Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

武田信政

武田 信政(たけだ のぶまさ、1196年~1265年)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将、御家人甲斐武田氏第3代当主。

 

信政の元服について、『諸家系図纂』での注記には次のように書かれている*1。 

……元久元年十一十五首服、加冠平時政、理髪三浦介、号小五郎、年十、信光三男也、請加冠諱字、既為嘉例也……

加冠役(=烏帽子親)を務めた「平時政」は、元久元(1204)年当時、初代の執権の座にあった北条時政で間違いないだろう*2。その名前からして、時が武田信に「政」の偏諱を下賜したことが窺える*3

 

吾妻鏡』では次の3箇所に登場するとされる*4

 建久6(1195)年8月16日条「武田小五郎」

 承久元(1219)年7月19日条「武田小五郎」

 同3(1221)年6月5日条「武田五郎 同小五郎」

 

については、承久元年正月27日条、同3年6月24日条などに「武田五郎信光」とあることから、この時期の「武田五郎」=信光と分かる*5で明らかな通り、五郎信光と区別されて「小五郎」と呼ばれる人物は信政に比定される(『尊卑分脈』)。 

父の信光は応保2(1162)年生まれと伝わる*6。一方で信政の母は、新田義重(1135~1202)*7の養女となった、源義平(1141~1160)*8の娘であったと伝わる*9。同様に親子の年齢差を考慮すれば、義平が刑死した時、その女子は生まれたばかりの幼児であっただろうから、これを義重が引き取って養育したと考えられよう。すなわち、夫となる信光とはほぼ同世代人だったことになる。 

従って、現実的な親子の年齢差を考えれば、1182年頃より後の生まれであることは間違いない。但し『尊卑分脈』以下の系図類で見られるだけでも、信政には太郎朝信*10悪三郎信忠(のち高信)といった兄がおり「五郎」という輩行名の通り5男であった可能性が高い*11ので、もう少し下らせて早くとも1180年代後半、或いはこれ以後の生まれと判断できる。

 

するとの段階では若くとも10歳前後の年齢となるので、この時までに信政が元服していたとは考えにくく、の「武田小五郎」が信政ではないことは確かであろう。よって、冒頭に掲げた生年 および 元服の時期は信用して良いと判断される。その場合、の段階で信政は生まれてすらいなかったことになるが、『尊卑分脈』以下の系図類で「武田小五郎」と書かれるのは信政のみである。恐らく①は「武田五郎」の誤記なのではないか。①の部分は父・信光のことではないかと思われる。

 

脚注

*1:『大日本史料』5-27 P.257『史料稿本』亀山天皇紀・文永2年正月~2月 P.16。また、高野賢彦『安芸・若狭武田一族』(新人物往来社、2006年)P.28 でも言及されている通り、「甲斐信濃源氏綱要」でも同内容の記載がある(→ 系図綜覧. 第1 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照)。

*2:北条氏は桓武平氏平維時の末裔を称する家柄である(『尊卑分脈』)。

*3:注1の『甲斐信濃源氏綱要』より父・信光に至るまでの元服に関する記述を抜き出すと次の通りである。

源義光新羅三郎、刑部少輔)

源義清:寛治元年十一月十五日首服(歳十三)、加冠伯父義家、号刑部三郎

源清光:大治元年正月十一日元服(歳十五)、加冠足利加賀介義国、号武田源太

武田信義:保延六年正月十六日、元服於洛陽(歳十三)、加冠六条判官為義、号名信義、字武田太郎

武田信光:承安三正十一首服(年十二)、加冠遠光、号石和五郎

信義までは親戚間で烏帽子親子関係が結ばれたようで、ほぼ源氏嫡流筋の人物が加冠役(=烏帽子親)を務めている。当該期は偏諱を授けるという慣習はまだ定着していなかった段階らしく、「義国清光」はまさにその例外に当てはまっているが、信義の場合、「義」の字は祖父・義清までの通字(頼義義光―義清)を用いたという見方もできる一方、父・清光が「義」字を用いておらず、信義自身が烏帽子親・源為義と同じ「○義」型の名乗り方をしていることからすると、「義」は為義からの偏諱と考えることもできるだろう。

少なくとも「信」の字が烏帽子親・源為義偏諱でないことは明らかだが、この字は祖先・源頼信(頼義の父)に由来するものであろう。同系譜に従えば、以降、この「信」を通字として、信光は叔父・加賀美遠光を、信政から信宗にかけては鎌倉幕府執権・北条氏を烏帽子親としてその偏諱を受けた形跡がみられる。

*4:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(第5刷、吉川弘文館、1992年)P.260「信政 武田」の項より。

*5:吾妻鏡人名索引』P.258「信光 伊沢(武田)」の項 より。

*6:武田信光(たけだ のぶみつ)とは - コトバンク より。『諸家系図纂』・『甲斐信濃源氏綱要』の両系図には応保2年3月5日に甲州石和で生まれたとあり(→『大日本史料』5-27 P.268)、承安3(1173)年正月11日の元服当時12歳(→『大日本史料』5-27 P.268~269)および 宝治2(1248)年当時の享年数え87(→『大日本史料』5-27 P.251)から逆算しても矛盾はない。信光の没年については『一蓮寺過去帳』にも記載があって裏付けられる(→ 同前P.251)。

*7:新田義重(にったよししげ)とは - コトバンク より。

*8:源義平(みなもとのよしひら)とは - コトバンク より。

*9:『大日本史料』5-27 P.257

*10:信光の長男・朝信(黒坂朝信)の「朝」字については、注1前掲高野氏著書 P.28において、源頼朝からの偏諱と推定されている。

*11:冒頭に掲げた『諸家系図纂』で「信光三男」とするのは無事成長できた男子の中で朝信・信忠に次ぐ3番目であったことによるものであろう。信政の次男・4男はともに夭折していたのかもしれない。