塩飽高遠
塩飽 高遠(しわく*1 たかとお、生年不詳(1300年代?)~没年不詳(1333年以前?))は、鎌倉時代末期の武将、得宗被官。通称は藤次。
「遠」字の共通からして塩飽聖遠(新左近入道、俗名不詳)や塩飽盛遠(右近将監、右近入道了暁)らと同族とみて良いと思われるが、系譜に関しては不明である。
『北條貞時十三年忌供養記』(『円覚寺文書』)を見ると、元亨3(1323)年10月の故・北条貞時13年忌法要において「手長役人」を務めた中に高遠が含まれている。
「藤次」というのは元服後の仮名(藤原姓の「次郎」の意か)であり、当時無官であったことを示す。ここに並ぶのは、塩飽のほかにも諏訪・安東・工藤・桑原などといった、徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*4にも名を連ねる得宗被官の氏族であるが、兵衛尉・左衛門尉など官職を得ている者も少なからずいる。ちなみにその多く「資」字を持つ者は、当時の内管領(得宗家執事)・長崎高資から偏諱を受けたのかもしれない。
一方、官職を得ていない者は塩飽のほか、諏訪・工藤氏に見られるが、いずれも他の人物(諏訪左衛門入道直性、工藤次郎右衛門尉貞祐 など)の例から、左衛門尉など官職を得る資格は十分にあったと考えられるので、恐らく任官に相応の年齢に達していなかっただけであろう。
塩飽氏については、参考までに『太平記』巻10「塩飽入道自害事」を見ておきたい。
1333年の鎌倉幕府滅亡(東勝寺合戦)にあたり、聖遠父子は自害することとなるが、嫡男の忠頼が「三郎左衛門尉」と称していた*5のに対し、その弟*6は無官だったようで「四郎」とのみ称していた。
また、聖遠や了暁はその通称名から、出家前各々左近将監、右近将監であったことが窺える。すなわち、塩飽氏も左・右近将監、或いは左衛門尉といったクラスの官途に昇進し得る家柄であった*7。
従って、元亨3年当時の高遠は元服からさほど経っていない若者であったと推測される。冒頭で触れた通り「遠」が塩飽氏の通字の一つだとすれば、1文字目に掲げる「高」の字は当時の得宗・執権である北条高時の偏諱を許されたものであろう。
高時は1311年に得宗家家督を継ぎ、1316~1326年の間、鎌倉幕府第14代執権に在任であった*8から、通常10代前半で行う元服の時期はこの期間内に絞られよう。逆算すれば、高遠の生年は1300年代~1310年頃と推定される。
尚、冒頭の史料以外に高遠に関するものが確認されておらず、前後動向が不明である。ただ、南北朝時代の史料にも特に現れていないことから、聖遠父子に同じく1333年の鎌倉幕府滅亡に殉じたか、それ以前に早世した可能性が高い。
脚注
*1:「しあく」などとも読まれる(→ 塩飽(しあく、しわく) -人名の書き方・読み方 Weblio辞書、塩飽さんの名字の由来や読み方、全国人数・順位|名字検索No.1/名字由来net などを参照)が、正中元(1324)年のものとされる「東盛義所領収公注文」(『金沢文庫文書』所収/『鎌倉遺文』第37巻28943号)の端裏書に「塩涌〔ママ〕新右近入道」と書かれており、「涌(わ-く)」の読み方からすると「しわく」と読まれていたとみて良いだろう。塩飽氏が拠点にしていたと思われる瀬戸内海の塩飽諸島も現在この読み方である。
*2:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.698。
*3:前注『神奈川県史』P.701。
*4:『鎌倉遺文』第30巻22978号。
*5:「太平記」塩飽入道自害の事(その1) : Santa Lab's Blog。
*6:諱(実名)については、塩飽忠年(→ 塩飽聖遠とは - コトバンク)或いは塩飽忠時(→ 「太平記」塩飽入道自害の事(その2) : Santa Lab's Blog)とされるが、いずれも出典不明。
*7:他にも塩飽修理進、塩飽三郎兵衛尉、塩飽弾正兵衛尉といった人名が確認される。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。