北条宗政
北条 宗政(ほうじょう むねまさ、1253年~1281年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。北条氏得宗家の一門。北条時頼の子(準嫡子)、北条時宗の弟。子に10代執権・北条師時(四郎)、北条時信(五郎)*1、政助(頼助弟子)、北条忠時(万寿、十郎)*2などがいる。
幼名は福寿(ふくじゅ)または福寿丸。通称は相模四郎、武蔵守(武州)。法名は道明(どうみょう)。
『尊卑分脈』(以下『分脈』と略記)・『関東評定衆伝』・『弘安四年鶴岡八幡遷宮記』*3等によると、宗政は弘安4(1281)年8月9日に29歳で亡くなったと伝えられ*4、逆算すると建長5(1253)年生まれとなる。
ここで『吾妻鏡』を見ると、同年正月28日条に「相州(=相模守時頼)……男子」生誕の記事があり*5、これが宗政に比定される。尚、2月3日には「相州新誕若公名字」が「福寿」に定まったといい*6、これが宗政の幼名と分かる。
『吾妻鏡』ではその後、正元2(1260)年正月11日、8歳で将軍・宗尊親王の鶴岡八幡宮参詣に供奉したという記事において、「相模太郎」時宗に次いで「同(相模)四郎宗政」の名で登場しており*7、この段階では既に元服を済ませていたことが窺える。
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こちら▲の記事で紹介の通り、時宗は康元2(1257)年に7歳で元服しており、森幸夫・高橋慎一朗両氏は宗政も同じく7歳であった前年(正元元(1259)年)に元服を遂げたのではないかと推測されている*8が、筆者もこれに賛同である。
前述の通り、時宗は長男ではなかったものの、曽祖父で3代執権の北条泰時の仮名に因んだものか、「太郎」を称しており、以後 "相模太郎"邦時(『分脈』・『太平記』etc.)に至るまでの得宗嫡子(時宗―貞時―高時―邦時)が代々称したと思われる。一方で宗政の仮名「四郎」は、元々北条時政・義時(江間小四郎)、そして伯父で4代執権の北条経時(弥四郎)が称していたものであったが、高時の弟・泰家の例を踏まえると、時頼以降の得宗においては嫡子に次ぐ庶子(準嫡子と呼ぶ)に与えられる仮名であったと推測される。実際、前述の正元2年正月11日条では「相模太郎(=時宗) 同四郎宗政 同三郎時利(=のちの時輔)」*9の順で記されている。
ここで、北条氏得宗家における男子の烏帽子親について、その前例を見てみたい。
北条義時の長男・泰時(初め江間太郎頼時)は本来、庶長子であったが、義理の伯父でもある初代将軍・源頼朝に気に入られて「頼」の偏諱を賜り、最終的には義時の後継者となった。義時の嫡男(正室の長男)は朝時であり、3代将軍・源実朝の1字を受けたが、実朝の怒りを買ったために義時からも義絶されると、代わって実義(のちの実泰)が実朝の偏諱を受けている。
父・時頼も本来、兄・経時に対する北条時氏の庶子であったが、それでも "準嫡子" 格であったためか、同じく4代将軍・九条頼経の加冠および偏諱を受けた。
このように、得宗家では嫡子とそれに準ずる存在を用意して、その両名が将軍を烏帽子親にすることを慣例としたと思われる。従って、宗政も嫡兄・時宗に同じく6代将軍・宗尊親王の偏諱を受けたのではないかと推測される。一方の「政」は「四郎」と連動して初代執権の時政にあやかったものであろう。
(参考ページ)
脚注
*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.366「前田本平氏系図」より。
*2:『長門国守護代記』 および 田村哲夫「異本『長門守護代記』の紹介」(所収:『山口県文書館研究紀要』9号、山口県、1982年)P.63。
*4:『編年史料』後宇多天皇紀・弘安4年8~10月 P.8。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第15-18巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*5:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*6:前注に同じ。
*7:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*8:高橋慎一朗『北条時頼』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2013年)P.160。典拠は 森幸夫「得宗家嫡の仮名をめぐる小考察」。
*9:北条時輔 - Wikipedia も参照のこと。