Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

太田貞連

太田 貞連(おおた さだつら、生年不詳(1290年代)~1334年?)は、鎌倉~南北朝時代の幕府実務官僚。鎌倉幕府最後の問注所執事。通称は信濃左近大夫。三善氏の末裔で三善貞連(みよし ー)とも呼ばれる*1

 

<三善姓太田氏略系図

康信―康連―康有―時連―貞連―顕行

『萩藩閥閲録』巻30「椙杜伊織」所収の三善氏系譜 などを参考に作成。

 

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こちらの記事▲で述べた通り、父・太田時連については文永6(1269)年生まれと判明している。従ってその嫡男である貞連の生年は、現実的な親子の年齢差を考えて、1289年頃より後と推定される。

正和元(1312)年、父が配流となった(『元徳二年三月日吉社並叡山行幸記』)のに伴い、問注所執事を継承した(『武家年代記』同年条)が史料での初見である。但し時連の配流は延暦寺の要求に応じ収拾をはかるための一時的な処置だったようで、翌年には時連が問注所執事に復職している*2。やむを得ない事情で一時的に執事の継承を認められた貞連だったが、この段階では(時連の意向として)執事を任せるにはまだ早かったのではないかと思われる。その理由は年齢の若さや、それ故の政治的経験の浅さであろう。

とはいえ、父・時連も問注所執事への初回就任は15~17歳の時、前述の配流までの2回目が25歳からであった*3から、貞連も同様だったのではないか。3回目の執事として復帰した時連は、元亨元(1321)年に再度貞連に執事の座を譲った*4が、同年に貞連が25歳程度に達したからであろう。正和元年には16歳となり、前述の考察が裏付けられる。この場合、1297年頃の生まれとなる。

また、細川重男の研究によると、元徳2(1330)年3月、貞連の3男・時直(勘解由判官)が寺社京下奉行になったという*5。時連も15歳での問注所執事の初回就任時に勘解由判官であった*6から、同年の段階で時直も同じくらいの年齢には達していたと考えられ、仮に15歳とすると1315年生まれとなり、親子の年齢差や、時直が3男であることなどを踏まえるとその父である貞連が1290年前半の生まれであった可能性も出てくる。

 

いずれにせよ、生年が1290年代であることは確かであると認められよう。その裏付けになるのが「」の名乗りである。「連」は父・時連の1字を継承したものであるから、「」が烏帽子親からの一字拝領と考えられるが、当時の得宗であった北条 (家督: 1284年~1311年) 偏諱に間違いなかろう。 正安3(1301)年8月の貞時の執権辞職・剃髪*7に際し、時連は五番引付頭人を辞すのみで追随する形での出家を見送っている(のち1326年の北条高時の剃髪に追随して出家)*8が、恐らく貞連が元服前後の少年で、太田氏の家督を譲る状態ではなかった事情によるものと推測される。

 

貞連の実在を明確にする一級史料として、正中3(1326=嘉暦元)年3月のものとされる金沢貞顕(同月15代執権となるも間もなく出家して崇顕)の書状(『金沢文庫文書』)*9に「評定目六並硯役信濃左近大夫」とあり、同年のものとされる別の貞顕書状金沢文庫蔵『東寺御影供順礼作法裏文書』)*10の文中にも「信濃左近大夫貞連」とあって、問注所執事であった貞連が当時評定衆に加えられていたことが窺える。通称名は、父・時連が信濃(最終官途、同月に出家して信濃道道大)で、当時左近大夫(左近衛将監)*11であったことを表すものであり、20代半ばには達していたと考えられよう。

 

元弘3(1333)年、鎌倉幕府の滅亡に伴い問注所自体も消滅してしまったが、その後の建武政権下における四番制雑訴決断所において、二番衆に父「信乃入道 道大(=時連)、三番衆に「信乃左近大夫 貞連」がそれぞれ名を連ねている*12

ところが、これが史料上における貞連の終見らしく、建武元(1334)年8月の八番制雑訴決断所における六番衆の中に「信濃入道 道大」が名を連ねる*13のに対し、貞連の名が確認できない。のち1336年に足利尊氏が開いた室町幕府において道大(時連)が初代の問注所執事に任命されている*14こと、1341年には時連が2人の孫、太田顕行家督問注所執事を、太田時直に所領の一部を譲っている*15ことから、1333~34年の間に貞連は父に先立って亡くなったものと推測される*16

尚、父・時連の信濃守任官(30歳)もそうであったように、国守任官は30代で行われる例が多かったが、1333年において貞連は依然として

 

(参考ページ)

 太田貞連(おおた さだつら)とは - コトバンク

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№195-太田貞連 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)

 

脚注

*1:三善貞連(みよし さだつら)とは - コトバンク

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№194-太田時連 | 日本中世史を楽しむ♪、および 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№195-太田貞連 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№194-太田時連 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*4:前注に同じ。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№196-太田時直 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*6:注3に同じ。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*8:注3に同じ。

*9:金沢文庫古文書』374号。『鎌倉遺文』第38巻29390号。

*10:『鎌倉遺文』第38巻29391号。

*11:「左近大夫」は左近衛将監で五位に叙せられた者の呼称(→ 左近大夫(サコンノタイフ)とは - コトバンク 参照)。

*12:注2に同じ。典拠は「雑訴決断所結番交名」(『比志島文書』4 所収)

*13:注3に同じ。『大日本史料』6-1 P.756

*14:注3に同じ。『大日本史料』6-3 P.947

*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№194-太田時連 | 日本中世史を楽しむ♪ および、木下聡『室町幕府の外様衆と奉公衆』(同成社、2018年)第2部第4章「太田氏」P.313~326。

*16:太田時連 - Wikipedia より。