Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

曾我時致

曾我 時致(そが ときむね、1174年~1193年)は、鎌倉時代初期の武将。

 

月岡芳年 画「芳年武者旡類 五所五郎丸 曽我五郎時宗〔ママ〕」(国立国会図書館所蔵)

http://www.photo-make.jp/hm_2_1/minamoto_soga.html より拝借)

 

通称は「曾我五郎」。兄・曾我祐成(曾我十郎)と共に父親河津祐泰の仇である工藤祐経を討った "曾我兄弟の仇討ち" 事件で知られる。この時致の元服については次の史料が残されている。  

史料:『吾妻鏡』より

建久元年九月大七日戊午。甚雨。入夜故祐親法師孫子祐成 号曾我十郎 相具弟童形 号筥王 参北條殿。於御前令遂元服。号曾我五郎時致

建久元(1190)年9月7日、曾我十郎祐成(故・伊東祐親法師の孫)が弟・筥王を連れて北条殿(=北条時政)の所に参り、筥王は政の御前で元服を遂げて、曾我五郎と名乗った。その名前からして「」の偏諱が与えられたことが分かる。

「時致」については異説として「時宗」と伝える史料がある*1ぐらいなので、「ときむね」と読んで良いだろう。

 

▲2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』22話より。左から 曾我五郎時致、曾我十郎祐成、五郎の烏帽子親・北条時政

 

(参考記事) 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

脚注

*1:冒頭に掲げた挿絵のほか、『尊卑分脈』〈国史大系本〉の系図上では「時宗」、「南家 伊東氏藤原姓大系図」の時致の項にも「五郎幼名筥王 イ宗」の注記があるなど、こちらの表記も多数見られる。