Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

朽木頼綱

佐々木 頼綱(ささき よりつな、生年不詳(1230年代前半か)~1294年?)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。通称および官途は 五郎、左衛門尉、出羽守。法名道頼(どうらい)

 『尊卑分脈』佐々木氏系図(以下『分脈』と略記)によると、宇多源氏の流れをひく佐々木信綱の次男で高島氏の家祖となった佐々木(高島)高信の子。高島宗家を継いだ高島泰信の弟で、分家して朽木氏の祖となる。源頼綱高島頼綱朽木頼綱とも呼ばれる。子に横山頼信田中氏綱朽木義綱

 

 

北条時頼の烏帽子子

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こちら▲の記事で紹介の通り、父・高信については生年が1208~1212年の間に推定でき、その嫡子であった兄・泰信についても『吾妻鏡寛元3(1245)年8月15日条に「佐々木孫三〔四〕」、翌4(1246)年8月15日条に「佐々木孫四郎」とある*1から、1230年頃の生まれで3代執権・北条時の晩年期(1242年に逝去)元服したと見受けられる。よって、弟である頼綱の生年や元服の時期もこれより遡ることはないと考えて良いと思う。

また、高信は文暦2(1235)年7月末、日吉社とトラブルを起こした関係で豊後国流罪となっている*2。高信自身は以後復帰した形跡が確認できない一方で、前述のように鎌倉幕府内で長男・泰信が活動していることや、「高島七頭」とも呼ばれる通りその他の高信の子孫たちが近江国高島郡の在地武士として繁栄していることを踏まえると、高信の流刑以前の1230年代前半に次男の頼綱らも生まれていたと考えて良いのではないだろうか。高信流刑後も祖父・信綱(虚仮)が鎌倉に在って存命であったから(1242年逝去)、高信の子たちの養育等に何かしら携わっていたものと思う。

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尚、こちら▲の記事でも頼綱の生年を1230年代と推定させていただいたので、あわせてご参照いただければと思う。

 

ここで「」の名乗りに着目すると、祖父・信綱の1字でもある「綱」に対し、「」は烏帽子親からの一字拝領の可能性がある。元服は通常10代で多く行われたから、前述の生年推測に従うとその時期は1240年代後半と推定され、1246年から第5代執権となっていた北条時(在職期間:1246年~1256年)*3偏諱が許されたことになる。兄・泰信と同様に執権・北条氏の加冠により元服したものと判断される。

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こちら▲の記事でも紹介の通り、『吾妻鏡』建長2(1250)年12月3日条には「佐々木壱岐前司泰綱(=高信の弟)子息」が時の邸宅において元服し「三郎(=六角頼綱)」と名乗った記事が見える。本項の五郎頼綱から見て、同名の従兄弟にあたるが、元服の様子は両者ともほぼ同様であったと思われる。

<佐々木氏信綱流略系図

 佐々木信綱――大原 重綱頼重

       ├ 高嶋 高信頼綱

       ├ 六角 泰綱頼綱

       └ 京極 氏信頼氏

同じ「佐々木頼綱」であるため、先行研究によっては混同されているものもあるが、『吾妻鏡』での「佐々木壱岐三郎左衛門尉頼綱」は父・泰綱の官途を付した六角頼綱であって、本項の朽木頼綱ではないことに注意しておきたい*4

 

従って朽木頼綱に関しては『吾妻鏡』および『吾妻鏡人名索引』ではそれらしき人物が見当たらず、当初どのような活動・生涯であったかは不明と言わざるを得ないが、少し時代が下ると『朽木文書』などに頼綱に関する史料がいくつか遺されており、以下次節にて紹介していきたい(特に断りのない場合は『朽木文書』所収の書状とする)。

 

史料における朽木頼綱と息子たち

弘安10(1287)年には「次男五郎源義綱(=朽木義綱)」に向け、「左衛門尉源頼綱」の署名で発給した譲状の写しが残されている*5。この書状によると、頼綱は「弘安勲功」の賞として、「祖父近江守信綱」が「承久勲功」により拝領して以来受け継いできた近江国朽木庄に加え、常陸国真壁郡本木郷(現・茨城県桜川市を賜ったといい、この2つの領地を将来的に義綱に譲るとしている。

弘安勲功」については、正応2(1289)年5月20日付「佐々木頼綱物具譲渡状写」*6により霜月騒動のことと分かる。仲村研によると、この書状で「左衛門尉源頼綱」は一旦「次男五郎源義綱」に譲った太刀を、「奥州禅門合戦之時」(「奥州禅門」とは安達泰盛(法名: 覚真)のこと)に使用した後、兄弟と思われる氏綱(うじつな)に譲り、義綱には同合戦で使用した馬具の房尻繋一具を譲ったという*7。但し氏綱は『分脈』佐々木(高嶋)氏系図と照らし合わせると、頼綱の息子で「田中」を号した四郎氏綱に同定するのが正確で、輩行名通り五郎義綱の兄とみて良いと思われる。

それから3年後、正応5(1292)年8月日付「近江朽木荘願仏申状」京都大学所蔵明王院文書』)*8には「近江国高嶋郡朽木庄地頭佐々木出羽前司」とあり、同年12月5日付「佐々木頼綱置文案」*9の発給者「前出羽守」と同人と判断されるが、『分脈』でも「出羽守」と注記される頼綱と判断して良いだろう。すなわち、1289~1292年の間に頼綱は出羽守任官を果たし間もなく退任したことが分かる。

*ちなみに、江戸時代にまとめられた『寛政重脩諸家譜』では "弘安八年十一月十七日城陸奥入道泰盛を追討のとき"、すなわち霜月騒動の際の軍忠が認められて出羽守に任じられ、のち左衛門尉に転じたとする*10が、出羽守→左衛門尉と降格するというのは通常考え難く、前述史料からしても誤りである。よってこれは、あくまで江戸時代当時の研究における見解として参考程度に掲げておく。

仲村氏によると、永仁2(1294)年8月20日付の譲状*11にて「五郎ひやうへよしつな(=五郎兵衛義綱)」に陸奥国板崎郷地頭職と朽木庄内の村一箇所を譲った人物は、同状を認証した正安元(1299)年6月26日付の「関東下知状」*12

「可令早□□義綱領知陸奥国栗原一迫内板崎郷事、

右、任母尼覚恵永仁二年八月廿日譲状、可令領掌之状、依仰下知如件、」

とあることから、義綱の母(=頼綱の妻)尼・覚恵と判断されるという。

父・頼綱からではなく、母・覚恵から地頭職と所領を譲られているというこの事実、そして覚恵が出家してになっていることから、永仁2年8月20日の段階で頼綱は既に亡くなっていたと考えて良いのではないか

そして「関東下知状」より1ヶ月前に出された正安元年5月23日付「六波羅下知状」*13の文中にも「近江国朽木庄地頭出羽五郎左衛門尉義綱」とあるが、この時までに、①五郎義綱が左衛門尉に任官したこと、②「出羽」が父の官途に因むものであること、③朽木庄地頭が頼綱から義綱へ継承されていること の3点が読み取れる。よって②より頼綱の最終官途が出羽守であったことは間違いないと判断できる。

また、嘉元3(1305)年閏12月12日付「関東下知状」の冒頭事書にも「佐々木出羽入道々頼後家尼心妙今者死去子息五郎左衛門尉義綱……」とあり*14、④頼綱が晩年出家して「道頼」と号していたこと、⑤その後家=未亡人であった尼・心妙(頼綱の側室か?)が同年の段階で既に故人で、夫の後を追うようにして亡くなっていたこと が読み取れる。

 

www.digital.archives.go.jp

再び正応5年に戻り、10月24日には「あまめうこ」=尼・妙語(後述参照)による平仮名や変体仮名が用いられた譲状が出されている*15。「……(※読み下し)四郎右衛門行綱ニ譲り賜うべしといえども、父四郎左衛門入道の習い置く所をも背き、ことごとく不孝のものなるによりて長く勘当し」たので、「をい之(甥の)()(出羽)の三ろうさゑもん(三郎左衛門)より()(頼信)」に所領を譲り渡す旨が記されているが、後世の永和3(1377)年12月21日付「足利義満袖判裁許状」でも「佐々木出羽守氏秀……曾祖母妙語」について「…而実子行綱依為不孝之質、譲与(譲り与える)佐々木出羽三郎左衛門尉頼信…」と言及されている*16。すなわち妙語の実子が四郎右衛門行綱なのであり、『分脈』での泰信の子・右衛門尉行綱(佐々木行綱)に比定される。「父四郎左衛門入道」は泰信ということになり、妙語はその妻および行綱の母ということになる。

<佐々木(高島)氏略系図

 高嶋 高信――泰信―泰氏

    |  ||――四郎右衛門尉 行綱

    | 尼・妙語

    └ 頼綱横山三郎 頼信

        ├ 田中四郎 氏綱

        └ 朽木五郎 義綱

そして「佐々木出羽三郎左衛門尉頼信」は『分脈』での頼綱の長男・"横山三郎"頼信(佐々木頼信)に比定され、妙語とも義理の「伯母(伯父・泰信の妻)―甥」の関係が成り立っている。正応5年当時「出羽」の官途を付しており、父・頼綱が出羽守に任官した(前述の通り同年の段階では既に退任して「前出羽守」)ことの裏付けになる。一方で『分脈』上で三男になるはずの五郎義綱が前述の書状にあるように「次男」と呼ばれることから、頼信が早い段階から義伯母・妙語の所に事実上の養子入りをしていたのかもしれない。

 

頼綱の息子たちは、横山・田中・朽木の3氏に分かれ、いずれも近江の武士団「高島七頭」の一つに数えられる家柄として存続していったのであった。

 

(参考ページ)

 朽木氏の系譜―高島七頭(2): 佐々木哲学校

 朽木氏 - Wikipedia

 武家家伝_朽木氏

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.327「泰信 佐々木」の項。

*2:『吾妻鏡』文暦2/嘉禎元年7月27日・29日条

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*4:仲村研「朽木氏領主制の展開」(所収:『社会科学』17号、同志社大学人文科学研究所、1974年)P.164 では「佐々木壱岐三郎左衛門尉頼綱」を朽木頼綱の事績に含めてしまっている。

*5:佐々木頼綱譲状写佐々木頼綱譲状案(『朽木家古文書』147 国立公文書館) - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

*6:『鎌倉遺文』第22巻17009号。

*7:注 前掲仲村氏論文 P.163。

*8:『鎌倉遺文』第23巻17992号。

*9:『鎌倉遺文』第23巻18062号。

*10:『寛政重修諸家譜』第3輯・巻第401「宇多源氏 佐々木系図」

*11:『鎌倉遺文』第24巻18635号「尼覚意譲状」。

*12:『鎌倉遺文』第26巻20146号。

*13:『鎌倉遺文』第26巻20125号。

*14:『鎌倉遺文』第29巻22443号。

*15:尼妙語譲状尼めうこ(妙語)譲状(『朽木家古文書』107 国立公文書館) - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

*16:足利義満袖判裁許状(『朽木家古文書』国立公文書館) - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座