Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

武田信宗

武田 信宗(たけだ のぶむね、1269年~1330年)は、鎌倉時代の武将、御家人甲斐源氏武田氏第6代当主。父は武田時綱、母は名越朝時の娘と伝わる。通称は孫六

 

 

f:id:historyjapan_henki961:20190318165748p:plain

(*画像は 武田家伝来の遺品 写真集 より拝借)

  

北条時宗の烏帽子子

『甲斐信濃源氏綱要』*1(以下『綱要』と略記)に掲載の武田氏系図での注記によれば、文永6(1269)年8月1日に甲府の館にて生まれ、建治3(1277)年11月11日、当時9歳(数え年、以下同様にして、鎌倉において当時の執権・北条時を烏帽子親として元服、「」の偏諱を与えられてと名乗ったという*2

これを採用したのか、『系図纂要』にもわざわざ「建治三年十一ノ_元服北條時宗加冠號信宗」と注記しており、それまでの当主「信―信綱」の名乗りと照らし合わせても代々北条氏得宗偏諱を受けたことに疑いはないから、信憑性は認められると思う。信政・信時・時綱3代の『吾妻鏡』登場年代から言っても妥当であり、逆に否定し得る史料は皆無である。ちなみに注記は少なめだが『尊卑分脈(以下『分脈』と略記)の武田氏系図でも系譜は同じである*3

尚、北条・武田両氏の場合は、武田信義以来の「信○」型の名乗りが原則として重んじられたのか、「時→信」「泰→信」「頼→綱」といったように同じ位置で偏諱を共有しており、時綱の嫡子・信が再び得宗からの偏諱を下(2文字目)にしているのもそのためではないかと思われる。引き続き得宗からの1字を許されたことが重要なのであって、「時―信」の一字共有は、両氏の対等で良好な関係を示しているものと解釈し得る。元々時宗と信宗は、血縁上でもはとこ(又従兄弟)の関係にあった(信宗の外祖父・北条(名越)朝時と時宗の外祖父・北条重時がともに北条義時の息子で同母の兄弟)

 

 

流浪時代の信宗(伝承)

しかし、信宗の嫡男・信武以降は得宗(貞時―高時)偏諱を受けた形跡が無い。『綱要』によれば、信武は正安3(1301)年正月11日に「祖社に於いて」元服したというが、烏帽子親については書かれておらず、仮に「」の1字を与えた人物だとしても該当し得る者は思いつかない*4。また同じく『綱要』によれば、信武の子・足利貞の加冠により元服したといい、信宗・信武父子の時に何かしらの変化があったと推察される。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

一方、得宗被官(御内人)化した、信時の弟・武田政綱の系統では、政綱の子・信家が「」と改名し、その子もと名乗り、得宗「時時」の偏諱を受ける家系がこちらに移った様子が窺える。 historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

ここで、『系図綜覧 第一』所収「武田源氏一流系図」を見ると、信宗の傍注には次のように書かれている*5

相伝十二代、伊豆守〔ママ〕甲斐両国守護、与一族若州守護有鉾楯之事、没落流浪。到武州瀧山、逢修行々人。尋覓楯旡(楯無)後、再還住本国。件行人還俗云々。」

これによれば、信宗若狭国守護であった一族の者と争いをして没落、流浪の末に武蔵国滝山(現・八王子市)で修業僧に出会い、やがて甲斐国に帰還を果たしたという。武田氏の一族が若狭守護職を拝命したのは、永享12(1440)年に将軍・足利義教から任命された武田信栄(信宗―信武―氏信―信在―(信守―)信繫―信栄)の時であり*6、信宗と争ったという同族の者については不詳だが、同系図には信時・政綱の弟である六郎信綱(のぶつな)の注記に「若狭武田之祖」とあり、『分脈』には信綱の息子として又六長綱(ながつな)六郎三郎信広(のぶひろ)を載せるので、そのいずれか或いはその息子に当たるのかもしれない。いずれにせよ、信時流武田氏(信宗)は一族との争いで一旦没落してしまい、得宗被官でもあった政綱流武田氏(宗信)が代わって勢力を伸ばしたものと思われる

没落後の信宗については『甲陽軍鑑 品第十七』に書かれており、概要は次の通りである*7

小山田弥三郎信茂〔ママ〕は、信玄公より十一代前の武田殿より甲州都留郡をもらい受けて在城している。小山田の先祖は修行僧であった。この頃の武田殿は浪々の身であり、武蔵国滝山でその修行僧に出会った。修行僧は、その方(ほう)はどこの人かと尋ねられたので甲州の者ですと答え、何事でもご奉公、走り回りをいたしますと申し出た。

そこで武田殿甲州塩の山の後ろの大杉の根元に御旗・楯無を隠し置いたので取ってきてほしいと申された。修行僧は急いで甲州へ参り、を取って進上した。そのとき武田殿は本意を遂げて甲州へ入国できたならば、都留郡を永代にわたり修行僧に下さると約束をされた。その翌年、武田殿は本意を遂げられたので彼の修行僧を小山田になされ、更に信の字を下さった」

武田信玄より11代前(信玄〈晴信〉自身もカウントに含める)の「武田殿」は、前述した系図類により信宗に一致し、前述の「武田源氏一流系図」での注記の内容とも一致する。武蔵滝山で出会った修行僧はやがて還俗し、宗から「小山田」の姓と「」の偏諱を与えられたという。

小山田氏の始祖は桓武平氏の流れを汲む秩父重弘の子・小山田有重とされ、その息子・稲毛重成(三郎)榛谷重朝(四郎)元久2(1205)年6月、従兄弟の畠山重忠連座して没落している(『吾妻鏡』)。この時、弟の小山田行重が運命を共にしたかは明らかにされておらず、僅かに『承久記』に山田太郎の名は見えるものの、系譜は不明である*8。史料上に現れないことからすると、鎌倉時代前期に断絶し、信宗と出会った修行僧がその名跡を再興した可能性もある。応永元(1394)年になると小山田信澄が所領を寄進したことが『妙法寺記』に見えており、信茂に至るまで甲斐武田氏の家臣として「信」字を許されていたのではないかと思われる*9が、本題から逸れてしまうため、このあたりの詳細については、丸島和洋の著書*10に委ねたいと思う。

 

前述したように息子の信武が甲斐で元服を遂げたと伝えられるから、正安3年までには帰国したと思われる。また鎌倉時代末期の金沢貞顕法名:崇顕)の書状に、信武と思われる「武田彦六」が登場し*11元弘の乱に際しても幕府側として上洛している*12から、鎌倉時代後期の武田氏が鎌倉とさほど遠くない甲斐に在国していたことは認められよう。 

 

 

没年について

『綱要』によると、元応2(1320)年12月11日52歳で剃髪し「光阿」または「向阿(恐らくは前者が正確)と号し、 元徳2(1330)年11月9日に享年62で卒去したという。 

ameblo.jp

こちら▲の記事には「『常楽記』に1330年11月9日、信宗没と見える。しかし1331年に楠正成の赤坂城攻撃軍の中に武田三郎と武田伊豆守があり、武田三郎は政義、伊豆守は信宗と考えられている。」とある。『常楽記』で同日条を確認してみると「諏訪遠江入道」なる人物の死去となっており*13、恐らくは『綱要』と混同したものと思われる*14が、先行研究では1330年に亡くなったと決めつけるのは誤りとされてきた*15。 

 

ちなみに、1331年の史料というのは『伊勢光明寺文書残篇』にある元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」*16のことであり、大仏陸奥守貞直を大将とする軍に「武田三郎」が、江馬越前入道を大将とする軍に「武田伊豆守」の名が見られる。

この「武田伊豆守」が信宗とされた背景には、『分脈』に「伊豆守」とあることに加え、『甲斐国志』(江戸時代・1814年成立)に「興国六年(康永四年。一三四五)天龍寺供養のとき先陣随兵に伊豆守また伊豆前司と二人あり、このとき前司というは信宗に当たるべし」と記述されている*17のが影響しているのではないかと思われる。

しかし、『参考太平記』によると毛利・北条・金勝院・南都の各本『太平記』および今川本の27巻では「武田伊豆前司信武」と記すようで*18、また実際の史料である『伊勢結城文書』にも「武田伊豆前司 信武」と明記される*19ことから、天龍寺供養における「伊豆前司」は嫡男・信武と判明する。よって、単に江戸時代当時の見解を記したに過ぎない『国志』での記述は否定され、元弘元年の「武田伊豆守」=信宗 の信憑性にも疑いが生じる。この「武田伊豆守」が武田信貞に比定し得ることは次の記事を参照のこと。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

尚、山梨県甲府市にある法泉寺(法泉禅寺)は、1330年信武が亡くなった父・信宗の菩提寺として創建したのに始まると伝えられ*20、これと整合性が取れることから、『綱要』での信宗の没年は信用して問題ないのではないかと思われる。

元弘の乱では嫡男の兵庫助信武が元弘3(1333)年4月3日の四条猪熊の戦いに参戦する*21など、当初は幕府側で戦ったが、やがて足利高氏(のちの尊氏)に呼応して難局を乗り切ることとなる。

 

(参考ページ)

 武田信宗 - Wikipedia

 武田信宗画像|呉市の文化財 - 呉市ホームページ

 

脚注

*1:系図綜覧. 第一(国立国会図書館デジタルコレクション)所収。

*2:高野賢彦『安芸・若狭武田一族』(新人物往来社、2006年)P.56。

*3:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*4:武田氏と同族(源義光の子孫)にあたる南部氏では、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人物、御内人長崎思元の聟として南部武行が確認できる(→ 長崎思元 - Wikipedia #俗名、系譜、親族について を参照)が、その「武」字が信武の偏諱の可能性も考えられる。但し、信武と武行は遠戚関係にあるだけで、史料等により直接的な接点・交流は確認できていないため、これについては後考を俟ちたい。

*5:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.153。注2前掲高野氏著書 P.61~62。

*6:武田氏 - Wikipedia #若狭武田氏、および 注2前掲高野氏著書 P.91 より。

*7:注2前掲高野氏著書 P.59~60より引用。

*8:武家家伝_小山田氏 より。

*9:信澄以降の系譜については前注HPを参照のこと。

*10:丸島和洋『郡内小山田氏』〈中世武士選書19〉(戎光祥出版、2013年)。

*11:元徳2(1330)年のものとされる正月7日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』、『鎌倉遺文』第40巻31118号)の文中に「…武田彦六も、只今入来候之間、…」とある。

*12:元弘3(1333)年4月3日の四条猪熊の戦いを描く『太平記』巻8「四月三日合戦事付妻鹿孫三郎勇力事」に登場の「武田兵庫助」が信武に比定される。これについては【論稿】鎌倉時代後期における「武田伊豆守」について - Henkipedia および 武田氏信 - Henkipedia を参照。

*13:『常楽記』元徳2年条

*14:『史料綜覧』後醍醐天皇紀・元徳2年8~12月 P.43

*15:注2前掲高野氏著書 P.57。

*16:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*17:注2前掲高野氏著書 P.60 より引用。甲斐国志. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*18:『大日本史料』6-9 P.312

*19:『大日本史料』6-9 P.284

*20:法泉寺 (甲府市) - Wikipedia(典拠は『甲斐国志』)。法泉寺由緒法泉寺と武田家(いずれも法泉寺の公式ホームページ内)および 注2前掲高野氏著書 P.60 より。

*21:注12参照。