Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

宇都宮泰親

宇都宮 泰親(うつのみや やすちか、1220年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将、御家人。通称および官途は 五郎、左衛門尉、淡路守。呼び方は横田泰親とも。

父は宇都宮(上条)時綱。叔父・宇都宮(横田)頼業の養子。

 

吾妻鏡人名索引』*1によると、『吾妻鏡寛元4(1246)年7月11日条宇都宮五郎左衛門尉泰親」を初見とし、以降、弘長元(1261)年7月29日条まで「宇都宮五郎左衛門尉」と書かれていたものが、同年8月8日条からは「越中五郎左衛門尉」と表記が変化しており、弘長3(1263)年8月15日条越中五郎左衛門尉泰親」に至るまでの11箇所に登場する。

越中」とは父の官途=越中守に因むものであり、この頃のそれに該当する人物は「越中前司頼業*2と書かれた宇都宮(横田)頼業(宇都宮四郎左衛門尉、宇都宮大夫判官)であろう。『尊卑分脈』宇都宮氏系図でも越中頼業の長男に淡路守泰親の記載が見られる。但し、同系図には頼業の同母兄・宇都宮(上条)時綱の末子である淡路守の注記に「為頼業子」と叔父・頼業の養子になったことが書かれており、頼業の子にたまたま同じ淡路守になった、字が逆転しただけの「泰親」と「親泰」が別々にいたと考えるよりは、この二人が同一人物であったと考える方が現実的であろう。

<宇都宮氏周辺関係系図

北条時政義時泰時――時氏

     └女子     └女子―足利泰氏

        ||――女子

   稲毛重成   ||―――時綱泰親(頼業養子)

     宇都宮頼綱 └ 頼業―時業

        └――― 泰綱(母は時政の娘)

ここで着目したいのが、『吾妻鏡』初出の1246年当時、既に左衛門尉に任官済みであったということである。宇都宮氏近親者を例にその適齢を調べてみよう。

「横田系図」によると、養父・頼業は建治3(1277)年に83歳(数え年、以下同様)で亡くなったといい*3、逆算すると1195年生まれと分かる*4。『吾妻鏡』承久元(1219)年7月19日条「宇都宮四郎」として初出し、次の安貞2(1228)年7月23日条「宇都宮四郎左衛門尉」までに、25~34歳で左衛門尉に任ぜられたことが窺える。

もう一人の叔父・泰綱24歳までに修理亮の官職を得ていたことが分かっており*5、その子・景綱も正嘉2(1258)年~文応元(1260)年の間に24歳前後で左衛門尉に任官したことが判明している*6

よって、泰親も同様に24歳位の年齢で左衛門尉に任官した可能性が高く、その時期を初出の1246年の前半と仮定した場合、1223年頃の生まれと推定できる。生年がこれより下ることは無いだろう。

 

また、「宇都宮系図」によると祖父・頼綱は正元元(1259)年に88歳で亡くなったとあり*7、逆算すると1172年生まれとなる(82歳没で1178年生との説もあり)ので、各親子間の現実的な年齢差を考慮すると、子の時綱が早くとも1192年、孫の泰親が同じく1212年の生まれと推定できる。特に時綱は、前述の頼業の数年年長の兄となってほぼ妥当な推定と言えよう。

以上より、泰親の生年は1212年~1223年の間と推定可能である。『尊卑分脈』に泰親(親泰)の兄として長高、時村、時親が載せられているのを考慮して、1220年頃の生まれと推定しておくことにしよう。

 

そして、元服は通常10代前半で行われることが多かったから、「」の名は元服当時の執権・北条(在職期間:1224年~1242年)*8を烏帽子親とし、その偏諱を許されたものと判断される。

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.327「泰親 宇都宮」の項。

*2:吾妻鏡人名索引』P.415~416「頼業 宇都宮」の項。

*3:『下野国誌』9 (31ページ目)所収「横田系図」頼業 の注記より。

*4:ちなみにこの年の7月に頼業の祖母である稲毛女房が亡くなっている。

*5:宇都宮泰綱 - Henkipedia 参照。

*6:宇都宮経綱 - Henkipedia【表1】参照。

*7:『下野国誌』9 (6ページ目)所収「宇都宮系図」頼綱 の注記より。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。