Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

北条宗政

北条 宗政(ほうじょう むねまさ、1253年~1281年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。北条氏得宗家の一門。北条時頼の子(準嫡子)、北条時宗の弟。子に10代執権・北条師時(四郎)北条時信(五郎)*1政助頼助弟子)北条忠時(万寿、十郎)*2などがいる。

幼名は福寿(ふくじゅ)または福寿丸。通称は相模四郎、武蔵守(武州)。法名道明(どうみょう)

 

尊卑分脈(以下『分脈』と略記)・『関東評定衆伝』・『弘安四年鶴岡八幡遷宮記』*3等によると、宗政は弘安4(1281)年8月9日に29歳で亡くなったと伝えられ*4、逆算すると建長5(1253)年生まれとなる。

ここで『吾妻鏡』を見ると、同年正月28日条に「相州(=相模守時頼)……男子」生誕の記事があり*5、これが宗政に比定される。尚、2月3日には「相州新誕若公名字」が「福寿」に定まったといい*6、これが宗政の幼名と分かる。

吾妻鏡』ではその後、正元2(1260)年正月11日、8歳で将軍・宗尊親王鶴岡八幡宮参詣に供奉したという記事において、「相模太郎時宗に次いで「(相模)四郎宗政」の名で登場しており*7、この段階では既に元服を済ませていたことが窺える。

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こちら▲の記事で紹介の通り、時宗は康元2(1257)年に7歳で元服しており、森幸夫・高橋慎一朗両氏は宗政も同じく7歳であった前年(正元元(1259)年)に元服を遂げたのではないかと推測されている*8が、筆者もこれに賛同である。

 

前述の通り、時宗は長男ではなかったものの、曽祖父で3代執権の北条泰時の仮名に因んだものか、「太郎」を称しており、以後 "相模太郎"邦時(『分脈』・『太平記』etc.)に至るまでの得宗嫡子時宗―貞時―高時―邦時)が代々称したと思われる。一方で宗政の仮名「四郎」は、元々北条時政・義時(江間小四郎)、そして伯父で4代執権の北条経時(弥四郎)が称していたものであったが、高時の弟・泰家の例を踏まえると、時頼以降の得宗においては嫡子に次ぐ庶子(準嫡子と呼ぶ)に与えられる仮名であったと推測される。実際、前述の正元2年正月11日条では「相模太郎(=時宗 同四郎宗政 同三郎時利(=のちの時輔)*9の順で記されている。

 

ここで、北条氏得宗家における男子の烏帽子親について、その前例を見てみたい。

北条義時の長男・泰時(初め江間太郎時)は本来、庶長子であったが、義理の伯父でもある初代将軍・源朝に気に入られて「」の偏諱を賜り、最終的には義時の後継者となった。義時の嫡男正室の長男)であり、3代将軍・源実の1字を受けたが、実朝の怒りを買ったために義時からも義絶されると、代わって(のちの実泰)朝の偏諱を受けている。

父・も本来、兄・に対する北条時氏庶子であったが、それでも "準嫡子" 格であったためか、同じく4代将軍・九条頼経の加冠および偏諱を受けた。

このように、得宗家では嫡子とそれに準ずる存在を用意して、その両名が将軍を烏帽子親にすることを慣例としたと思われる。従って、も嫡兄・時に同じく6代将軍・親王偏諱を受けたのではないかと推測される。一方の「」は「四郎」と連動して初代執権の時にあやかったものであろう。 

 

(参考ページ)

 北条宗政 - Wikipedia

 

脚注