Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

武田時隆

武田 時隆(たけだ ときたか、生年不詳(1230年代?)~没年不詳(1263年以後))は、鎌倉時代中期の武将、御家人。父は武田信隆(のぶたか)。子に武田宗光。通称は七郎二郎(七郎次郎)

 

 

岩崎流武田氏について

f:id:historyjapan_henki961:20210520021802p:plain

父・武田信隆

上図に掲げた『尊卑分脈(以下『分脈』と略記)を見ると、(黒坂)太郎朝信悪三郎信忠小五郎信政(一条)六郎信長に次ぐ武田信光の子として七郎信隆が載せられ*1、「号岩崎」の注記があるように岩崎氏を称したという。数字(輩行名)の順に掲載されることから、「七郎」の仮名の通り信光の7男だったのであろう。

そして信隆の息子には、七郎政隆七郎二郎時隆七郎三郎信方岩崎五郎貞経が掲載される*2。政隆にも「号岩崎」の注記はあるものの、その子孫は武田を称しており、実際には貞経の系統が岩崎氏となったようである。

武田信隆(岩崎信隆とも)に関する史料としては、『吾妻鏡』寛元2(1244)年正月5日条にある御弓始の射手一番「武田七郎*3が信隆に比定される可能性がある*4。その他には、広島市安佐南区西原の「楊柳観音」に関する伝承や『長楽寺由来記』などによると、弘安6(1283)年に安芸国4郡(安南、安北、佐西、佐東)の地頭職を賜って下向したと伝えられるほか、安(やす)(現・広島市安佐南区高取北1丁目)の光明寺には正安2(1300)年に信隆が寄進した鰐口が保存されているという*5

*鰐口の刻銘として、片面には「夜珠円妙院毘盧遮那佛尊前」(夜珠は現在の地名「安」の旧表記)、その反対側には寄進者「武田駿河守信隆寄進之」、寄進年月「正安二歳(=年)庚子三月吉祥日」と彫られており、武田七郎信隆と同人であれば、信隆が駿河守任官を果たしていた可能性がある。

 

政隆流武田氏について 

武田政隆(まさたか)政嗣(まさつぐ)父子については特に史料上で確認できないが、政嗣の子・武田助政(すけまさ)については、元亨3(1323)年10月27日の北条貞時13年忌供養において「銭廿貫文」を進上する「武田八郎(『相模円覚寺文書』所収『北條貞時十三年忌供養記』)*6 および その約2年半後にあたる正中3(1326)年3月23日付「関東下知状」(『甲斐大善寺文書』)*7の文中に「武田八郎助政・同四郎三郎政泰」とあるのが確認できる。

「八郎」というのは『分脈』での注記「太郎四郎」と仮名が異なるが、『分脈』には助政の子・信助(のぶすけ)に「八郎次郎」の注記があり、父・助政が「八郎」を称していたことを暗示している。建武元(1334)年9月27日、後醍醐天皇の加茂神社行幸足利尊氏が供奉した際、「帯刀廿一番」の一番として「武田八郎次郎信明〔ママ〕」が随行している(『朽木文書』)*8が、同内容を記したと思われる「足利尊氏行幸供奉随兵次第写」(『小早川家文書』)で「汲兵」の筆頭にある「武田八郎次郎信助*9に同定されるから、『分脈』での記載通り武田信助は「八郎次郎」を称していた。

従って、父の助政は初め「七郎」政隆の"太郎(長男)"=「七郎太郎」である政嗣の"四郎(本来は4男の意)"として「太郎四郎」を称していたが、後に「八郎」に改め、息子の信助が「八郎次郎」を称したと見なされる。

 

尚、四郎三郎政泰については系図に見えないが、その仮名や「政」字を持つことからすると助政の弟・弥四郎隆盛の息子あたりが考えられようか。

その他にも、系譜不明であるが、嘉元2(1304)年の記録に見られるという「岩崎一分ノ地頭武田筑前守武政*10も同族とみられ、観応2(1351)年7月に上総国市原八幡宮別当職を醍醐寺の地蔵院僧正に渡すべく下地遵行を実施している武田七郎三郎資嗣(すけつぐ)*11も仮名や「嗣」字の共通からすると、この政隆流武田氏から出た人物の可能性が高いと思われる。

 

 

史料における武田時隆

信隆の次男・時隆に関する史料としては次の記事が挙げられる。

【史料】『吾妻鏡』弘長3(1263)年5月17日条

弘長三年五月小十七日丙申。天晴。鷺集于左典廐(=北条時宗御亭。頃之指永福寺山飛去。被卜筮之處。文元。晴茂。晴宗。泰房。頼房等。為口舌兆之由占申。爰武田七郎次郎追彼鷺。射殺之持参。入夜。依鷺恠被行泰山府君百怪白鷺等祭云云。

内容としては、得宗嫡子・北条時宗(当時は左馬権頭)の屋敷に集まってきた鷺が喧嘩口論の兆しだという占いの結果が出たので、「武田七郎次郎」がその鷺を射殺して持参してきたとのエピソードを載せる。通称は「武田七郎」の「次郎(次男)」を表しており、さほど年代が離れていないことから、寛元2(1244)年初頭に確認できる「武田七郎」=信隆(前述参照)の子・時隆に比定されよう*12。当時、既に適齢の10代前半を迎えて元服を済ませていたことも窺え、遅くとも1250年頃までには生まれている筈である。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

次に、こちら▲の記事で紹介の通り、嫡流を継いだ伯父・信政については建久7(1196)年生まれとされるので、その弟である信隆の生年は1200年代に入ってからであろう。そして信隆は、父・信光が亡くなる宝治2(1248)年までには生まれている筈である。『分脈』を見る限り、信隆には弟が複数いたようなので、前述の通り寛元2年の段階で元服済みだったとすれば、遅くとも1230年代の生まれであろう

系図綜覧』所収『甲斐信濃源氏綱要』(以下『綱要』と略記)でも『分脈』とほぼ同内容の記載が見られるが、追加の情報として信隆の注記に「本名(=初名)政平」とある*13のに注目である。この情報が正しければ、「政」の字は、兄・信政の烏帽子親を務めた翌年(1205年)に引退した北条時政というよりは、信政からの偏諱であった可能性が高い。逆に誤りだとしても、信隆の嫡男・政隆の「政」はやはり信政に関係するものと考えて差し支えないと思う。

信隆の息子の中で政隆と時隆が「隆」の字を継承している。ここで着目したのがもう一方の「時」の字である。

 <武田氏略系図2>

 信光信政信時時綱信宗―信武―氏信

   └ 信隆―時隆宗光信貞

父・信隆(政平)或いは兄・政隆が本家筋から「政」字を受けたのと同様に、時隆も信時または時綱から「時」字を受けた可能性は必ずしも否めない。これは子の宗光にも同様のことが言える。『綱要』によると、嫡流では信政から信宗までの4代に亘って代々得宗家当主を烏帽子親としてその偏諱を受けたという。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

historyofjapan-henki.hateblo.jp

しかし、宗光の子・の「貞」は年代からしても北条時からの一字拝領と推測されるから、それ以前の「隆―光」も得宗から直接一字を拝領したと考えるのがやはり自然だと思う。

光が北条時からの一字拝領だとすれば、隆は北条時宗の父)からの一字拝領であろう。前掲【史料】当時も得宗家当主・前執権として時頼法名: 道崇)は存命であり(同年11月に発病して22日に逝去)、その1字を許されていたとみられる。

仮に信隆が1230年代の生まれだとすれば、親子の年齢差を考慮して、時隆の生年は1250年代以後と推定可能である。仮に1250年とした場合【史料】当時は14歳という元服の適齢となって矛盾は無い。ただ、弓を鷺を射ることが出来る程の技量を持っていたことを考慮するならもう少し遡っても良かろう。恐らく隆が1230年代の生まれで、寛元4(1246)年から5代執権となっていた*14がその烏帽子親であったと推定しておきたい。 

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*3:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.505(通称・異称索引)より。尚、本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*4:http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.iwasaki.htm より。

*5:武田信隆と系図武田信隆寄進の鰐口光明寺

*6:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.708。

*7:『鎌倉遺文』第38巻29446号。

*8:『大日本史料』6-1 P.913

*9:『大日本古文書』家わけ第十一 『小早川家文書之二』P.169(二九四号

*10:http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.iwasaki.htm より。典拠は『甲斐国志』。

*11:『大日本史料』6-15 P.129小助官兵衛の部屋 #武田三郎信之 および 櫻井敦史「市原八幡宮と中世八幡の都市形成(2)」(市原市埋蔵文化財調査センター 研究ノート24)第2項-4-①「観応2年から文和3年(1351~1354)にかけての相論」より。

*12:前掲『吾妻鏡人名索引』P.216「時隆 武田」の項より。

*13:系図綜覧. 第1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。