【論稿】鎌倉・室町時代の朽木氏について
朽木氏(くつき - し)は、『尊卑分脈』佐々木氏系図(以下『分脈』と略記)、『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』と略記)などによると、宇多源氏の流れをひく佐々木信綱の次男で高島氏の家祖となった佐々木(高島)高信の子で、高島宗家を継いだ高島泰信の弟・頼綱を祖とする家柄である。
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『朽木文書』などには頼綱以降の当主に関する史料がいくつか遺されており、以下紹介していきたい(特に断りのない場合は『朽木文書』所収の書状とする)。
史料における朽木頼綱・義綱父子
弘安10(1287)年には「次男五郎源義綱(=朽木義綱)」に向け、「左衛門尉源頼綱」の署名で発給した譲状の写しが残されている*1。この書状によると、頼綱は「弘安勲功」の賞として、「祖父近江守信綱」が「承久勲功」により拝領して以来受け継いできた近江国朽木庄に加え、常陸国真壁郡本木郷(現・茨城県桜川市)を賜ったといい、この2つの領地を将来的に義綱に譲るとしている。
「弘安勲功」については、正応2(1289)年5月20日付「佐々木頼綱物具譲渡状写」*2により霜月騒動のことと分かる。仲村研氏によると、この書状で「左衛門尉源頼綱」は一旦「次男五郎源義綱」に譲った太刀を、「奥州禅門合戦之時」(「奥州禅門」とは安達泰盛(法名: 覚真)のこと)に使用した後、頼綱の兄弟と思われる氏綱に譲り、義綱には同合戦で使用した馬具の房尻繋一具を譲ったという*3。但し氏綱は『分脈』と照らし合わせると、頼綱の息子・四郎氏綱(五郎義綱の庶兄か)に同定するのが正確であろう。
それから3年後、正応5(1292)年8月日付「近江朽木荘願仏申状」(京都大学所蔵『明王院文書』)*4には「近江国高嶋郡朽木庄地頭佐々木出羽前司」とあり、同年12月5日付「佐々木頼綱置文案」*5の発給者「前出羽守」と同人と判断されるが、『分脈』でも「出羽守」と注記される頼綱と判断して良いだろう。すなわち、1289~1292年の間に頼綱は出羽守任官を果たし間もなく退任したことが分かる。
*ちなみに、江戸時代にまとめられた『寛政重修諸家譜』では "弘安八年十一月十七日城陸奥入道泰盛を追討のとき"、すなわち霜月騒動の際の軍忠が認められて出羽守に任じられ、のち左衛門尉に転じたとする*6が、出羽守→左衛門尉と降格するというのは通常考え難く、前述史料からしても誤りである。よってこれは、あくまで江戸時代当時の研究における見解として参考程度に掲げておく。
仲村氏によると、永仁2(1294)年8月20日付の譲状*7にて「五郎ひやうへよしつな(=五郎兵衛義綱)」に陸奥国板崎郷地頭職と朽木庄内の村一箇所を譲った人物は、同状を認証した正安元(1299)年6月26日付の「関東下知状」*8に
「可令早□□義綱領知陸奥国栗原一迫内板崎郷事、
右、任母尼覚恵永仁二年八月廿日譲状、可令領掌之状、依仰下知如件、」
とあることから、義綱の母(=頼綱の妻)尼・覚恵と判断されるという。
父・頼綱からではなく、母・覚恵から地頭職と所領を譲られているというこの事実、そして覚恵が出家して尼になっていることから、永仁2年8月20日の段階で頼綱は既に亡くなっていたと考えて良いのではないか。
そして「関東下知状」より1ヶ月前に出された正安元年5月23日付「六波羅下知状」*9の文中にも「近江国朽木庄地頭出羽五郎左衛門尉義綱」とあるが、この時までに、①五郎義綱が左衛門尉に任官したこと、②「出羽」が父の官途に因むものであること、③朽木庄地頭が頼綱から義綱へ継承されていること の3点が読み取れる。よって②より頼綱の最終官途が出羽守であったことは間違いないと判断できる。
また、嘉元3(1305)年閏12月12日付「関東下知状」の冒頭事書にも「佐々木出羽入道々頼後家尼心妙今者死去子息五郎左衛門尉義綱……」とあり*10、④頼綱が晩年出家して「道頼」と号していたこと、⑤その後家=未亡人であった尼・心妙(頼綱の側室か?)が同年の段階で既に故人で、夫の後を追うようにして亡くなっていたこと が読み取れる。
鎌倉時代後期から室町時代にかけての朽木氏
朽木義綱
頼綱の子・義綱は、祖先の佐々木義経 或いは 佐々木秀義に由来の「義」と父の1字「綱」により名乗ったものと思われる。前節で見た史料群から、この義綱の官途の変化を拾うと次の通りである。
● 1287~1289年:五郎(無官)
● ~1294年:兵衛尉
● ~1299年:左衛門尉
各官職への任官には各氏でそれ相応の年齢に傾向があり、佐々木氏一門で兵衛尉・左衛門尉双方を経た人物で、例えば頼綱の伯父である佐々木(大原)重綱を挙げると、15歳までに元服を済ませ、16歳で兵衛尉、19歳で左衛門尉となっている*11。この同じ傾向を義綱に当てはめるなら、おおよそ次のように推定が可能である。
● 1287年頃(11歳):元服
● 1292年頃(16歳):兵衛尉
● 1295年頃(19歳):左衛門尉
よって、逆算すると義綱の生年は(遅くとも)1277年頃と推定できる。但し、重綱と同じ例が当てはまるとは限らないので、後述にて調整することとしたい。
朽木時経
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正慶元(1332)年9月23日付「関東裁許状案」*12から、同年までに義綱が亡くなり、長男の四郎時経が兵衛尉に任官済みで跡を継いでいたことが分かる。時経にも前述の重綱と同じ任官年齢を適用すると(遅くとも)1315~1317年頃の生まれと推定可能である。義綱との年齢差も当時の親子としては少し離れている感もあるが、のちほど調整することにしよう。尚、「時経」の名乗りは、祖先・佐々木義経(初め章経)・経方父子から取ったと思われる「経」の字に対し、上(1文字目)に戴く「時」は北条氏からの偏諱ではないかと考えられるが、ここでは推論に留めておく。
この裁許状案では恐らく文中にて言及される嘉元2年当時の呼称として「佐々木出羽五郎左衛門尉義綱」と書かれるが、同年11月2日付「関東下知状案」の冒頭には「佐々木出羽前司義綱法師 法名種義、今者死去 長男四郎兵衛尉時経」とあり*13、実際には義綱が生前、かつて父が就いたのと同じ出羽守に任官の後に出家していたことが窺える。
鎌倉幕府滅亡から数ヶ月後にあたる、翌元弘3(1333)年8月12日付「後醍醐天皇綸旨」の冒頭にも「近江国朽木庄地頭職、佐々木出羽四郎兵衛尉時経如元可令知行者、……」とあり*14、時経が朽木庄地頭職を後醍醐天皇綸旨によって安堵されたことが窺える。
朽木義氏
建武3(1336)年正月28日付で「源義氏」が発給した軍忠状に(自ら)「佐々木出羽四郎義氏」と記している*15。この義氏は、時経と同じく「出羽四郎」を名乗るが、既に兵衛尉に任官していた時経とは別人と見なすべきであり、時経の子であったと考えて良いだろう。当時の義氏は無官であったことが窺えるが、単に元服からさほど経っていなかったからであろう。恐らく「義氏」の名は、時経の父・義綱の「義」と足利尊氏からの偏諱「氏」による名乗りではないかと推測され、鎌倉幕府滅亡後の元服であったと思われる。
時期の近さから、次の人物も義氏に比定される。
● 建武4(1337)年4月20日:「佐々木出羽四郎殿」*18
そして、建武4年8月3日に「佐々木出羽四郎兵衛尉殿」と現れる*19が、前述の出羽四郎義氏がこの年、兵衛尉に任官したと考えるのが妥当ではなかろうか。数年前の時経と同じ通称名であり、時経は既に故人であったと推測される。前述の重綱と同じ任官年齢を適用した場合、1321年頃の生まれとなり、時経の弟くらいの世代となるが、追って調整したい。
翌建武5(1338=暦応元)年のものとみられる閏7月16日付の「佐々木道誉書状」の宛先「出羽四郎兵衛尉殿」*20、暦応2(1339)年5月3日の足利直義の書状の宛名「佐々木出羽四郎兵衛尉」*21も義氏に比定される。
尚、暦応2年9月11日付「尼心阿和与状」および 同4(1341)年3月17日付「足利直義裁許状」に「佐々木四郎右衛門尉行綱(=泰信の子)女子尼心阿」と相論を起こしていた「同(佐々木)出羽五郎義信」なる人物が確認できるが、『分脈』等系図類の通り、まだ兵衛尉等に任官していなかった義氏の弟と見なすのが妥当であろう。
朽木経氏
ところで、元徳2(1330)年9月22日付「平顕盛譲状」*22には、顕盛(池顕盛、河内顕盛とも)が「しそくまんしゆ丸」に所領や太刀等を譲る旨が記されているが、『寛政譜』には朽木経氏(初め頼氏)が平頼盛から7代目の末裔である河内次郎顕盛の猶子となって所領を譲られたとの記述があり、万寿丸=経氏と考えられている*23。これについては同じく『朽木文書』所収の「池大納言所領相伝系図」(後掲【史料3】参照)に、「于時四郎乗氏万寿丸経氏」、「…… 河内次郎顕盛 経氏 佐々木出羽守童名万寿丸為養子相伝之、 」とあるので正しいと判断される。『寛政重修諸家譜』では経氏を義氏の子とし、『分脈』でも義氏の子に頼氏を載せる。
関係史料として、前述の出羽四郎兵衛尉時経からも次の書状が出されている。
いけとの(池殿=顕盛)より、たんこ(丹後)はりま(播磨)□さし(武蔵)あハ(安房)の御ゆつりしやう(譲状)・おなしく(同じく)御くたしふミ(下文)・てつき(手継)せうけん(証券)、たしかかに給候ぬ、それにつき□□ハ御いちこ(一期)のあいた(間)ハ、なに事もよきやうに御さはくり候て、まんしゆ丸に給候へく候、よんてうけとりのしやう(請取の状)くたんのことし(件の如し)、
元□〔徳〕二年十月廿二日 時経(花押)
この当時、経氏(万寿丸)は元服前であったということになるから、その年齢は10代前半以下になるだろう。なるべく誤差が少なくなるよう、10歳位としておこう。
そして、約21年後の観応2(1351)年6月26日付「足利尊氏袖判下文」の文中に「佐々木出羽四郎兵衛尉経氏」と書かれており*25、30歳前後で兵衛尉に任官済みであったことが窺える。
同年8月19日の足利直義の書状には宛名に「佐々木出羽守殿」とあり*26、翌3(1352=文和元)年閏2月23日にも足利義詮から「佐々木出羽守殿」、「佐々木朽木出羽四郎殿」に宛てた書状が出されている*27が、下記【史料2】にあるように翌々年の文和3(1354)年閏10月4日に「前出羽守経氏」から「嫡子万寿丸(父・経氏のかつての幼名に同じ)」への譲状が発給されていることから、「佐々木出羽守殿」=経氏であったと判断される。すなわち、1351年に30歳程度で出羽守の官職を得たことになる。
【史料2】文和3(1354)年閏10月4日付「前出羽守経氏譲状案」*28
譲与 嫡子万寿丸所
右所領者、為播州御合戦御下向、依御共仕、嫡子万寿丸、任代々本御下文并曾祖父譲状、不残壱所至于子々孫々可令知行、次池顕盛譲状所相副也、仍譲状如件、
文和三年後十月四日 前出羽守経氏 在判
*尚、観応3(1352)年の「佐々木出羽四郎」は無官であるから、既に兵衛尉に任官済みであった経氏とは別人と見なすべきであり、出羽守に任官した経氏の息子と考えて良いだろう。「四郎」の仮名を継承することから経氏の当初の嫡男であったと考えられるが、恐らく1353年前後に早世し、のちの"出羽五郎"氏綱となる「万寿丸」が新たな嫡子に指名されたものと思われる。"出羽三郎"氏秀は彼らの庶兄であったのだろう。
【史料2】では、発給者の経氏が言う「曾祖父」が誰を指すのかを確認しておきたい。
鎌倉時代では、御家人の所領の譲渡がされる時、相続人は安堵申状に譲状等の証拠書類を添えて幕府に提出し、幕府はこれを審査し正当であればを下付したが、惣領には「下文」の形式で安堵状が出された(=御下文)*29。室町時代初期の足利直義・義詮の代でもその方式を継承しつつ、やがて御判御教書が一般化することとなる。
【史料2】の場合、経氏の「曾祖父」なる人物の譲状が、曾孫(経氏)の代にまで伝わっていたようで、それまでの御下文と共に幕府に提出するにあたっての証拠書類として手元にあったと思われる。それだけ重要なものであれば、相副えられた元徳2年の「平顕盛譲状」と同様に、『朽木文書』所収の古文書として「曾祖父譲状」も現存していると考えるのが筋ではないかと思う。
一方、系図類を確認すると、『寛政重修諸家譜』では「義綱―時経―義氏―経氏」となっている*30ので、これを信ずれば曾祖父=義綱ということになる。しかし、正慶元(1332)年に義綱・時経父子に触れる書状が2点あることは前述したが、義綱から「長男四郎兵衛尉時経」等への譲状は未確認であり、所領の安堵に関しても、鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇の綸旨で認められたことを知るのが、現存の史料での限界である。よって曾祖父=義綱という前提そのものに疑問が生じてくる。
結論を言うと、『朽木文書』所収の現存文書の中で、前述1287年の頼綱の譲状が「曾祖父譲状」に相当するのではなかろうか。
国立公文書館デジタルアーカイブで公開中の「佐々木頼綱譲状写」は、江戸時代前期の寛永4(1627)年に改めて写しが作成されたものと思われ、末尾に「右承久の比より寛永 四年迄ハ四百十年ニ成」との記載がある。承久元(1219)年からであれば408年、承久の乱があった同3(1221)年からでも406年経ったことになり、いずれの場合でも四捨五入したおおよその数値として「410年」の記載に問題はない。
写しを作成するにあたり、当然原本、もしくはそれを書き継いできたものがあったはずであり、約410年もの間、頼綱の譲状が朽木氏にとっての重要な書類として大切に保存されてきたことが窺えよう。前述の通り、同譲状では頼綱から義綱に譲られた所領の中に信綱以来の所領である近江国朽木庄が含まれており、元綱から宣綱への家督継承から間もない寛永年間前後の段階でも、今日「朽木藩」と呼ばれることもあるように、変わらず朽木谷周辺を領有していた(尚、元綱は寛永9(1632)年に逝去)から、家祖・頼綱の譲状がその後の朽木氏代々の知行に影響を及ぼしていたことが分かる。
よって【史料2】での「曾祖父譲状」は佐々木頼綱譲状を指し、発給者経氏の「曾祖父」が頼綱であったことが結論付けられる。
もっとも、『分脈』での系譜は「頼綱―義綱―義氏―頼氏」となっており、『寛政重修諸家譜』では頼氏を経氏の初名とする。厳密には系譜自体も含め、両系図とも一部誤りと思しき記載がある(次節参照)が、頼綱と経氏を「曾祖父―曾孫」の関係と見なすことに問題はないだろう。
「義氏=経氏」説について
朽木氏(くつきうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク にある『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「朽木氏」の項(執筆:加藤哲 氏)に掲載の系図に重要なことが書かれている。「朽木氏3代当主の義氏と、4代当主の経氏は同一人物とも考えられる」と。これについて確認してみたい。
そもそも『分脈』を再確認すると、義綱の子は時綱(左衛門尉)と義氏(同五郎)となっているが、前述正慶元(1332)年の書状2点から「時綱」は「時経」の誤りと判断される。そして義氏は「五郎」ではなく前述したように自ら「佐々木出羽四郎義氏」と名乗っている。しかし義綱の息子(時経・義氏)が両方とも全く同じ「四郎」と名乗っていたというのはあまりに不自然であろうから、義綱周辺の系図に誤りがあると判断される。
恐らく江戸時代に入って『寛政重修諸家譜』が編纂される段階でこれらの点には気付かれていて、通称等の注記も含めて「義綱―時経―義氏―経氏(初 頼氏)」という系譜に修正された。但し管見の限り、経氏が「頼氏」と名乗っていた形跡は史料上で確認できず、恐らくここに『分脈』での「義氏―頼氏」をトレースした可能性が高い。
だが、ここで前述の考察との矛盾が生じる。改めて2種系図を比較してみよう。
●『分脈』:「頼綱―義綱―義氏―頼氏」
●『寛政譜』:「頼綱―義綱―時経―義氏―経氏(初 頼氏)」
結果として系譜の修正内容は「義氏を義綱の子ではなく、義綱の孫とした」もしくは「義綱と義氏の間に時経を入れた」だけである。そのため、頼氏(経氏)の曽祖父が頼綱でなくなってしまったのである。
しかし、①頼綱と経氏が「曾祖父―曾孫」であること、②『寛政譜』での「頼綱―義綱―時経―義氏」という系譜については前述の通り史料で裏付けられるから、これらの辻褄を合わせるために導かれる結論は「義氏=経氏」となる。初めは祖父・義綱、のちに父・時経の1字を用いていたことになる。
振り返れば『分脈』では「義氏―頼氏」と書かれるのみで、頼氏が(のちの)経氏であるとは全く書かれていないから、義氏=経氏と見なし、頼氏をその息子と解釈しても全く問題ない。前述「佐々木朽木出羽四郎殿」の実名が不明であったが、筆者はそれが「頼氏」だったのではないかと推測する。
また、前述にも掲げた「池大納言所領相伝系図」を見ると、「乗氏」も「頼氏」というよりは「義氏」の誤記或いは誤読の可能性が考えられると思う*31
(別紙)「糸〔系〕図 池殿 池大納言領」
池大納言頼盛 池河内守保業 池宮内大輔光度 宮内大輔為度 河内大夫維度 河内大夫宗度
河内次郎顕盛 于時四郎乗氏〔義氏か?〕万寿丸経氏
宮内大輔為度 河内大夫維度 先立于父死去畢、 河内新大夫宗度
河内次郎顕盛 経氏 佐々木出羽守童名万寿丸為養子相伝之、
*平頼盛は息子の僧・静遍(1166-)や平光盛(1172-)がまだ若年・幼少であった文治2(1186)年に亡くなっており、その兄弟である平保業も同様であったと考えられるが、その後は年の離れた長兄・平保盛(1157-)の庇護下にあってはその「保」の字を受けたとみられる。保業の子・平光度は伯父・光盛から1字を受けたのであろうか、頼盛の弟・忠度も用いた高祖父・正度の「度(のり)」が "復活" して暫く代々の通字となり、顕盛の代に再び「盛」の字が使われた様子である。保業以降の当主は国守に任官しなかったようで、保業が就いた河内守に因む「河内」が付されている。
【史料3】の成立時期について『鎌倉遺文』*33では「平(池)顕盛譲状」や【史料1】が出された元徳2(1330)年と推定されているが、経氏に「佐々木出羽守」の注記が見られることから、実際は任官した観応2(1351)年以後と見なすのが正しいだろう。
「河内次郎顕盛」の「しそく」として所領を譲り受けた元徳2年当時は「万寿丸」であったが、「于時四郎乗氏」はその後間もない頃に元服し、【史料2】で嫡男万寿丸(氏綱)に譲るまで領有していた当時の名乗りとみて良いだろう。
前述の通り「佐々木出羽四郎義氏」が初めて史料上に現れるのは、建武3(1336)年正月であるから、それ以前に元服を済ませていたことになる。顕盛の猶子「万寿丸」もいずれは元服するのであり、1330年代に「四郎」と名乗る万寿丸=乗氏と義氏が別々にいたと考えるよりは、同人であったと見なすのが自然であると思う。
この検証については、最終章にて細かく行っているので後述を参照いただければと思う。
朽木氏秀・氏綱兄弟
【史料2】から20数年後の永和2(1376)年正月22日には「従五位下源氏秀」を出羽守に任じる旨の宣旨が出されている*34が、以下史料により経氏の子と分かる。
● 貞治2(1363)年6月3日付「佐々木出羽五郎殿」宛て「足利義詮御判御教書」の文中に「亡父経氏」*35
*この文書は「去文和三年潤〔ママ、閏〕十月四日亡父経氏譲状之旨」(=【史料2】)に任せて朽木庄以下の領知を安堵するものであり、前述の万寿丸=佐々木出羽五郎(=氏綱)であることが分かる。また、1361年~1363年の間に経氏が亡くなったことも窺えよう。
● 応安5(1372)年10月17日付・(朽木)氏綱の書状の文中に「出羽三郎氏秀」*36
● 永和3(1377)年8月22日付で「佐々木出羽守氏秀」に下した3代将軍・足利義満の袖判下文の文中に「舎弟五郎氏綱」とある*37ことから、氏秀の弟が氏綱で、前述の「佐々木出羽五郎」も氏綱と判断される。
氏秀・氏綱兄弟の父が経氏であるというので、前述元徳元年の「まんしゆ丸」の息子ということになる。現実的に考えれば、兄弟の生年は早くとも「まんしゆ丸」=経氏が20代を迎える1340年代と考えるべきだろう。氏秀もやはり30代以下での出羽守任官であったことになる。その名乗りは父・経氏の「氏」と祖先・佐々木秀義の「秀」を用いたものであろう。
永和4/康暦元(1379)年7月、義満の右近衛大将拝賀式の際の供奉人の一人に「佐々木出羽五郎左衛門尉」が含まれており(『群書類従』巻459所収『花営三代記』)*38、前述の「五郎氏綱」も1377~1379年の間、30代で左衛門尉の官職を得たことが窺える。
朽木能綱・時綱
【史料3】応永3(1396)年6月26日付「朽木氏綱譲状案」*39
譲与 嫡子五郎所
右所領者、近江国朽木庄・同針畑村并自池顕盛相伝所領、次朽木庄内栃生郷者、田中七郎*40一期之間、可知行之由、契約畢
応永三年六月廿六日 左衛門尉氏綱 在判
氏綱の「嫡子五郎」は、『寛政譜』や『系図纂要』上でも息子となっている朽木能綱(よしつな)に比定され*41、元服からさほど経っていなかった可能性が高い。1370~80年代の生まれになるのではないか。
そして、同14(1407)年6月24日には「妙林」なる人物が「朽木出羽守能綱」に向けての譲状を発給している*42が、同23(1416)年10月日付の「佐々木朽木出羽守能綱 申状」の文中に「伯父妙林」とあり*43、妙林=氏秀(氏秀の法名が妙林)と判断される*44。
また、氏秀の出羽守任官から31年経った1407年の段階で、甥である能綱が出羽守に就いていたことが窺えるから、やはり同じくらいの年齢での任官であっただろう。1380年頃の生まれとするのが良さそうである。能綱はかなり長期の在任であったようで、永享3(1431)年2月に「出羽守能綱」名義で「朽木五郎左衛門尉時綱」に向けての譲状を発給している*45が、時綱は父・能綱との現実的な年齢差を踏まえても当時20代で左衛門尉在任であったことが窺えよう。
朽木貞高以後
嘉吉元(1441)年11月3日付の「室町将軍(=足利義勝)家御教書」では、受取人「佐々木朽木満若殿」に対し若狭国への発向を命じているが、『寛政譜』や先行研究では時綱の子・朽木貞高(初名:高親)の幼名と考えられている*46。
仲村研氏はこれに加え、文安3(1446)年3月27日書状の「朽木弥五郎」、享徳3(1454)年4月「朽木信濃守高親」、同年12月7日書状の「佐々木朽木信濃守殿」*47についても貞高に比定されている*48。
長禄2(1458)年3月5日付足利義政袖判御教書の文中に「佐々木朽木信濃守貞高」と見えており*49、文明2(1470)年正月26日*50までの存命が確認できる。
信濃守貞高の存命中、応仁2(1468)年7月8日には「佐々木朽木弥五郎殿」に対し、所領の近江国後一条・安主名を、応仁の乱の最中にあった8代将軍・足利義政の「若君(=のちの足利義尚)」の「供菜料所」として預ける旨の書状が出されており*51、これは貞高の子・朽木貞綱に比定されよう。文明17(1485)年7月17日に「朽木刑部少輔貞武」が死去したという*52が、『寛政譜』や『系図纂要』*53では貞綱の初名と伝える。
長享元(1487)年、22歳と遅めではあるが足利義材が室町殿(=従兄の9代将軍・足利義尚)の猶子として美濃国で元服を遂げ*54、翌2(1488)年8月15日付の書状の宛名「佐々木朽木殿」*55は故・貞武(貞綱)の子に比定されるから、材秀(きひで)が元服したばかりの次期将軍・義材の加冠により元服を遂げたと判断できる。元服は通常10代前半で行われたから、逆算すると1470年代の生まれになるだろう。『親長卿記』文明5(1473)年11月23日条には「昨日廿二日、予(=筆者・甘露寺親長)息女 故伊勢守貞祐令猶子、遣朽木弥五郎、今日産男子誕生、但母堂廿歳、死去云々、」とあり*56、「朽木弥五郎(=貞綱)」の許へ遣っていた親長の娘20歳が男子を出産して亡くなったことが記されており、この男子が材秀に当たるのではないか。
延徳2(1490)年7月、前年の義煕(義尚より改名)および正月の伯父・足利義政(義尚の父)の相次ぐ逝去により将軍職を継いだ義材(のち1498年「義尹」に改名)は、9月5日付の袖判御教書にて「佐々木朽木弥五郎材秀」に対し近江国高嶋郡朽木庄の当知行を安堵している*57が、わざわざ実名を記して「材」の偏諱を認めていたことが分かる。尚、もう片方の「秀」字は前述の氏秀以来の使用となる。
『朽木文書』所収・永正2(1505)年12月3日付「室町幕府奉行人(=飯尾元行、松田頼亮)連署奉書」の宛名「竹松殿」については、同3*58~4年*59の「佐々木朽木竹松殿」と同人でのちの稙綱に比定されており(『寛政譜』)、まだ元服前であったことが窺えるが、同12(1515)年の段階では元服済みで「朽木弥五郎」・「佐々木朽木殿」と呼ばれている*60。『寛政譜』によると恵林院義稙(=足利義稙)より諱字を与えられ、初名「稙廣(稙広)」であったといい*61、永正13(1516)年には「稙廣」署名の書状が確認できる*62。よって竹松の元服は、同10(1513)年に将軍・足利義尹が「義稙」と改名*63して間もない頃になるだろう。前述と同様、元服の年齢を考えて逆算すると1500年頃の生まれと推定される。
『寛政譜』によると、朽木晴綱は萬松院義晴(=足利義晴)より諱字を賜り、天文19(1550)年に33歳で討死したといい*64、逆算すると永正15(1518)年生まれと分かる。父・稙広(稙綱)との年齢差が18となるが、日本史上では珍しくなく、十分妥当である。
朽木氏各当主の世代推定と官職任官年齢について
前章での考察を踏まえて、各当主の限りなく正確な生年・世代を推定してみたいと思う。
経氏以降
経氏・氏綱については幼名の「万寿丸」を名乗っていた時期から生年を推定可能であり、材秀以降も生まれた時期がほぼ確定されるので、おおよそ次のようになるだろう。
●「万寿丸経氏」:1320年代
●「(前出羽守経氏)嫡子万寿丸」:1340年代
● 朽木能綱:1380年代
● 朽木時綱:1400年代
● 朽木貞高:1430年代
● 朽木貞綱:1450年代
● 朽木材秀:1473年か
● 朽木稙綱:1500年頃
● 朽木晴綱:1518年~
● 朽木元綱:1549年~
経氏以前
では、今度は経氏から遡っていきたいと思う。各親子間の年齢差を20と仮定した場合、次のように推定される。
● 朽木義綱:1260年代
● 朽木時経:1280年代
● 朽木義氏:1300年代
●「万寿丸経氏」:1320年代
こうした場合、義綱・義氏・経氏に関しては30代で兵衛尉に任官したことになる。兵衛尉時経も史料に出てきた当時、その年齢をはるかに超えることになるから一応はその条件を満たしている。
ここで前述の「義氏=経氏」説に関連して、各々の史料を以下のように列挙してみると、登場時期が重なることが分かる。
● 元徳2(1330)年9月22日・10月22日:「まんしゆ丸」
● 建武3(1336)年正月28日:「佐々木出羽四郎義氏」
● 建武3年9月27日:「佐々木出羽四郎殿」
● 建武4年8月3日:「佐々木出羽四郎兵衛尉殿」
● 建武5(1338)年閏7月16日:「出羽四郎兵衛尉殿」
● 建武5年8月16日・27日・9月3日:「出羽四郎兵衛尉」*65
● 暦応元(1338 ※建武より改元)年10月2日:「出羽四郎兵衛尉」*66
● 暦応2(1339)年5月3日:「佐々木出羽四郎兵衛尉」
● 暦応4(1341)年正月20日・9月14日・10月28日:「佐々木出羽四郎兵衛尉殿」*67
● 康永4(1345=貞和元)年8月29日:足利尊氏・直義兄弟の天龍寺供養に随行する中に「佐々木出羽四郎兵衛尉」(『師守記』・『園太暦』同日条、『伊勢結城文書』、『太平記』など)*68
● 貞和3(1347)年8月9日:「佐々木出羽四郎兵衛尉殿」*69
● 観応2(1351)年6月26日:「佐々木出羽四郎兵衛尉経氏」
● 観応2年8月19日:「佐々木出羽守殿」
● 観応3/文和元(1352)年閏2月23日:「佐々木出羽守殿」
● 文和3(1354)年閏10月4日:「前出羽守経氏」
【史料3】より元徳2年の「まんしゆ丸(万寿丸、元服前なので年齢は10代前半以下)」と文和3年の「前出羽守経氏」が同一人物であるのだから、のちの息子・氏秀と同様に30代以下での出羽守任官であったことが確実となる。
もし仮に義氏と経氏を別人(親子)とした場合、次のようになると思う。
●時経 1330年(40代後半~50歳位):兵衛尉
●義氏 1337年~1347年(30代後半~40代後半):兵衛尉
●経氏 1337年~(10代半ば):出羽四郎
1351年~(30歳程度):兵衛尉、出羽守
この場合、不自然な点が2つある。時経が50歳近くになっても国守等への任官を果たしていないこと、経氏の代になって急に兵衛尉、出羽守と一気に昇進が許されていることである。前述の通り、経氏にとっても「曾祖父」は義綱ではなく頼綱とすべきであるから、おおよそ次のように推定される。
● 朽木頼綱:1230年代
● 朽木義綱:1260年代
● 朽木時経:1290年代
● 朽木義氏(経氏):1320年代
備考
朽木氏は一部の当主を除いて原則「綱(つな)」を代々の通字とした。
前述の通り、朽木貞綱は伊勢貞祐の猶子であった甘露寺親長の娘を妻に迎えており、父・朽木高親(のち貞高)の「親」や「貞」の字は、貞綱が一時期匿ったこともある貞祐の父・伊勢貞親(1417-1473)と以前から繋がりがあって偏諱を受けたものではないかと推測される*71。高親(貞高)は「綱」の通字を用いず、祖先・佐々木高信にまで遡ってその「高」の字を用いた様子である。
江戸時代前期の旗本・朽木定朝も初名は「亮綱(すけつな)」であったが、恐らくは当時の将軍・徳川家綱の偏諱を避ける(=避諱)ため、祖先・佐々木定綱(秀義の長男)の「定」*72を用いた名前に改名している。
(参考ページ)
● 武家家伝_朽木氏
脚注
*1:佐々木頼綱譲状写。佐々木頼綱譲状案(『朽木家古文書』147 国立公文書館) - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座。
*2:『鎌倉遺文』第22巻17009号。
*3:仲村研「朽木氏領主制の展開」(所収:『社会科学』17号、同志社大学人文科学研究所、1974年) P.163。
*4:『鎌倉遺文』第23巻17992号。
*5:『鎌倉遺文』第23巻18062号。
*6:『寛政重修諸家譜』第3輯・巻第401「宇多源氏 佐々木系図」。
*7:『鎌倉遺文』第24巻18635号「尼覚意譲状」。
*8:『鎌倉遺文』第26巻20146号。
*9:『鎌倉遺文』第26巻20125号。
*10:『鎌倉遺文』第29巻22443号。
*11:大原頼重 - Henkipedia 参照。
*12:『鎌倉遺文』第41巻31850号。斯波宗家 - Henkipedia【史料B】参照。
*13:『鎌倉遺文』第41巻31881号。斯波宗家 - Henkipedia【史料C】参照。
*22:『鎌倉遺文』第40巻31207号。平顕盛譲状。平顕盛譲状(『朽木家古文書』134 国立公文書館) - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座。
*23:『寛政重修諸家譜』第3輯・巻第415「宇多源氏 朽木系図」。在田庄(ありたのしよう)とは? 意味や使い方 - コトバンク。前掲仲村氏論文 P.169。
*24:『鎌倉遺文』第40巻31245号。旧国名については平顕盛譲状にある各所領を参照のこと。
*28:『大日本史料』6-19 P.182・198~199。
*29:安堵状(あんどじょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。
*30:『寛政重修諸家譜』第3輯・巻第415「宇多源氏 朽木系図」。
*31:「乗」(U+4E57) | 日本古典籍くずし字データセット、「義」(U+7FA9) | 日本古典籍くずし字データセット、「頼」(U+983C) | 日本古典籍くずし字データセット 参照。
*32:『鎌倉遺文』第40巻31208号。
*33:前注に同じ。
*35:『大日本史料』6-25 P.99。足利義詮御判御教書。前掲仲村氏論文 P.177。
*37:『大日本史料』6-49 P.448~449。足利義満袖判下文。
*38:群書類従 第576-578冊(巻459上中下) - 国立国会図書館デジタルコレクション。足利義満 右近衛大将拝賀式 供奉人。
*39:『朽木家古文書』434号。近江国 - 「ムラの戸籍簿」データベース #高島郡栃生郷の項、朽木データベース1 - 周梨槃特のブログ より。
*40:田中七郎については実名等不詳であるが、本項にも掲げた頼綱の子・氏綱に始まる田中氏の者とみられる。佐々木氏支流の田中氏については 田中・山崎・永田氏の系譜―高島七頭(4): 佐々木哲学校 を参照のこと。
*41:前掲仲村氏論文 P.193~194。寛政重脩諸家譜 第3輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*44:前掲仲村氏論文 P.194。
*45:『編年史料』後花園天皇紀・永享3年正月~2月 P.77。
*46:室町将軍(足利義勝)家御教書。【本郷和人の日本史ナナメ読み】古文書学とは何か(上)中世文書は「形式」が重要(3/3ページ) - 産経ニュース。寛政重脩諸家譜 第3輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*48:前掲仲村氏論文 P.195~196。
*49:『編年史料』後花園天皇紀・長禄2年正~3月 P.62。
*53:前注に同じ。
*56:史料大成 続編 第39 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*57:足利義材(義稙)袖判御教書。『大日本史料』8-39 P.17。
*58:『編年史料』後柏原天皇紀・永正3年3~4月 P.18。
*59:『編年史料』後柏原天皇紀・永正4年2~3月 P.43。
*61:『寛政重修諸家譜』第3輯・巻第415「宇多源氏 朽木系図」。
*64:『寛政重修諸家譜』第3輯・巻第415「宇多源氏 朽木系図」。
*68:『大日本史料』6-9 P.248・274・280・286・304・313。康永四年 足利尊氏・直義、天龍寺供養 供奉人。
*70:兄・重綱(1207-)と弟・泰綱(1213-)の各生年の間。
*71:幕府政所執事であった伊勢貞親の偏諱を受けたと考えられる人物としては、宮氏上野介家の宮貞兼(宮若狭守貞兼、→ 宮三河守家について(特異な宮上野介家の庶子家))や、貞親の被官であったという松平信光の子・親忠(→ 川戦:『将軍』寺編①プロローグ: Papathana's ブログ、徳川家の出自と松平一族について(3) | 気まぐれな梟)らが挙げられる。
*72:恐らくこの字は元々、祖先の宇多天皇の諱「定省(即位前に一時臣籍降下して源定省と名乗っていた)」の1字を取ったものではないかと思われる。