Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大曾禰氏

大曾禰氏(おおそね し)は日本の氏族、鎌倉時代の武士団。大曾祢、大曾根とも書く。

源頼朝の側近、安達盛長の次男・時長を始祖とする。苗字の地である出羽国大曾禰荘は、元々藤原頼長所有の下、奥州藤原基衡が管理を任されていた地であったが、保元の乱での頼長の死によって後院領(皇室御領)となり、更に奥州藤原氏が滅んだことにより、安達氏が地頭になった所である*1

 

 

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(*日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 藤原氏山蔭流【1】 に掲載の図より一部抜粋して作成。人物の配置は『尊卑分脈』に同じ。)

 

 

嫡流の歴代当主

安達時長

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「藤九郎次郎」と呼ばれる通り、安達盛長(安達藤九郎盛長)の次男であったことが分かり、系図類でも景盛の弟に位置付けられる。後述するが、長男の長泰が1213年の生まれであるから、親子の年齢差を考えて1193年頃より前には生まれていたと推測できよう。

吾妻鏡』では建久年間(1190~1198年)に「九郎藤次」*2、建保元(1213)年に「藤九郎次郎」*3として計6回登場する*4。実名「(ときなが)」の「時」字は北条氏から通字を賜ったものと思われるが、時期からすると、北条(初代執権就任前)からの偏諱かもしれない。 

 

 

大曾禰長泰

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尊卑分脈』によれば、弘長2(1262)年8月12日、52才(数え年、以下同じ)での死去とされ、逆算すると1211年生まれとなる(享年を50と記載する異本もあり*5。ここから元服の年次を推定すると、「(ながやす)」の「」字は、元仁元(1224)年に第3代執権に就任したばかりの北条を烏帽子親とし、その偏諱を賜ったものと考えられよう。

吾妻鏡』での初見は、嘉禎元(1235)年6月29日条「大曾禰兵衛尉長泰」。当時25歳となり、兵衛尉任官後としては適齢であろう。

 

(参考ページ)

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№93-大曾禰長泰 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ、以下同様)

 

 

大曾禰長経

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尊卑分脈』によれば、弘安元(1278)年6月22日、47才での死去とされ、逆算すると1232年生まれ、長泰20歳(数え年)の時の子となる。ここから元服の年次を考えると、「(ながつね)」の「」字は、1242年~1246年の間、第4代執権であった北条を烏帽子親とし、その偏諱を賜ったものと考えられよう(4代将軍・九条頼経は1244年に解任)

吾妻鏡』での初見は、建長3(1251)年1月11日条「大曾禰左衛門太郎長継〔ママ〕」、同4(1252)年4月14日条「大曾禰左衛門大郎〔ママ:太郎、以下同じ〕長経」とされる。

 

(参考ページ)

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№94-大曾禰長経 | 日本中世史を楽しむ♪

 

 

大曾禰宗長

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尊卑分脈』には「弘安八自害」とあるのみで、詳しい生年は不明であるが、父の長経との年齢差を考えれば、おおよそ1252年頃よりは後と推測できよう(長泰―長経と同じ年齢差であれば、建長3(1251)年の生まれとなる)。長泰・長経の元服は12, 3歳で行われたと推測されるので、(むねなが)元服当時の得宗北条時(父・時頼の死去により1263年~家督継承)であったと判断できる。その名前からして「」の偏諱を賜ったことは間違いないだろう(同じく盛長の玄孫の安達宗景安達宗顕なども同様)。 

「弘安八自害」とあるのは弘安8(1285)年の霜月騒動のことであり、その際のメンバーを記した他の史料によって裏付けられる*6。 竹内理三編の『鎌倉遺文』では、熊谷直之所蔵『梵網戒本疏日珠抄裏文書』に収録の「安達泰盛乱聞書」(第21巻15736号)での「上総介」「大曾祢太郎左衛門入道」、「安達泰盛乱自害者注文」(第21巻15734号)での「前上総守 大曾祢左衛門入道」を宗長に比定している。同じ人物を2人(2回)も書かないと思うので、最終官途の「上総介」で書かれていない「大曾祢左衛門入道」は別人と判断すべきだが、鎌倉年代記』裏書・弘安8年条には連座したメンバーとして「大曾祢上総前司」の名が見られ、既に亡くなった先代の長経ではあり得ないので、これが宗長であることが認められよう。

上総前司(=前上総守の意)という記載については、騒動までに上総介を辞していたとも受け取れるし、死後のためそう書かれた可能性もあるが、いずれにせよ「大曾禰氏の世襲官職上総介に任官したのに、1周年を目前に霜月騒動で討たれた(前述職員表:細川重男氏)のであった。この時の享年はおおよそ30歳程度であったと推定される。 

 

(参考ページ)

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№95-大曾禰宗長 | 日本中世史を楽しむ♪

 

 

大曾禰長顕

長顕(ながあき)の詳しい生年は不明であるが、父・宗長との年齢差を考えれば、早くとも1270年代前半の生まれと考えられ、また父が亡くなった弘安8(1285)年までには生まれているはずであり、更に弟・長義がいたことを考えると、1270年代前半~1284年の生誕と思われる。

父が霜月騒動連座したことにより、大曾禰氏は一度没落という運びとなったが、『尊卑分脈』を見るとこの長顕は「太郎左衛門尉」を称し、世襲の職であった「上総介」にも任ぜられており、「元弘討死」という記載から鎌倉幕府滅亡に殉じていることが窺え、生前に復権を許されていたと考えられている*7

それまでの歴代当主と異なる点として、得宗から偏諱を受けた形跡がないが、「」の字は、秋田城介を継いだ安達時顕を連想させる。は恐らく安達氏惣領となった時を烏帽子親にしたのではないか得宗を烏帽子親にしていないのは、元服復権前であり、具体的には不明であるが、父・宗長亡き後、弟の長義と共に、誰かしらの庇護下にあったからであろう。 

貞治3(1364)年9月11日の沙弥真季打渡状(『相馬文書』)によれば、奥州管領・斯波直持に従ってこの方面を転戦した軍功によるものか、相馬胤頼(讃岐守)が「出羽国下大山庄内漆山郷,大□□(曽禰)内門田・飯沢・前明□(石)」の下地を打渡されている。数十年経ってはいるが、「元弘討死」した長顕の旧領であろう。

 

(参考ページ)

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№96-大曾禰長顕 | 日本中世史を楽しむ♪

 

 

庶流の人物

大曾禰盛経

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長泰の弟。「盛」が祖父・安達盛長に由来する字であるから、「経」が烏帽子親からの偏諱と考えられる。

吾妻鏡』での初見は、嘉禎2(1236)年8月4日条「大曾禰太郎兵衛尉 同次郎兵衛尉」。暦仁元(1238)年2月17日条にも「大曾禰太郎兵衛尉 同次郎兵衛尉」、暦仁2(1239=延応元)年1月2日条「大曾禰太郎兵衛尉長経〔ママ、長泰の誤記〕 同次郎兵衛尉盛」とあることから、前述の長経とは異なり、北条経時執権期以前から「経」字を与えられていたことが分かる。これは第4代将軍・藤原頼九条頼経からの偏諱と考えるべきなのだろう。

 

ここで注目すべきは、兄・長が執権・北条時の偏諱を受けて「太郎」を称したのに対し、弟の盛は将軍・九条頼偏諱を受けながらもそれに次ぐ「次郎」を名乗っているということである。長泰が嫡流を継承したことは確実で、北条氏得宗家が特定の御家人嫡流との結合のみに烏帽子親子関係を利用したという紺戸淳の説が決して間違いではないことが窺えよう。

この時期においては将軍を烏帽子親にするよりも、執権・北条氏と烏帽子親子関係を結んだ者の方が格上、という風潮が広まっていた可能性がある。北条経時・時頼兄弟を除き、頼経は他の御家人庶子に対して一字付与を行うことで、反執権派の形成を図っていたのかもしれない。 

 

 

大曾禰長頼

盛経の子。「長」が大曾禰氏における通字であるから、「頼」が烏帽子親からの偏諱と考えられる。

吾妻鏡』での初見は、康元元(1256)年1月11日条「大曾禰左衛門尉太郎長頼」とされる*8。名は「大曾禰左衛門尉」の「太郎」を意味しており、「太郎」という無官の通称名から、元服よりさほど経っていない段階であったと判断される。北条時頼執権期での元服であったことは確実と思われ、その期間において「」の偏諱を許されているから、長は時の烏帽子子であったと考えられよう。将軍・頼経の1字を受けた父と異なり、息子の長頼は得宗による一字付与の統制下に入ったとも捉えられる。 

文応元(1260)年正月1日条より「大曾禰大郎左衛門尉」、同月11日条にも「大曾禰大左衛門尉長頼」とあって、前年末までの左衛門尉任官が確認できる。

長頼の系統は「頼」を通字とするようになり、その後は「頼泰―頼方」と続いた(冒頭系図参照)

 

 

大曾禰義泰

長経の弟で、1233年以後の生まれであろう。通称は「上総三郎左衛門尉」。 

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こちら▲の記事で、泰は弟の実と共に安達宗家当主・安達義景偏諱を受けたのではないかと推測した。

弘安7(1284)年には傍流でありながら引付衆となった*9が、同年4月の時宗死去に伴って出家している法名:覚然)。その傍証として翌8年12月2日付「霜月騒動聞書」に「上総三郎左衛門入道」が含まれていることが挙げられる。すなわち、義泰は甥の宗長と共に安達氏宗家に殉じたのであった。 享年は50歳前後であったと推定される。

 

(参考ページ)

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№97-大曾禰義泰 | 日本中世史を楽しむ♪

 

 

大曾禰景実

長経・義泰の弟。義泰と同様に安達義の一字拝領者と思われる。

吾妻鏡』には弘長元(1261)年に3回登場する*10が、それ以外の活動や生没年などの情報は不明である。

 

大曾禰盛光・景泰

いずれも義泰の息子だが、光の「盛」は安達宗家当主・安達泰からの偏諱、景泰の「景」も安達本家(安達宗景か?)から1字を受けたものではないかと思われる。大曾禰氏の中でも、この義泰系は安達氏宗家と継続的に烏帽子親子関係を結んでいたことになる。

 

 

脚注

*1:『角川地名大辞典』「大曽禰荘(中世)」解説ページ より。

*2:吾妻鏡』建久元(1190)年1月3日条、9月15日条、11月7日条、同4(1193)年3月13日条。

*3:吾妻鏡』建保元年5月7日条、9月12日条。

*4:この時期も含め、出家前の安達盛長は一貫して「藤九郎盛長」と呼ばれており、通称名は藤九郎の「次郎(=次男)」の意である。尚、盛長は無官のまま出家し「藤九郎入道蓮西」等と呼ばれた。

*5:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション を参照。この場合、1213年の生まれとなる。

*6:年代記弘安8年(外部リンク)も参照のこと。

*7:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.55、P.74 注(11)。

*8:先立って建長4(1252)年11月11日条にも「大曾禰左衛門大郎長頼」とあるが、『吾妻鏡人名索引』によると、これは長経の誤りであるという。

*9:注7前掲細川氏著書 P.54、および 巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.97「大曾禰義泰」の項 より。

*10:正月1日条「上総四郎」、同月7日条「同(上総)四郎」、8月15日条「上総四郎」。通称名は当時の「上総前司(前上総守)」=長泰の「四郎(四男)」を表すものである。