Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

北条時益

北条 時益(ほうじょう ときます、1301年?~1333年)は、鎌倉時代末期の武将、北条氏一門。鎌倉幕府最後の六波羅探題南方。北条氏政村流・北条時敦の嫡男。兄弟に親雅(しんが)*1がいる。主な通称および官途は、左近将監、越後(左近)大夫将監。

 

 

生年の推定

時益の生年は不明であるが、父・時敦が弘安4(1281)年生まれと判明している*2ため、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、おおよそ1301年以後と推定可能である。

 

元亨3(1323)年10月に挙行された北条貞時13年忌供養の際、「銭五十貫 銀剱一」を進上する「越後左近大夫将監殿(『相模円覚寺文書』所収『北條貞時十三年忌供養記』が、『神奈川県史』*3の推定通り時益ではないかと思われ、これが史料上での初見になるだろう。

そもそも「越後左近大夫将監」という通称は、父が越後守で、自身が当時左近大夫将監であったことを示す。この頃の越後守としては、延慶3(1310)年*4~文保元(1317)年*5の間は父・時敦、元亨4(1324)年の段階では金沢貞将が退任済み*6で、正中2(1325)年~元徳元(1329)年の間は常葉範貞が在任であった*7ことが確認されている。他にも甘縄顕実が越後守であったと伝える系図史料がある(『佐野本北条系図』)*8が、少なくとも元亨3年当時は駿河守であった可能性が高く*9、「越後左近大夫将監殿」がその息子にはなり得ない。

以上の考察により、「越後左近大夫将監殿」=北条時益 と見なして良かろう。そして、嘉元元(1303)年に父・時敦が左近将監となった時23歳(数え年)であった*10ことを踏まえると、この当時の時益もほぼ同じくらいの年齢に達していたと考えるべきではないか。よって時益の生年は1301年頃と推定するのが妥当であろう。

 

鎌倉から京都へ

次の史料に着目したい。

【史料1】(元徳元(1329)年?)11月11日付「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*11

一. 去月十九日夜、甘縄の城入道の地の南頰いなかき左衛門入道宿所の候より、炎上出来候て、其辺やけ候ぬ、南者越後大夫将監時益北まてと承候、彼家人糟屋孫三郎入道*1 以下数輩焼失候、北者城入道宿所を立られ候ハむとて、人を悉被立候程ニ、そのあきにてとゝまり候ぬ、南風にて候しほとニ、此辺も仰天候き、北斗堂計のかれて候之由承候、目出候々々、

一. 去夜亥刻計ニ、扇谷の右馬権助家時門前より火いてき候て、亀谷の少路へやけ出候て、土左入道宿所やけ候て、浄光明寺西頰まてやけて候、右馬権助右馬権頭貞規後室・刑部権大輔入道宿所等者、無為に候、大友近江入道宿所も同無殊事候、諏方六郎左衛門入道*2 家焼失候云々、風始ハ雪下方へ吹かけ候き、後ニハ此宿所へ吹かけ候し程ニ、驚存候しかとも、無為候之間、喜思給候、火本ハ秋庭入道右馬権助家人高橋のなにとやらん同前*3か諍候之由聞□〔候、あなかしく、

 

十一月十一日(切封墨引)

 

*1:糟屋入道道*12。実名は不詳。

*2:得宗被官・諏訪氏の一族。他史料上に現れる「諏訪六郎左衛門尉」*13が出家した同人とみられるが、系譜・実名は不詳。

*3:秋庭氏については六波羅探題被官の出身、高橋氏は得宗被官の一族と推測される*14 

こちらは元徳元年のものとされる書状であるが、同年10月19日の夜、甘縄(現・神奈川県鎌倉市長谷)安達時顕(延明)邸の南側*15にある「いなかき左衛門入道(=稲垣左衛門入道か、人物の詳細は不明)」なる者の宿所を火元とした火事があり、周辺にあった時益の邸宅にも燃え広がったと伝える。後に六波羅探題として京に移る時益が当初、鎌倉在住であったことが裏付けられよう

前述のように生年が1301年頃と推定されることに加え、父・時敦が六波羅探題南方として京に上ったのが延慶3(1310)年7月25日であった(入洛は8月中旬とされる)*16ことも踏まえると、時敦・時益父子はともに鎌倉で生まれ育ったと見なされる。

複数の史料が伝えるところでは、【史料1】より間もなく、時益六波羅探題南方として上洛することとなり、元徳2(1330)年7月20日前後には鎌倉を出発し、8月7日には入洛したという*17。ちなみに、元徳元年のものとされる9月9日付の貞顕の書状(『金沢文庫文書』)に「……時益大夫将監上洛事、未承及候、……」とあり*18、この上洛は前年の段階で内定されていたようである。

また、鎌倉出発より約半年前、元徳2年正月24日のものとされる貞顕の書状には「越後大夫将監時益□□□□□□□弾正少弼ニ被□□□□□□□□事、令申候、……」と記されている*19。恐らくは書状の保存状態による欠損で読めない部分が多くあるが、上洛を控えた時益に対し、かつての父・時敦の例*20に同じく弾正少弼任官の話が持ち上がっていたことが推測される。しかし、他史料で左近将監と兼務したとの記録は今のところ未確認で、恐らくは何かしらの不都合があって見送りになったのであろう。

 

尚、『太平記』巻6「楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事」の冒頭に「元弘二年三月五日、左近将監時益越後守仲時、両六波羅に被補て、関東より上洛す。……」とある*21が、次節に掲げる実際の史料によって、その時期が誤りであることは明らかである。『太平記』は元々軍記物語ゆえ、その構成上変更されたのかもしれない。

 

 

六波羅探題(南方)として

以後は、六波羅探題北方常葉範貞 → 普音寺仲時との連名による発給書状(御教書)を中心に、多数の関連史料が確認される。

 

【史料2】元徳2年8月12日付「六波羅御教書」(『和泉 松尾寺文書』):署名「左近将監(花押)駿河守(花押)*22

【史料3】元徳2年10月25日付「六波羅御教書案」(『和泉 田代文書』):署名「左近将監(御判)駿河守(御判)*23

元徳2年12月27日、北条越後守仲時六波羅探題北方に赴任*24

【史料4】元徳3(1331)年正月23日付「六波羅御教書案」(『萩藩閥閲録』121-4「周布吉兵衛」の項):署名「左近将監(花押)越後守(花押)*25

【史料5】元徳3年3月20日付「六波羅御教書」(『壬生家文書』):署名「左近将監(花押)越後守(花押)*26

【史料6】元徳3年4月20日付「六波羅御教書案」(『福智院家文書』):署名「左近将監(御判)越後守(御判)*27

【史料7】元徳3年4月28日付「六波羅御教書」(『東寺百合文書ぬ』):署名「左近将監(在判)越後守(在判)*28

【史料8】元徳3年5月20日付「六波羅御教書」(『備前 金山寺文書』):署名「左近将監(花押)越後守(花押)*29

【史料9】元徳3年7月5日付「六波羅御教書」(『白河 本東寺文書』121):署名「左近将監(花押)越後守(花押)*30

【史料10】(元弘元/元徳3年8月25日)『伊勢光明寺文書残篇』文中:「廿五日……主上御座山門之由、被聞食定之旨、以両使 北方高橋孫五郎。南方糟屋孫八。被申関東云々。」*31

神五左衛門尉御内人諏訪氏の一門か?)を通じて、倒幕の計画を企てていた後醍醐天皇延暦寺密幸の情報が伝えられると、六波羅探題は北方(仲時)から高橋孫五郎を、南方(時益)から糟屋孫八をそれぞれ使者として鎌倉に向かわせ(同史料によると29日到着)、このことを伝達させた。これにより、幕府は翌9月初頭に大仏貞直足利高氏(のちの尊氏)らを大将軍とした軍勢を京都へ遣わすこととなる(元弘の変*32。尚、高橋・糟屋の両名はそれぞれ【史料1】にある「糟屋孫三郎入道」や「高橋のなにとやらん」の親戚にあたる、北条氏家人であろう。

但し「延暦寺密幸」は実のところ、側臣の花山院師賢天皇になりすます形で実行されたもので、六波羅探題はまんまと欺かれていたようである。後醍醐は先手を打つ形で皇居を脱出し、南都に赴いており(最終的には笠置山へと逃れる)、この逃亡のための時間稼ぎであったと考えられている*33

 

【史料11】元徳3年9月5日付「関東御教書案」(『伊勢光明寺文書残篇』所収):宛名に「越後守殿 越後左近大夫将監殿*34

【史料12】(元徳3年?)10月3日付「六波羅御教書」(『白河 本東寺文書』59):署名「左近将監平時益(裏花押)越後守平仲時(裏花押)*35

【史料13】元徳4(1332)年2月4日付「六波羅御教書案」(『東大寺文書』4-12):署名「左近将監(御判)越後守(御判)*36

【史料14】元徳4年4月16日付「六波羅御教書」(『紀伊 栗栖文書』):署名「左近将監(花押)越後守(花押)*37

★「元弘」ではなく「元徳」の元号を使用していた幕府側では、4月28日光厳天皇の即位に伴い「正慶」と改元*38

【史料15】正慶元(1332)年7月16日付「六波羅御教書」(『東大寺文書』1-4):署名「左近将監(花押)越後守(花押)*39

【史料16】正慶元年8月12日付「六波羅御教書案」(『竹内文平氏所蔵文書』):署名「左近将監(花押)越後守(花押)*40

【史料17】正慶元年12月5日付「六波羅御教書案」(『紀伊 隅田家文書』):署名「左近将監(判)越後守(判)*41

【史料18】正慶元年12月19日付「六波羅感状案」(『紀伊 隅田家文書』):署名「左近将監(判)越後守(判)*42

 

これより後、時益の動向が確認できる史料としては、その最期を描いた次の部分が挙げられる。

【史料19】『太平記』巻9「主上上皇御沈落事」より*43

……南方左近将監時益は、行幸の御前を仕て打けるが、馬に乍乗北方越後守の中門際まで打寄せて、「主上早寮の御馬に被召て候に、などや長々敷打立せ給はぬぞ。」と云捨て打出ければ、仲時無力鎧の袖に取着たる北の方少き人を引放して、縁より馬に打乗り、北の門を東へ打出給へば、被捨置人々、泣々左右へ別て、東の門より迷出給ふ。行々泣悲む声遥に耳に留て、離れもやらぬ悲さに、落行前の路暮て、馬に任て歩せ行。是を限の別とは互に知ぬぞ哀なる。十四五町打延て跡を顧れば、早両六波羅の館に火懸て、一片の煙と焼揚たり。五月闇の比なれば、前後も不見暗きに、苦集滅道の辺に野伏充満て、十方より射ける矢に、左近将監時益は、頚の骨を被射て、馬より倒に落ぬ。糟谷七郎馬より下て、其矢を抜ば、忽に息止にけり。……

太平記』巻9については「幕府全体の動きよりも、足利高氏という個人の動静が詳述され」ているとの指摘もある*44ように、主として高氏(尊氏)による六波羅攻め(1333年5月)について描かれている。

【史料19】は六波羅の館に火をかけて、両探題(仲時・時益)が後伏見上皇光厳天皇父子を伴い東国へ逃れようとする場面であるが、五月雨の頃にして夜は暗く*45、前後も見えないほどであったその道中、野伏に襲われ、時益も放った矢が首の骨にまで刺さり討ち死にしてしまった。側にいた糟谷七郎(糟屋七郎か。こちらも前述の糟屋孫三郎入道や糟屋孫八の親戚であろう)が矢を抜いた時には息絶えていたともあり、即死であったことが窺える。前述の生年に従えば、享年33の若さであったことになる。

繰り返しになるが『太平記』は元々軍記物語であるが、この時益の死については『関東開闢皇代并年代記』(以下『開闢』と略記)『鎌倉大日記』正慶2年条『尊卑分脈』等の系図類にも記録されている*46。『分脈』での注記では、仲時を江州(=近江国のこと)四宮河原で矢に中(あた)って夭亡(=天寿を全うしないでほろび死ぬこと*47時益を9日江州馬場〔=番場のことか〕で自害とするが、番場宿の蓮華寺にて従者432人と共に自害したのは仲時であり*48、『開闢』での記載も踏まえれば単に混同で逆に書いてしまったものと考えられる。『開闢』では「越後左近大夫将監時益」が7日夕方、官軍に討たれた場所が四条河原であったとする。

仲時・時益両名討伐については次の書状にも記されるところである。

【史料20】(元弘3(1333)年)「後醍醐天皇綸旨事書案」(『伊勢光明寺残篇』所収)*49

上洛輩。可有存知条々。

一. 誅伐仲時時益已下輩、奉捕禁裏仙洞、奉遷本御所可守護申也。……(以下略)

 

(参考ページ)

 北条時益 - Wikipedia

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その51-北条時益 | 日本中世史を楽しむ♪

 北条時益とは - コトバンク

 北条時益とは 社会の人気・最新記事を集めました - はてな

 政村流政長系北条氏 #北条時益

南北朝列伝 #北条時益

 

脚注

*1:長井頼重の子・運雅の弟子で、京都六条八幡宮別当を継承。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その50-北条時敦 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。外祖父(母方の祖父)・長井時秀との年齢差の面でも辻褄が合うので、間違いなかろう。

*3:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.708。

*4:注2同箇所より。

*5:文保元年4月3日付「六波羅御教書」(『鎌倉遺文』第34巻26142号)では「越後守」と署名していたものが、6月1日付「六波羅下知状案」(『鎌倉遺文』第34巻26222号)以後の書状では「前越後守」・「前越後守時敦」等と変化しており(いずれも陸奥守=六波羅探題南方・大仏維貞との連名)、この間に時敦が越後守を退任したことが分かる。

*6:同年のものとされる「金沢貞将書状」(『鎌倉遺文』第37巻28880号)に「前越後守貞将」の署名がある他、同年11月以後に六波羅探題南方として「前越後守」名義での発給書状が複数残されている。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その34-常葉範貞 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その59-甘縄顕実 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*9:注3前掲『神奈川県史』P.707では『供養記』の「駿川〔=河〕守殿」を顕実に比定する。『常楽記』嘉暦2(1327)年3月26日条に「甘縄駿河入道殿他界五十五 俗名顕実朝臣」とあり、顕実の出家前の最終官途が駿河守であったことがわかる。

*10:注2同箇所 より。

*11:『鎌倉遺文』第39巻30775号。

*12:同じく『金沢文庫文書』に所収の、元徳元(1329)年12月2日付「伊勢宗継請文案」(『鎌倉遺文』第39巻30788号-1)、および同年のものとされる「金沢称名寺雑掌光信申状案」(『鎌倉遺文』第39巻30792号)に「糟屋孫三郎入道々暁」とあるによる。東氏 ~上代東氏~ も参照のこと。

*13:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.197 注(13)に言及されている通り、『円覚寺文書』に所収の史料2点、徳治2(1307)年5月付「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『鎌倉遺文』第30巻22978号)の一番中に「諏方六郎左衛門尉」、『北條貞時十三年忌供養記』には、元亨3(1323)年10月27日の北条貞時13年忌供養において、「銭十貫文」を進上する人物として「諏方六郎左衛門尉」(注3前掲『神奈川県史』P.710)の記載がある。

*14:これについては、大村拓生「中世嵯峨の都市的発展と大堰川交通」(所収:『都市文化研究』3号、大阪市立大学大学院文学研究科 都市文化研究センター、2004年) P.75 を参照。

*15:【史料1】中の「頰」は「ある物の側面。また、それに近接したところ。ある物や場所に面したところ。」の意(→ 面・頬とは - コトバンク より)。

*16:注2同箇所 より。

*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その51-北条時益 | 日本中世史を楽しむ♪『史料稿本』後醍醐天皇紀・元徳2年4~7月 P.51

*18:『鎌倉遺文』第39巻30729号。

*19:『鎌倉遺文』第39巻30876号。

*20:注2同箇所(典拠は『鎌倉年代記』延慶3年条)によると、徳治2(1307)年12月2日に左近将監であった時敦は弾正少弼を兼ねたという。

*21:「太平記」楠出張天王寺の事付隅田高橋並宇都宮の事(その1) : Santa Lab's Blog

*22:『鎌倉遺文』第40巻31180号。

*23:『鎌倉遺文』第40巻31248号。

*24:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その43-普音寺仲時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。尚、仲時の普音寺流北条氏は、政村流北条氏よりも家格が高く、国守任官までの昇進のスピードが速かった。仲時も25歳の探題就任時、既に越後守任官済みであったことが確認され、父・基時の越後守任官が19歳であった(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その42-普音寺基時 | 日本中世史を楽しむ♪)ことも踏まえると、元徳元(1329)年12月13日駿河守に転任した常葉範貞(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その34-常葉範貞 | 日本中世史を楽しむ♪、【史料2】・【史料3】の「駿河守」も範貞に比定される)の後任として、24歳で就任したと考えられよう。

*25:『鎌倉遺文』第40巻31344号。

*26:『鎌倉遺文』第40巻31390号。

*27:『鎌倉遺文』第40巻31412号。

*28:『鎌倉遺文』第40巻31420号。

*29:『鎌倉遺文』第40巻31431号。

*30:『鎌倉遺文』第40巻31463号。

*31:群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*32:大仏貞直 - Henkipedia 参照。

*33:元弘の変とは - コトバンク および 千葉介の歴代 #千葉介貞胤 より。

*34:『鎌倉遺文』第40巻31509号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*35:『鎌倉遺文』第40巻31518号。

*36:『鎌倉遺文』第41巻31677号。

*37:『鎌倉遺文』第41巻31741号。

*38:正慶 - Wikipedia正慶とは - コトバンク より。

*39:『鎌倉遺文』第41巻31780号。

*40:『鎌倉遺文』第41巻31808号。

*41:『鎌倉遺文』第41巻31911号。

*42:『鎌倉遺文』第41巻31925号。

*43:「太平記」主上・上皇御沈落事(その5) : Santa Lab's Blog

*44:谷垣伊太雄「足利高氏の役割 ―『太平記』巻九の構成と展開―」(所収:『樟蔭国文学』第29巻、大阪樟蔭女子大学学芸学部、1992年)P.27。

*45:五月闇とは - コトバンク より。

*46:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その51-北条時益 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*47:夭亡とは - コトバンク より。

*48:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その43-普音寺仲時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*49:『鎌倉遺文』第41巻32124号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション