安達義景
安達 義景(あだち よしかげ、1210年~1253年)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。
詳しい生涯・活動内容については
を参照のこと。本項では名乗りに関する内容を扱う。
義景の元服と名乗り
「義景」の名乗りは、「景」が父・安達景盛から継いだものであるから、上(1文字目)に頂いていることからしても「義」の字が烏帽子親からの偏諱と考えられる。
次の史料により義景が建長5(1253)年に44歳(数え年)で亡くなったことが分かる*1ので、逆算すると承元4(1210)年生まれである。当時の執権は第2代・北条義時であり、義時が元仁元(1224)年6月13日に亡くなった*2時、義景は15歳と元服の適齢期であった。すなわち、この期間内に元服した可能性は高く、名乗りからしても義時から「義」の一字*3を拝領したと考えて良いだろう*4。北条義時と安達義景は烏帽子親子関係にあったと思われる。
義景の烏帽子子
義景はその後、執権が泰時~時頼の代に活躍した。この期間の御家人には何名か義景の偏諱を受けたと思われる人物が見られる。
まずは、先行研究で既にご指摘のある、宇都宮景綱である*5。これについては次の記事で扱った。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
すなわち、系図上では景綱の弟に位置づけられている宇都宮経綱が、実は宇都宮泰綱の当初の嫡男で、「経」の字も4代執権・北条経時から受けたものであるとし、景綱はそれに対する庶子(準嫡子)として北条氏と縁戚関係にあった安達氏の当主・義景を烏帽子親にした、ということを述べさせていただいた。景綱は義景の娘を妻に迎えている(『尊卑分脈』)。
他には、同じ安達氏一門、大曾禰長泰(おおそね ながやす)の庶子である 大曾禰義泰(よしやす)・大曾禰景実(かげざね) が候補に挙げられる。
次の【系図B】に示す通り、大曾禰氏(大曾根とも書く)は景盛の弟・時長の系統が称したが、「時長―長泰―長経―宗長」(『尊卑分脈』)と、安達盛長より続く「長」を代々の通字としていた。もう片方の字は北条氏得宗家からの偏諱であろう。
従って、安達宗家で景盛が最初に用いた「景」*7と、義景が北条義時から受けた「義」は、大曾禰氏には本来関係のない字だったのである。特に義泰 は「泰」が父・長泰からの継字であるから「義」が烏帽子親からの偏諱の可能性が高い。従って、義泰・景実の兄弟は宗家の安達氏と烏帽子親子関係を結んでいた、というのが結論である。
この2人は、長兄である大曾禰長経が1232年生まれ*8なので、これ以後に生まれたと考えるべきであろう。前述したように義景が亡くなったのは1253年で、1240年頃の生まれだとしても元服当時の安達氏当主であったと推測できる。
長泰の嫡男であった長経は、北条経時が4代執権に在職の間(1242~1246年)に元服し「経」の偏諱を受けたと判断できる*9ので、それに対する庶子であった義泰*10・景実*11もこの少し後に安達氏宗家当主の義景*12を烏帽子親として元服したと考えられる。
脚注
*1:『尊卑分脈』にも「建長五六三卒四十四」の注記がある。本項における『尊卑分脈』については吉川弘文館より刊行の国史大系本に拠っているが、同内容を載せる 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。
*3:この字(=義時に「義」字を与えた人物)について、細川重男氏は三浦氏(三浦義明 または 三浦義澄)からの偏諱ではないかと説かれている(細川氏著書『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.17 より)。
*4:福島金治 『安達泰盛と鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』(有隣新書、2006年)P.40。鈴木宏美 「安達一族」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』、八木書店、2008年)P.330。
*5:江田郁夫 「総論 下野宇都宮氏」(所収:江田氏編『下野宇都宮氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻〉(戎光祥出版、2011年))P.9。
*6:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。詳しい系図は注1リンクを参照。
*7:安達景盛については『尊卑分脈』に「或盛景」とも記されるが、『吾妻鏡』等で見られる名は前者である。「盛」が父・盛長からの継字であるから、「景」が烏帽子親からの偏諱であり、これを上(1文字目)に置いたと考えられる。景盛の生誕年・元服・烏帽子親について確かめられる史料は見つかっていないが、「景」を通字とする鎌倉氏一族(大庭・梶原・長尾等の各氏)からの一字拝領ではないかと思われる。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№94-大曾禰長経 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*9:『吾妻鏡』での初見は、建長3(1251)年正月11日条「大曾禰左衛門太郎長継〔ママ〕」、同4(1252)年4月14日条「大曾禰左衛門太郎長経」。
*10:『吾妻鏡』では16回登場。初見は正嘉元(1257)年正月1日条「大曾禰上総三郎義泰」、同年10月1日条からは「(上総)三郎左衛門尉義泰」の名で書かれているので、その間の左衛門尉任官が確認できる。晩年期の活動については、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№97-大曾禰義泰 | 日本中世史を楽しむ♪ を参照。
*11:『吾妻鏡』では、弘長元(1261)年正月1日条、同月7日条、8月15日条に「上総四郎」として登場。同年3月20日条にある「上総前司長泰」の「四郎(四男)」に比定されるから、『尊卑分脈』において「上総介 長泰」の息子で「四郎左衛門」と注記される景実と判断できる(→ 注1リンク参照)。
*12:『吾妻鏡』を見ると、安達景盛は宝治2(1248)年まで存命で事実上の惣領の立場にあったが、秋田城介となった翌年の建保7(1219)年正月、近臣として仕えていた3代将軍・源実朝の死を悼んで出家しており、嘉禄3(1227)年11月29日には義景が秋田城介となっているから、同年より義景が当主の座にあったと考えて良いだろう。