Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

南条貞直

南条 貞直(なんじょう さだなお、生年不詳(1270年代?)~没年不詳)は、鎌倉時代後期~末期の武将、御内人得宗被官)。南条高直の父か。

 

既に先行研究において梶川貴子が紹介されているが、まずは南条貞直の実在と活動が確認できる2点の史料を掲げておきたい*1

 

【史料1】「鶴岡八幡宮寺社務職次第」より*2

十五東

信忠 号殿僧正

号勧修寺大僧正、号九条殿、治七年、九条摂政関白左大臣従一位教実公御孫、同摂政関白右大臣正二位忠家公三男、母太政大臣兼房公房の誤記か〕*3女、勧修寺長吏高野伝法院座主、東寺一長者、東大寺別当于時前大僧正五十一、御使南條左衛門尉貞直勧修寺勝信僧正入室汀、正和五年丙辰八月十三日、補社務職、五十一歳、御使南條左衛門尉貞直同十五日、放生会延引、九月十五日被行、正和五丙辰十一月廿一日、八幡宮遷宮別当、供僧中悉造進云々、文保元年丁巳イヨリ中風三月八日、俄大風間、不被遂拝社無出仕、而六ヶ年、元亨二年壬戌十月十九日、丑刻入滅、五十七、

 

【史料2】「鶴岡八幡宮寺諸職次第」より*4

鑒厳 刑部卿法印 同先達良厳弟子

随朗厳僧正受法印可摂津刑部大輔入道(=親鑒[法名:道準])息、自殿御所高時南條左衛門尉貞直為御使被仰之間、正和五年八月廿二日勧修寺社務補任、元亨二年十一月四〔同前:日〕辞退、

延慶3(1310)年3月3日*5信忠(しんちゅう)東大寺別当補任の際に、また正和5(1316)年8月13日の信忠の東大寺社務職補任と、同月22日の鑑厳(かんごん/かんげん)の供僧職補任の際に、得宗北条高時の使者として南条貞直が派遣されたと伝える。そしてその当時貞直左衛門尉在任であったことも分かる。

 

鎌倉時代における南条氏一族については梶川氏が纏めておられるところである*6が、「次郎」・「三郎」などの輩行名が付かずに、単に「左衛門尉」(或いは父親が同じく左衛門尉である場合には区別されて「新左衛門尉」)とのみ呼ばれる人物は、その氏族の嫡流に該当することがほとんどである。他の得宗被官(御内人)の例を幾つか挙げよう。

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▲【史料3】(1331年?)正月10日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*7

鎌倉で長崎高頼の宿所への放火を「火本(=火元)」とする火事があったことを伝えており、幸い「太守禅閤(=高時入道崇鑑)御所」には被害が及ばなかったものの、その周辺にあった長崎氏一族と尾藤演心南条新左衛門尉(高直)などの宿所が炎上してしまったという。

まずは青字長崎氏一族に着目する。筆頭「長崎入道」は他史料により円喜に比定され、下記【史料4】にあるように「長崎左衛門入道円喜」とも呼ばれていた*8。それに対し、他の人物も左衛門尉であったが、区別のため「三郎」・「四郎」の輩行名が付されており、庶流の人物であった。【史料3】には無いが円喜の嫡男・高資は「長崎新左衛門尉」と呼ばれていた。

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▲【史料4】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用の「丹波長周注進状」*9

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次に【史料3】での「尾藤左衛門入道」も【史料4】から演心に比定される。この演心は「尾藤左衛門尉時綱」が出家したものと考えられており、『尊卑分脈』尾藤氏系図を見ると、時綱(時景 改綱)はその嫡流の人物であったことが分かる。『続群書類従』の尾藤氏系図では「二郎左衛門尉」と注記されるが、「二郎(次郎)」は曽祖父・景綱、父・頼景の仮名を継承した、尾藤氏嫡流の称号と化していたと考えられるので、史料ではしばしば省略されていたのであろう。

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尚、もう一人「南条左衛門尉」の名が見られるが、『御的日記』元徳2(1330)年1月14日条にある的始の一番筆頭の射手「南条左衛門尉高直」に比定される*10。「」が付くのは当然「南条左衛門尉貞直」と区別されたからであろう。「直」字の共通からしても貞直の嫡男であったと考えられ、梶川氏もご指摘のように「直―直」の名は得宗時―時」の偏諱を受けたものと判断される。

 

 

南条氏嫡流における左衛門尉任官年齢

左衛門尉に任官するには、元服を済ませ数年以上経った、それに相応の年齢に達している必要がある。ここで南条氏(嫡流)における左衛門尉任官年齢を考えてみたい。

吾妻鏡人名索引』によると、北条泰時期に活動した南条時員は『吾妻鏡』建保元(1213)年正月2日条に「南条七郎」として初出し、23年後の嘉禎2(1236)年正月2日条からは「南条七郎左衛門尉」と書かれるようになっている(実名については、翌嘉禎3年4月22日条に「南条七郎左衛門尉時員」とあるによって分かる)*11。同2年12月19日条の「南条左衛門尉」も時員としており、時員は嫡流の当主(惣領)であったことになる。梶川氏は建保元年の初出時10代~20代であったと推測されており、左衛門尉任官は若くとも30代前半であったことになる。

また梶川氏は、『吾妻鏡』寛喜元(1229)年に3回に登場し、時員の次男と思われる「南条七郎次郎」について、25年経って建長6(1254)年正月4日条から登場する「南条左衛門次郎」と同一人物ではないかとしている。この当時南条氏で左衛門尉任官が確認できるのが時員だけだからである。そして同氏はこの左衛門次郎を、正嘉元(1257)年正月1日条「南条新左衛門尉」、同年2月26日条「南条新左衛門尉頼員*12と同人とする。「新左衛門尉」と呼ばれるのはやはり嫡流の人物の証である。これに従えば、無官であった初出時から28年での左衛門尉任官となる。

勿論、頼員の「頼」が安貞元(1227)年生まれの北条時頼偏諱ではないのか等、梶川氏の推論への批評・検討も要するだろうが、ここではあえて採用しておく。すなわち、南条氏嫡流において、左衛門尉任官までに元服から25~30年ほどかかったと考えておきたい

戻って、直もまた「左衛門尉」とのみ称された人物で、得宗時からの一字拝領からしても、梶川氏が仰るように時員・頼員に繋がる嫡流の当主であったと考えられる*13。延慶3年当時左衛門尉任官済みであったとすれば、弘安7(1284)年4月に9代執権となって間もない頃の北条貞時*14を烏帽子親として元服したと考えて何ら問題なく、かえってそのことが裏付けられよう。

 

尚、梶川貴子の紹介によると、正和年間に書かれたとされる『当社記録鶴岡八幡宮國學院大學所蔵本〉に、「長崎左衛門入道圓喜、諏訪左衛門入道直性、尾藤左衛門入道演心、安藤左衛門入道昌顕、長崎三郎左衛門入道思元、長崎四郎左衛門尉時元」などの得宗被官と共に、南条左衛門入道性延鶴岡八幡宮評定衆として名を連ねているといい、梶川氏はこの性延を出家後の貞直に比定されている*15が、恐らくは貞直の先代(=父、宗直?)とするのが正しいのではないかと思う。【史料1】・【史料2】から判断するに、正和年間当時貞直は在俗で活動しており、また前述したように、鎌倉時代末期の「南条新左衛門尉高直」は左衛門尉貞直と区別されてそう呼ばれた可能性が高いからである。但し、幕府滅亡の頃、高直を「南条左衛門尉」とのみ記す史料があり、滅亡直前の1330~32年あたりに貞直は亡くなったのかもしれない。

 

脚注

*1:梶川貴子「得宗被官南条氏の基礎的研究 ー歴史学的見地からの系図復元の試みー」(所収:『創価大学大学院紀要』第30号、2008年)P.437、P.445表2-10・13・14。

*2:『鶴岡叢書』第2輯(鶴岡八幡宮社務所、1978年)P.295。

*3:『尊卑分脈』を見ると、九条忠家の長男・忠教の傍注に「母太政大臣公房女」とあり、信忠もその同母弟であったと判断するのが妥当であろう。ちなみに、太政大臣となった「兼房」には藤原忠通の4男で九条兼実(忠家の高祖父)の同母弟にあたる兼房がいるが、同じく『尊卑分脈』を見ると忠家に嫁いだ女子は確認できない上、そもそも年代が合わない。

*4:『鶴岡叢書』第4輯(鶴岡八幡宮社務所、1991年)P.36。

*5:『本朝高僧伝』「京兆東寺沙門信忠伝」の文末に「徳治三年春辞東寺々務、延慶三年補東大寺二年觧〔解の異体字印、元亨二年十月十九日示寂於東関、」とある。注2同箇所より。

*6:注1前掲梶川氏論文 P.444・445。

*7:『鎌倉遺文』第41巻32185号、『金沢文庫古文書』(武将編456号)、『神奈川県史』(資料編2古代・中世(2)3038号)に収録。年については1333年とする説もある。文章および人物比定は、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.211 注(3) より。

*8:【論稿】『金沢文庫古文書』324号「金沢貞顕書状」の年月日比定 について - Henkipedia 参照。

*9:注7前掲細川氏著書 P.19 より。

*10:『新編埼玉県史 資料編7 中世3 記録1』(埼玉県、1985年)P.642。梶川貴子「得宗被官の歴史的性格 ー『吾妻鏡』から『太平記』へー」(所収:『創価大学大学院紀要』34号、2012年)P.390。

*11:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.185「時員 南条」の項 より。

*12:吾妻鏡人名索引』P.413「頼員 南条」の項では、この他に正嘉2年正月1日条と文応元年正月1日条の「南条新左衛門尉」を頼員に比定する。

*13:注1前掲梶川氏論文 P.437~438。

*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*15:注1前掲梶川氏論文 P.437 によれば、坂井法曄「南条一族おぼえ書き(下)」(所収:『興風』第16号、興風談所、2004年)に翻刻が掲載されているという。