佐々木経泰
佐々木 経泰(ささき つねやす、1234年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。佐々木泰綱の最初の嫡男であったが、のちに廃嫡されたとされる。呼び方は六角経泰とも。官途は左衛門尉。子に佐々木朝綱(ともつな)、孫に夢窓疎石がいる。
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父・泰綱については1213年生まれと判明しているから、現実的な親子の年齢差を考えれば、早くとも1233年頃の生まれになるだろう。
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そして、最終的に泰綱の跡を継いだ弟の頼綱も1242年生まれと分かっているので、兄である経泰の生年はそれ以前になることも確定する。
『尊卑分脈』佐々木氏系図を見ると、上記父兄についてのほか、経泰の子に朝綱(左門尉、遁世)が載せられており、夢窓疎石(1275~1351)はこの佐々木朝綱と北条政村の娘との間に生まれたとされる*1。経泰を前述の1233年から1235年頃の生まれとすれば、疎石との「祖父―孫」間の年齢差で丁度良くなる。
*夢窓国師については宇多天皇九代の後胤と伝える史料があるが、これに対し六角氏郷は世代・代数的な矛盾点を指摘し、後小松天皇の宸翰であろうと誤りはあるものだと述べて『夢窓国師俗譜』(天竜寺所蔵)をまとめている*2。
よって、経泰は1234年頃、泰綱が22歳位の時に生まれた長男であったと判断して良いだろう。
ここで「経泰」の名乗りに着目すると、「泰」が父から継承した字であるのに対し、上(1文字目)に戴く「経」の字は烏帽子親からの一字拝領と考えられる。
『吾妻鏡』建長2(1250)年12月3日条には弟・頼綱が5代執権・北条時頼の邸宅において9歳(数え年、以下同様)で元服した記事が見えており、「頼」の偏諱を与えられた様子が窺える。前掲記事でも言及の通り、父・泰綱の「泰」も3代執権・北条泰時からの一字拝領に間違いない。
経泰を1234年の生まれと仮定すると、9歳を迎える仁治3(1242)年には泰時の逝去に伴い、その嫡孫である北条経時(時頼の兄)が4代執権となっている。経時は寛元4(1246)年に亡くなるまでの4年間在職した*3から、経泰の生年を少し前後させても、その元服は経時の在任期間内になる可能性はほぼ確実と言って良いだろう。よって、経泰も父や弟に同じく北条氏得宗を烏帽子親とし、経時の偏諱「経」を賜ったと判断される。
脚注
*1:一井明文「夢窓国師と興禅護国」(所収:『禅学研究』32号、禅学研究会、1939年)P.153、天竜寺所蔵『夢窓国師俗譜』: 佐々木哲学校(佐々木哲氏のブログ)より。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。