偏諱 について・入門
まず、最初に言っておきます。
このブログは、かなりマニアックな内容を扱っています。
歴史好きの方でも一概に興味を持つような内容ではないかもしれません。
なので、面白そうだなと思った方に見ていただければと思います。
さて、皆さんは歴史上の人物(日本史)の名前に着目したことはありますか?
よーく見てみると面白いことが起こっています。
1.偏諱とは?
★武田信玄
信玄は出家後の法名。本名は武田晴信(はるのぶ)。
「晴」の字は室町幕府第12代将軍・足利義晴から賜った。←この「晴」を偏諱(へんき)という。
★上杉謙信
上杉憲政の養子となり「政」の偏諱を受けて上杉政虎。
のち室町幕府第12代将軍・足利義輝から「輝」の偏諱を受けて上杉輝虎。
そして上杉謙信へ。
⑤徳川綱吉:初め館林藩主。のち、偏諱を与えた兄の4代将軍・家綱の跡を継いで5代将軍に。
⑧徳川吉宗:紀伊徳川家出身。初め頼久。兄たちの早世により紀伊藩主を継いだ折に5代将軍・綱吉の偏諱を賜る。のち徳川将軍家を継ぐ。
⑮徳川慶喜:水戸徳川家出身。一橋家を継いだ折に12代将軍・家慶の偏諱を賜る。
徳川家というと、初代・家康や3代・家光のように「家」の字を代々使う(これを通字という)イメージがあるかもしれません。しかし、上記の3名は本来ならば将軍家を継ぐはずではなかったため、「家」の字が含まれていないんですね。
ちなみに、⑥家宣(初め綱豊)や ⑭家茂(初め慶福)の場合は、分家の出身者で初めは将軍の偏諱を賜っていましたが、将軍就任後に「家●」という形に改名したというわけです。
このような現象は徳川の分家(松平氏含む)や外様大名などで見られました。
水戸徳川家:家康―頼房―光圀=綱條---(略)---斉昭―慶篤(慶喜の兄)
薩摩 島津氏:家久―光久―綱久―綱貴---(略)---斉興―斉彬=茂久(のち忠義)
公家・二条家:康道―光平=綱平---(略)---斉信―斉敬
また、家康の3男、②秀忠の場合は「家」の字を代々使うことが慣習となる前ということもありますが、豊臣秀吉の時代に「秀」の偏諱を授かったという理由による名乗りです。信康・秀康という兄がいたので、2文字目には家康の父・松平広忠に由来の「忠」を使用しています。
信康・秀康……これはもう誰からもらったか、言うまでもないですよね(笑)?
以上のように、
室町時代は 足利 将軍家
江戸時代は 徳川 将軍家
から全国各地の大名は1文字(=偏諱)を貰う、という慣習がありました。
もちろん、「将軍⇒大名」という図式だけではなく、大名(本家筋)から分家や家臣へのやり取りもありました。
時代が現代に限りなく近いということもあって、その様子が窺える史料(系図や、加冠状という書状など)は沢山残されています。
2.鎌倉時代の一字付与
さて、そうすると鎌倉時代はどうだったでしょうか?
将軍(征夷大将軍)はいたことはいたものの、源氏→九条家→親王と一定していません。そして、これに代わって、代々執権となった北条氏が実権を握っていました。
(歴代の鎌倉幕府将軍)
①源頼朝 ②頼家 ③実朝 ④九条頼経 ⑤頼嗣
(北条氏略系図)
時政―義時――泰時(初め頼時)―時氏――経時
―朝時 ―時頼―時宗―貞時―高時―邦時
―重時―――――――――長時―――義宗―久時―守時―益時
―実義(のち実泰)
(足利氏略系図) 義氏―泰氏―頼氏*(初め利氏)―家時―貞氏―高氏(のち尊氏)
北条氏は、義時の息子数名と、その後は泰時の系統(=得宗家)と重時の系統(=赤橋流)が将軍の偏諱を賜ったようです。
しかし、のちに将軍家となる足利氏の歴代当主に着目すると、将軍から賜った形跡はありません。それどころか、何と同じく御家人であるはずの北条氏から1字を与えられているように見受けられます。
*頼氏の場合も、自身が北条時頼の甥(母が時頼の妹)であり、改名した時の将軍は宗尊親王、執権が時頼であったので「頼」の字は九条家からの偏諱であるはずはなく、時頼から賜ったとみるのが妥当です。
このように「将軍 ⇒ 北条氏(特に得宗家) ⇒ 他の御家人」という形式の、事実上二重構造となっているため、(将軍の1字を受けていない泰時・貞時・高時の場合は迷うことは無いですが)鎌倉時代中期の場合は、「経」や「頼」が九条頼経 or 北条経時・時頼、「宗」が宗尊親王 or 北条時宗 いずれかであるかの判別がし難い、そういう御家人が何名か見られます。
このブログでは、誰から1字を貰ったのかというところで、そうした御家人について、筆者独自の見解を述べようと思います。