宇都宮泰親
宇都宮 泰親(うつのみや やすちか、1220年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将、御家人。通称および官途は 五郎、左衛門尉、淡路守。呼び方は横田泰親とも。
『吾妻鏡人名索引』*1によると、『吾妻鏡』寛元4(1246)年7月11日条「宇都宮五郎左衛門尉泰親」を初見とし、以降、弘長元(1261)年7月29日条まで「宇都宮五郎左衛門尉」と書かれていたものが、同年8月8日条からは「越中五郎左衛門尉」と表記が変化しており、弘長3(1263)年8月15日条「越中五郎左衛門尉泰親」に至るまでの11箇所に登場する。
「越中」とは父の官途=越中守に因むものであり、この頃のそれに該当する人物は「越中前司頼業」*2と書かれた宇都宮(横田)頼業(宇都宮四郎左衛門尉、宇都宮大夫判官)であろう。『尊卑分脈』宇都宮氏系図でも越中守頼業の長男に淡路守泰親の記載が見られる。但し、同系図には頼業の同母兄・宇都宮(上条)時綱の末子である淡路守親泰の注記に「為頼業子」と叔父・頼業の養子になったことが書かれており、頼業の子にたまたま同じ淡路守になった、字が逆転しただけの「泰親」と「親泰」が別々にいたと考えるよりは、この二人が同一人物であったと考える方が現実的であろう。
ここで着目したいのが、『吾妻鏡』初出の1246年当時、既に左衛門尉に任官済みであったということである。宇都宮氏近親者を例にその適齢を調べてみよう。
「横田系図」によると、養父・頼業は建治3(1277)年に83歳(数え年、以下同様)で亡くなったといい*3、逆算すると1195年生まれと分かる*4。『吾妻鏡』承久元(1219)年7月19日条「宇都宮四郎」として初出し、次の安貞2(1228)年7月23日条「宇都宮四郎左衛門尉」までに、25~34歳で左衛門尉に任ぜられたことが窺える。
もう一人の叔父・泰綱は24歳までに修理亮の官職を得ていたことが分かっており*5、その子・景綱も正嘉2(1258)年~文応元(1260)年の間に24歳前後で左衛門尉に任官したことが判明している*6。
よって、泰親も同様に24歳位の年齢で左衛門尉に任官した可能性が高く、その時期を初出の1246年の前半と仮定した場合、1223年頃の生まれと推定できる。生年がこれより下ることは無いだろう。
また、「宇都宮系図」によると祖父・頼綱は正元元(1259)年に88歳で亡くなったとあり*7、逆算すると1172年生まれとなる(82歳没で1178年生との説もあり)ので、各親子間の現実的な年齢差を考慮すると、子の時綱が早くとも1192年、孫の泰親が同じく1212年の生まれと推定できる。特に時綱は、前述の頼業の数年年長の兄となってほぼ妥当な推定と言えよう。
以上より、泰親の生年は1212年~1223年の間と推定可能である。『尊卑分脈』に泰親(親泰)の兄として長高、時村、時親が載せられているのを考慮して、1220年頃の生まれと推定しておくことにしよう。
そして、元服は通常10代前半で行われることが多かったから、「泰親」の名は元服当時の執権・北条泰時(在職期間:1224年~1242年)*8を烏帽子親とし、その偏諱を許されたものと判断される。
脚注
*1:御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.327「泰親 宇都宮」の項。
*2:『吾妻鏡人名索引』P.415~416「頼業 宇都宮」の項。
*3:『下野国誌』9 (31ページ目)所収「横田系図」頼業 の注記より。
*4:ちなみにこの年の7月に頼業の祖母である稲毛女房が亡くなっている。
*5:宇都宮泰綱 - Henkipedia 参照。
*6:宇都宮経綱 - Henkipedia【表1】参照。
*7:『下野国誌』9 (6ページ目)所収「宇都宮系図」頼綱 の注記より。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。