六角時信
佐々木 時信(ささき ときのぶ、1306年~1346年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。のちの六角氏となる家系に生まれ、六角時信(ろっかく ー)とも呼ばれる。父は佐々木頼綱(六角頼綱)。
時信事 家記曰徳治元生 正和三十二十四元服九才 元徳元十一廿四使宣 同二三一従五下使如元 同八日春日行幸 同廿九日従五上橋渡賞春日行幸同橋行事淀浮橋爪被扣鳳輿 申刻 浮龍頭鷁首於河水伶人参向奏一曲于時大理権中納言右衛門督藤房卿等下馬行事廷尉時信 朱紼帯弓箭 剱進出植松前平伏折敷皮突膝大理直弓有礼節尋其例嘉禎四同行幸之時山階左大臣実雄公于時大理供奉下馬対橋行事官人大江能行有此礼云々被准彼例尤以為眉目也
正和3(1314)年12月14日に元服。時信の「信」は曽祖父の佐々木信綱に由来するものであろうから、「時」が烏帽子親からの偏諱と推測されるが、北条氏から通字を賜ったものであろう。これについては当時の得宗・北条高時からの一字拝領とみる向きもある*2が、14代執権就任前の高時から、しかも「高」でない方の字を与えられるという点でやや疑問も残る。或いは当時の12代執権・北条煕時の一字拝領を想定しても良いのかもしれない。
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ところで、父・頼綱とはかなり年齢差があり、頼綱64歳の時の子となる。それゆえに、実は頼綱の子・盛綱(孫三郎:『尊卑分脈』)の子で、祖父の養子という形で家督を継承したとする説もある*3。
盛綱について、「徳源院本 佐々木系図」*4では「成綱」とするが、その注記には永仁5(1297)年に誕生し、時信が生まれた翌年の徳治2(1307)年正月15日に12歳で元服(計算が合わないので徳治3年の誤りか?)したと書かれており、仮にこれが正しいとして、元服前で幼少の成綱の息子とするのは不可能である。同系図によると成綱は建武2(1335)年8月25日に討ち死に(享年30とするが計算が合わず誤りか?)するまで存命であったといい、この成綱(盛綱)を超越して時信が嫡男に指名されたことになる。
一方、『諸家系図纂』によると、成綱(孫三郎 左衛門尉)は兄・定信(宗信の誤記か)に同じく正応5(1292)年11月24日に富士川にて戦没した*5といい、時信が生まれる14年前には亡くなっていたことになる。
いずれにせよ、裏付けの史料も無いため、系図類によって孫三郎盛綱の息子と断定するのは不可能である。のちの史料で、建武元(1334)年8月付「雑訴決断所結番交名」*6および『東寺塔供養記』同年9月23日条*7に「佐々木備中大夫判官時信」とあり、通称名は父親が備中守であり、検非違使庁の尉(六位相当)でありながら五位に任ぜられた者*8を表すものであるが、これによっても、備中守であった頼綱の子である可能性が高いと判断される。
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父・頼綱が5代執権・北条時頼の邸宅で元服したことは『吾妻鏡』で確認でき*9、弘安2(1279)年4月15日に元服したという兄・宗信も当時の8代執権・北条時宗を烏帽子親とした形跡がある。
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時信は通称「三郎」を称したが、信綱の3男であった泰綱(時信の祖父)から頼綱、宗信と代々「三郎」の仮名を継承しており、正応5(1292)年に早世した宗信に代わって頼綱の後継者に定められていたことが窺えよう。
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尚、こちら▲の記事で紹介の通り、暦応元(1338)年11月15日に時信の嫡男・氏頼が足利尊氏の加冠によって元服したという記録では「佐々木六角近江守 従五位時信」と記されており*10、当時33歳で近江守在任であった可能性が高い。近江守は曽祖父・信綱にゆかりのある官職で、祖父・泰綱の国守任官年齢が28歳、父・頼綱のそれも20代後半~30代前半であったを踏まえると、時信も同じ年齢を迎える、前述の建武元年から間もない頃に近江守任官が認められたのではないかと推測される。
(参考ページ)
● 備中判官時信: 佐々木哲学校(佐々木哲氏のブログ記事)
脚注
*1:黒板勝美・国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.427。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.73、『大日本史料』5-11 P.797~798 も参照のこと。
*2:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.15系図・P.17。今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.54 表-57。