関東下知状案」(『紀伊薬王寺文書』)に「桑原左衛門尉近忠」*8なる者が登場する。同3(1295)年の「播磨大部荘申状案」(『東大寺文書』4-91)の冒頭にある「桑原左衛門尉 不知実名(=実名を知らず)」*9も恐らく同人であろう。官職と「近」字の共通からしてこの桑原近忠(ちかただ)は高近の祖先(年代的には父或いは祖父の可能性大)にあたる人物なのではないかと思われる。
もう一つ、次の史料に着目したい。
【史料C】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)
(前略)
三 番
大蔵五郎入道 長崎宮内左衛門尉
越中局 大森右衛門入道
広沢弾正左衛門尉 大瀬次郎左衛門尉(忠貞)
葛山六郎兵衛尉 岡村五郎左衛門尉
(中 略)
六 番
工藤三郎右衛門尉 桑原新左衛門尉
讃岐局 渋谷六郎左衛門尉
荻野源内左衛門入道 浅羽三郎左衛門尉
蛭川四郎左衛門尉 千田木工左衛門尉
(中 略)
右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、
徳治二年五月 日
この史料における3番衆の一人「岡村五郎左衛門尉」は【史料A】での「岡村五郎左衛門尉資行」と同人、6番衆の一人「桑原新左衛門尉」も『鎌倉遺文』*10等で高近と見なしている。
そもそも「新」というのは、父が「桑原左衛門尉」で、自身も同じく左衛門尉に任官したので、区別のために付されたものと考えられる。時期の近さからすると「桑原左衛門尉」は前述の「桑原左衛門尉近忠」なのではないか。
【史料C】の「桑原新左衛門尉」=高近とした場合、高近は近忠の子息であった可能性が高くなり、【史料B】までの21年間その通称名を名乗っていたことになる。
ところが、前述の『御的日記』を見ると、1303年~1310年の正月で一貫して「岡村左衛門五郎資行」とある*11。1312年では「岡村五郎左衛門尉資行」と一旦は変わるものの、1313年・1314年では「岡村左衛門五郎資行」と戻り、1319・1322~1324年でも同表記となっているから【史料A】との不整合に関して再検討の余地はあるが、岡村資行が当初「左衛門五郎(岡村左衛門尉の「五郎(5男)」を表す)」を称し、後に資行自身も左衛門尉に任官して「五郎左衛門尉」となった可能性が高い。
【史料A】・【史料C】における「岡村五郎左衛門尉」および「桑原新左衛門尉」は必ずしも同人とは限らない、ということになる。
従って筆者の推測としては、【史料C】の「桑原新左衛門尉(=仮名:桑原貞近とする)」は、父「桑原左衛門尉近忠」との区別のために「新」が付されたが、やがて近忠が出家(出家すると「左衛門入道」と呼ばれる)或いは逝去するとその必要性が無くなって「桑原左衛門尉」となり、今度は同じく左衛門尉となった息子・高近が「桑原新左衛門尉」と呼ばれたと考えられる。
もっとも、「高近」の名は得宗・北条高時の偏諱と見られ、父・貞時の逝去に伴い家督を継いだ1311年(執権就任は1316年)*12以後に「高」の字を受けたと推測される*13。
脚注
*1:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.696。
*2:前注『神奈川県史』P.701。
*3:『尊卑分脈』村上源氏系図を見ると、「住関東 左中将」の注記がある。同系図によると曽祖父・通清の母が「平義時(=北条義時)女」であったといい、北条氏と縁戚関係にあった。
*4:前注『神奈川県史』P.705。
*5:太刀岡勇気「政治力を示す場としての弓場始」(2006年)より。
*6:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.294「盛時 桑原(平)」の項によれば、寛元2(1244)年正月5日条から弘長元(1261)年正月10日条まで14回登場する。建長4(1252)年11月21日条では「桑原平内平盛時」と記されており、平姓であったことが窺える。
*7:姓名/日本のおもな姓氏とは - コトバンク「桑原」の項 より。
*8:『鎌倉遺文』第26巻19934号。
*9:『鎌倉遺文』第25巻18963号。
*10:『鎌倉遺文』第30巻22978号。
*11:梶川貴子「得宗被官の歴史的性格 ー『吾妻鏡』から『太平記』へー」(所収:『創価大学大学院紀要』34号、創価大学大学院、2012年)P.395 注43 および 太刀岡勇気「政治力を示す場としての弓場始」(2006年)を参照のこと。
*12:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*13:恐らく元服と同時の一字拝領であったと思われるが、改名の可能性も完全には排除できないため、この点については検討の余地を残している。