町野貞康
町野 貞康(まちの さだやす、1270年頃?~没年不詳*1)は、鎌倉時代後期の官人、武将。三善(町野)政康(まさやす)の嫡男で、町野氏の祖・三善康持の孫にあたるとされる。町野康世(やすよ、1287-1333)・町野善照(ぜんしょう、1294-1333)*2兄弟は息子か。三善貞康(みよし ―)とも。官途は民部大夫、備後守。
細川重男氏の紹介*3によると、次の2点史料での人物が貞康に比定されるという。
●【史料1】嘉元4(1306)年4月7日付「六波羅御教書案」(『東寺百合文書』ア)*4:末筆奥書に「挙状尚加賀民部大輔被遣畢」
●【史料2】『公衡公記』中「広義門院御産愚記」延慶4(1311)年2月3日条より:
廣義門院御産御祈事、急速可沙汰進之由、可申入西園寺前左大臣家之状、依仰執進如件
【「関東状」読み下し文】
広義門院御産御祈りの事、急速に沙汰進すべきの由、西園寺前の左大臣家へ申し入るべきの状、仰せに依って執達件の如し。
延慶四年正月二十三日 陸奥守〈*連署・北条宗宣、のち11代執権〉
相模守〈*10代執権・北条師時〉
右馬権頭 殿〈*六波羅探題北方・北条貞顕、のち15代執権〉
越後守 殿〈*六波羅探題南方・北条時敦〉
実名で確認できるのは【史料2】であり、細川氏は小田時知と同様に貞康も六波羅評定衆だったのではないかと推定されている。【史料2】の後半は、後伏見上皇の女御である"広義門院"西園寺寧子の御産祈祷を急ぎ進める旨を、その父で関東申次でもあった西園寺公衡に申し入れるよう、鎌倉幕府から六波羅探題に向けて送られた、延慶4年正月23日付「関東御教書案」の文面*5であり、冒頭の記述は、その指示通りに時知と貞康が六波羅探題の使いとして西園寺家に書状を持ってやって来たということであろう。
そして細川氏は、【史料1】において六波羅五番引付頭人であったという「加賀民部大輔〔ママ〕」も備後守任官前の貞康と推定されたが、その根拠として町野氏歴代惣領の系譜と任官歴を以下のように纏められている。
すなわち、町野氏嫡流は加賀守と備後守に交互に任官しており、各々の嫡男は父の官途を付して当初民部大夫であったということである。
『関東評定伝』建治元(1275)年条によると、政康は弘安8(1285)年に加賀守に任官し、正応2(1289)年*9に鎌倉に於いて亡くなったといい、政康自身が父・康持の死から18年経った段階でも「備後民部大夫」と呼ばれていたように、政康の死からほぼ同じ17年程しか経っていない【史料1】の段階で貞康が亡き父・政康の官途を付して「加賀民部大輔(大夫)」と呼ばれていてもおかしくはない。よって、筆者も細川氏の説に賛同である。
尚、同氏は、康信流三善氏一門での受領(国守)任官年齢について、30歳(数え年、以下同様)で信濃守となった太田時連を除けば、40歳前後かそれ以上であったと説かれており*10、貞康も【史料1】から【史料2】の間にその位の年齢に達して備後守に任官した可能性が高い。よって、逆算すると生年は1260年代後半~1270年頃であったと推定できる。
ここで、息子と考えられる町野康世について次の史料を見ておきたい。
備後民部大輔康世。四十七歳
舎弟三郎入道善照。四十歳
同彦太郎康顕。
同孫太郎康明。二十二歳
*「同」は恐らく町野氏一族という意味で付されたものであるが、細川氏はここを「舎弟」と解釈して、4人全員を兄弟として系図化されている。しかし、同氏も紹介の通り、『太平記』巻9「越後守仲時已下自害事」に「備後民部大夫・同三郎入道・加賀彦太郎・弥太郎(「孫」と「弥」は同義)」とあり、康顕・康明の2名については「備後」ではなく「加賀」を付しているから、貞康の子ではないのだろう。「加賀」は父・政康の官途であるから、その直系子孫であると考えると、貞康の弟、もしくはその息子(貞康の甥)と見なすのが妥当と思われる。貞康の弟とは、細川氏がまとめた系図に載せられる九州問註所氏の祖・康行、或いは系図に載せられていない他の弟がいたと推定される。
【史料3】は、元弘3(1333)年5月、叛旗を翻した足利高氏(のちの尊氏)の軍勢に攻められ京都を脱出し、9日近江国番場宿付近で行く手を阻まれたために、同地の蓮華寺にて自害した六波羅探題北方・北条仲時以下一族与党430人余の死者のリストであり*12、政康や貞康に同じく六波羅評定衆であった康世ら町野氏一族も含まれていたことが窺える。
康世は記載の享年により逆算すると、1287年生まれと分かる。現実的な親子の年齢差を踏まえると、貞康の生年はやはり1260年代後半~1270年頃と見なすのが妥当である(この時代10代後半で子をもうけることも珍しくはなかった)。
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更に、こちら▲の記事において宗康の兄と思しき父・政康の生年を、各官職の任官年齢を考慮し、限りなく可能性が高い推測として1247年頃と提示しており、同様に親子の年齢差を考えると、やはり前述の推定で辻褄が合う。
ところで細川氏は、政康・宗康の名が、北条政村(7代執権)・時宗(8代執権)から偏諱を受けたものと推測されており、上記記事でもその可能性が高いことを考証させていただいた。このことを踏まえると、貞康の名も9代執権・北条貞時からの一字拝領によるものではないかと思う*13。【史料1】・【史料2】当時、貞時(法名:崇演)は既に出家し執権の座を譲っていたものの、得宗家当主・副将軍*14として存命であった。父・時宗の死去に伴って貞時が執権・得宗の座に就いたのは弘安7(1284)年のことであり*15、貞康は1270年頃の生まれとした場合で15歳と元服の適齢となる。父・政康は一度六波羅評定衆として上洛したが、前述の通り晩年期には鎌倉に戻っていたから、息子である貞康が貞時の加冠により元服することは、環境(場所)的にも十分可能である。
よって、貞時と貞康は烏帽子親子関係にあったと判断される。
脚注
*1:【史料2】(1311年) より後、当主の座が康世に代わっていたと判断される【史料3】(1333年) までの間の死没であったと判断される。また、康世の呼称から、貞康の生前の最終官途は備後守であったと推測できる。
*2:善照については【史料3】にある通り、無官で「三郎」と称したまま、恐らくは若年で出家したようであるが、その俗名は同史料などで確認できないため不詳である。但し、三善氏一門には姓の1字でもある「善」を持つ法名を号した人物が少なからずおり、三善康信が「善信」と号したことがよく知られているほか、その孫・三善(太田)康有(時連の父)の法名も「善有」であったから、あくまで一説として掲げるだけだが、善照も同様の例で俗名=町野康照(やすてる)であった可能性もあるだろう。
*3:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.417 註(9) および P.418 註(12)。
*4:ア函/39/:六波羅御教書案|文書詳細|東寺百合文書。『鎌倉遺文』(未刊本化)22601号。
*5:『鎌倉遺文』第31巻24177号。読み下し文は 年代記応長元年 より。
*6:一例として『吾妻鏡』承久3(1221)年2月26日条に「町野民部大夫康俊」とある(→『大日本史料』4-15 P.849)。
*7:一例として『吾妻鏡』延応元(1239)年12月13日条に「加賀民部大夫康持」とある(→『大日本史料』5-12 P.590)。
*8:『関東評定伝』建治元(1275)年条 より。
*9:康永(初め政康)の息子とされる康行を祖とする九州問註所氏の系図である『問注所町野氏家譜』(『問注所文書』)では没年を正応3(1290)年とする。いずれにせよ正応年間の死没であった可能性が高い。
*11:『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘3年5月9~14日 P.27。
*12:蓮華寺過去帳(れんげじかこちょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。
*13:これについて細川氏は、注3前掲著書にて特に直接言及されてはいないが、他の人物(新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その76-大仏貞直 | 日本中世史を楽しむ♪、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その77-大仏貞房 | 日本中世史を楽しむ♪、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その78-大仏貞宣 | 日本中世史を楽しむ♪ など)で「貞時の偏諱」を想定される同氏のことだから、貞康についても恐らく同様に考えられていることと思う。
*14:細川氏が注3前掲著書 P.263~264 注(55)でもご紹介の通り、中山寺本『教行信証』の奥書で北条貞時を「当副将軍相州太守平朝臣」、『不断両界供偏数状』(『金沢文庫文書』)でその子・北条高時を「大施主副将軍家」と記した例が確認できる(→ 副将軍 - Wikipedia)。
*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ および 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。