Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

町野宗康

町野 宗康(まちの むねやす、生年不詳(1250年代後半か)~没年不詳*1)は、鎌倉時代中期から後期にかけての官人。町野氏の祖・三善康持の子で三善(町野)政康の弟とされる。息子に町野信宗町野信顕か。官途は左衛門尉、但馬守。三善宗康(みよし ―)とも。

 

 

宗康に関する史料

宗康の実在が確認できる史料群は、細川重男の研究*2で纏められており、まずは以下に列挙しておきたい。

 

【史料1】『関東評定(衆)伝』弘安6(1283)年条:6月「左衛門町野備後 尉三善宗康」が引付衆の一人に加えられる*3翌弘安7(1284)年条でもメンバーの一人として同じ記載があり、在職が確認できる。

 ★この間に上洛し、六波羅評定衆に転じたか。

【史料2】永仁4(1296)年7月16日付「六波羅問状案」(『三浦家文書』37 所収)

【史料3】嘉元元(1303)年9月18日付「六波羅施行状」(『東寺百合文書』数)*4:貼紙に「六波羅施行 弓削和与 奉行但馬前司

【史料4】『実躬卿記』嘉元3(1305)年4月27日条*5:「去廿三日子刻、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了……(中略)……且此趣以丹後前司茂重但馬前司宗康等 奏聞、両使馳向今出川*6申入云々

…… 所謂「嘉元の乱」の序盤として連署北条時村が殺害された件について六波羅評定衆長井茂重*7とともに使者として関東申次西園寺公衡の邸宅へ馳せ向かった。

【史料5】『実躬卿記』嘉元4(1306)年10月17日条*8:「又去十三日所差進両使 貞重 宗康、参会彼飛脚之条、勿論歟

…… 同年正月13日に関東の飛脚が齎した北条貞時の母・潮音院尼卒去の情報を、六波羅評定衆長井貞重(茂重の甥)とともに使者として関東申次である公衡に伝達。

【史料6】(元徳元(1329)年)9月21日付「沙弥崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*9:「文つくへ(机)・文台等を造物ハ、但馬前司宗康辺候き。加賀前司(=町野信宗)存知もや候らん。内ゝ可有御尋候也」

 

 

生年と烏帽子親の推定

時宗と宗康の烏帽子親子関係

ところで、細川氏は三善(町野)康・がともに三善康持の子で、各々の実名が北条(7代執権)北条時(8代執権)偏諱を受けたものと推測されている。【史料1】は時宗の晩年期間にあたり(1284年4月に逝去)、在世中に他でもない「」の字が許されているから、時宗と宗康は烏帽子親子関係にあったと判断されるが、本節では生まれた時期(年)をある程度絞り込みながら、その正確性を裏付けていきたいと思う。

 

まず、康持と政康の父子関係については、『関東評定伝』建治元(1275)年条引付衆の一人「民部大夫町野備後  三善政康」の注記に「前備後守康持」と明記されることから認められる。そして、これと同書である【史料1】の宗康にも同じ「町野備後」の傍註があることから、細川氏宗康が政康に同じく康持の子で、引付衆就任の順番や年代から、政康の年の離れた弟であったと説かれたというわけである*10

同氏は、康信流三善氏一門での受領(国守)任官年齢について、30歳(数え年、以下同様)信濃守となった太田時連を除けば、40歳前後かそれ以上であったと説かれており*11宗康も【史料3】当時40代以上であった可能性が高い。逆算すれば生年は1260年以前であったと導ける。

ここで、『吾妻鏡』正嘉元(1257)年10月26日条を見ると父の「前備後守従五位上三善朝臣康持」が52歳で亡くなったとの記述があり(逆算すると建永元(1206)年生まれ)この時までに政康・宗康兄弟は生まれていたと考えるべきである

細川氏のまとめ*12によると康持の昇進歴は次の通りである。

  • 貞永元(1232)年12月15日:27歳で民部少丞・左衛門尉・叙爵(※民部丞で叙爵=五位以上になると「民部大夫」と呼称される)
  • 寛元2(1244)年5月15日:39歳で備後守

よって、宗康が父・康持の没年に生まれたと仮定した場合でも【史料1】当時27歳で左衛門尉に任官済みであったことになり、任官年齢は父と同様であったと判断できるだろう。よって、宗康の生年は1257年から大幅に遡らない時期=1250年代後半であったと推定される

元服は通常10代で行われたから、1266年に京都に送還された6代将軍・宗尊親王から一字を拝領した可能性はほぼ無いと言って良く、康の「宗」は宗尊の烏帽子子でもある得宗・北条時から賜ったものと考えて間違いない。

父・康持が一度宮騒動で反執権側(4代将軍・九条頼経派)について失脚した経緯もあり、町野氏は執権・北条氏に従順な姿勢を見せる一環として、政康宗康の加冠役を北条氏に願い出たものと思われる。

 

兄・町野政康についての考察

付論となるが、細川氏の情報*13に頼りながら、兄・政康についても考察しておこう。

前述の『関東評定伝』建治元(1275)年条には官職歴や死没についての記載もあり、それによると正応2(1289)年に77歳で亡くなったとあり、逆算すると建保元(1213)年生まれとなる。しかし、細川氏もご指摘のようにこれだと父・康持の生年(前述参照)から僅か7年後となってしまい、親子として不自然である。『関東評定伝』では他にも三浦泰村(実際は44歳没)の享年を64と誤る例があるので、政康の享年77も信ずる必要性は無いと思う。

細川氏が別途ご紹介のように、政康(のち康永か)の子・康行を祖とする九州問註所氏系図である『問注所町野氏家譜』(『問注所文書』)に「正応三庚寅年九月十七日康永 年六十 始政康ト云」とあり、同様に逆算すると寛喜3(1231)年生まれとなる。康持26歳の時の子となり、まだこちらが正しい可能性が高い。

『関東評定伝』による政康の官職歴は以下の通りである*14

  • 文永2(1265)年3月20日:民部少丞(4月12日に叙爵=民部大夫
  • 弘安8(1285)年5月22日:加賀守

1231年生まれとした場合、35歳で民部少丞、55歳で加賀守に任官したことになるが、康俊(41歳で民部少丞、63歳で加賀守)*15康持(27歳で民部少丞および叙爵、39歳で備後守:前述参照)と、他の御家人に同じく任官年齢が低年齢化してきていたのが、政康の代になって任官のタイミングが遅くなっていることになり、不自然に感じる。

すなわち『問注所町野氏家譜』に記載の享年60も、筆者は信憑性に疑いを持たざるを得ないのであり、実際は父と同様に文永2年当時20代、弘安8年当時40歳位だったのではないかと思う。政康の実際の生年は早くとも1240年頃だったのではないか

泰村の父・三浦義を烏帽子親として元服し「村」の字を受けた北条政は、既に北条時村(時房の子)元服済みで同名を避けるためか、もう片方の字に祖父・北条時政に由来すると思しき「」の字が当てられた。一度は伊賀氏の変で執権に担ぎ上げられたが、長兄の3代執権・泰時以降の歴代執権に従い、幼少の時宗が成長するまでの中継ぎとして、文永元(1264)年8月5日に60歳で7代執権に就任。同5(1268)年3月5日に連署時宗と互いにポジションを入れ替わる形で執権の座を譲った*16

村が執権の座にあった1264~1268年の間に康が元服したのだとすれば、生年は1250年頃にまで下るのが妥当であろう。民部少丞任官・叙爵の年齢が10代とかなり低年齢化することになるが、加賀守には父・康持より少し早い35歳位での任官となるので、案外妥当なのかもしれない。この場合、宗康とは実はさほど年齢が離れていなかったということになる。

 

以上より、筆者の結論としてはとりあえず、加賀守任官当時、父と同じ39歳として1247年頃の生まれと推定しておきたい。元服が10代後半と少し遅めであれば、政村からの一字拝領も可能であり、民部少丞任官・叙爵当時19歳と下がり過ぎない程度になるかと思うが、検討の余地を残してはいるので、後考を俟ちたいところである。

 

宗康の子孫について

鎌倉幕府滅亡後、建武元(1334)年8月の『雑訴決断所結番交名』に、職員二番衆の一人として「 信宗 町野加賀前司(=町野信宗)」の名が見えており*17、同年9月11日*18・9月12日*19、翌2(1335)年3月12日*20・10月23日*21雑訴決断所から出された書状に「前加賀守三善朝臣」の署名や花押を据えている。

森幸夫はこの信宗鎌倉時代においても六波羅評定衆であったと説かれており*22細川氏もこの意見に同意の上で、元徳2(1330)年5月5日付「六波羅越訴奉行召文案」*23の発給者である六波羅越訴奉行「前加賀守」を信宗に比定されている*24

そして、前年のものとされる【史料6】において北条(金沢)貞顕(当時は前執権、出家して「崇顕」)六波羅探題北方の息子・北条(金沢)貞将に対し「文机・文台等の製作者は、故・宗康の周辺にあったから、加賀前司が存知しているであろう」と述べていることから、加賀前司信宗であり、康と信は「」字を共有する父子関係にあったと説かれている*25

この他、『光明寺残篇』元弘元(1331)年8月27日条*26には、元弘の変に伴う、六波羅比叡山攻めで「長井左近大夫将□〔監〕加賀前司」が西坂下方面の攻撃を指揮したと記されるが、各々長井高広町野信宗に比定されている*27。奇しくも【史料5】で「両使」であった貞重宗康の息子同士ということになる。

宗の「信」は祖先の三善康法名: 善信、宗康の曽祖父)から取ったものと思われ、細川氏は「信」字の共通から、『御評定着座次第』延文3(1358)年12月3日条の評定に出席した「町野遠江(町野信方)」が宗の息子ではないかと推測されている*28

 

他にも宗康の子孫と思しき人物が確認できる。

延元元(1336建武3)年4月「武者所結番交名」(『建武記』所収)を見ると、三番衆の一人に「三善信栄町野加賀三郎(=町野信栄)」、四番衆には前述の「  高広  長井因幡左近大夫将監」らと共に「 信顕 町野民部大夫(=町野信顕)」の名が見られる*29

信栄(のぶひで?)は三善姓であったことが明記されており、傍注にある通称は「町野加賀守」の「三郎(=本来は3男の意)」を表していると考えられるから、僅か2年前に雑訴決断所の職員であった「 信宗 町野加賀前司」の息子と考えて問題ないと思う。宗康の孫にあたる。

尚、『祇園執行日記』康永2(1343)年9月24日条に「町野加賀二郎 十九歳*30の名が見られ、逆算すると1324年生まれとなる。同じく前加賀守信宗の息子で、信栄の兄、もしくは「二」が「三」の誤記或いは誤写等であれば同人と考えられるが、いずれにせよ加賀三郎信栄も同世代であったと判断される。『花営三代記』応安元(1368)年正月28日条の「御硯 町野加賀民部大夫 問注所遠禅(=信方、遠江禅門の略記)代勤仕之、*31は加賀二郎、もしくは加賀三郎信栄が20代後半以上に達し民部大夫となった同人ではないかと思われる。

『師守記』康永3(1344)年5月17日条にある足利直義の熊野参詣の際の供奉人の一人「町野加賀彦太郎*32は世代的に信宗の孫にあたる可能性が高いだろう。

 

信顕(のぶあき)に関しては、前述の康持の例と同様であれば、1336年当時20代後半に達していた可能性が高い。そして、僅か8年後にあたることから、「室町幕府引付番衆注文」小峰城歴史館(白河集古苑)所蔵『白河結城家文書』)にある、康永3(1344)年の室町幕府引付衆三番衆の一人「町野但馬民部大夫」も同人と判断され*33、受領任官相応の40歳程度にはまだ達していなかったと考えられる。よって、生年は1310年頃であったと判断される。

その通称名から「町野但馬守」の息子或いは子孫であったと判断されるが、町野氏での但馬守とは、確認できる限り宗康にしか該当し得ないと思うので、宗康の直系子孫であることは間違いないだろう。年齢差を考慮すると、孫とするよりは息子であったと判断して良いと思う。先に国守任官を果たしていた信宗よりは年少、すなわち弟であったと思われる。

 

脚注

*1:1306年(【史料5】)から、1329年(【史料6】)までの間であることは確かである。

*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.416 註(8) および 巻末 鎌倉政権上級職員表(基礎表)No.190「町野宗康」の項。

*3:群書類従 第60-62冊(巻49上-50) - 国立国会図書館デジタルコレクション

*4:『鎌倉遺文』第28巻21653号。

*5:『実躬卿記』〈大日本古記録本〉第十五下 P.60

*6:今出川第は、公衡の高祖父・公経の代に造営され、それまでの一条第から移って以後西園寺家の主たる邸宅としていた場所である。詳しくは 山岡瞳「鎌倉時代の西園寺家の邸宅」(所収:『歴史文化社会論講座紀要』14号、京都大学、2017年)や 寝殿造6.2.2 鎌倉時代の寝殿造・西園寺家今出川殿 を参照。尚、山岡氏論文 P.40によると、公衡は当初から父・実兼と共に今出川第に居住し、正安元(1299)年に実兼が出家して北山第に移って以降も同所に残って居住していた(すなわち亭主であった)という。

*7:長井泰重の子で頼重の弟。上山宗元長井宗衡兄弟の父でもあり、この頃も存命であったことが窺える。

*8:『実躬卿記』〈大日本古記録本〉第十七 P.270『実躬卿記』17(国立公文書館デジタルアーカイブ)P.15

*9:『鎌倉遺文』第39巻30733号。

*10:注2前掲細川氏著書 P.418 および 基礎表 No.190「町野宗康」の項 より。

*11:注2前掲細川氏著書 P.414 註(3)。

*12:注2前掲細川氏著書 基礎表No.188「町野康持」の項。

*13:注2前掲細川氏著書 P.416 註(7) および 基礎表 No.189「町野政康」の項 より。

*14:注2前掲細川氏著書 基礎表 No.189「町野政康」の項。

*15:注2前掲細川氏著書 基礎表 No.187「町野康俊」の項 より。

*16:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その45-北条政村 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*17:『大日本史料』6-1 P.753

*18:『大日本史料』6-1 P.719

*19:『大日本史料』6-1 P.785786

*20:『大日本史料』6-2 P.329

*21:『大日本史料』6-2 P.659

*22:P.37。

*23:『大日本古文書』家わけ第九「吉川家文書之二」P.308~309 一一四三号

*24:注2前掲細川氏著書 P.417 註(10)。

*25:注2前掲細川氏著書 P.418。

*26:群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

*27:注2前掲細川氏著書 P.417 註(10)。

*28:注2前掲細川氏著書 P.419。尚、同書の応安6(1373)年正月12日条にある「町野遠江入道真勝」は恐らく出家後の信方であり、御硯役の「町野掃部助信兼」は信方の息子ではないかと思われる。

*29:『大日本史料』6-3 P.332北本市史| 北本デジタルアーカイブズ

*30:『大日本史料』6-7 P.967

*31:『大日本史料』6-29 P.101

*32:『大日本史料』6-8 P.252256

*33:『大日本史料』6-8 P.177康永三年 室町幕府引付衆 より。尚、本文中の「町野加賀彦太郎」と同じく足利直義の熊野参詣供奉人の一人「町野但馬民部大夫」(→『大日本史料』6-8 P.253257康永三年五月 足利直義熊野御参詣供奉人)も信顕に比定されよう。