Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大仏貞直

北条 貞直(ほうじょう さだなお、1290年頃?~1333年)は、鎌倉時代末期の武将・御家人

大仏流北条宗泰の子で、大仏 貞直(おさらぎ さだなお)とも呼ばれる。

 

 

はじめに

新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その76-大仏貞直 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)*1によって主な活動経歴を示すと次の通りである。

 

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№76 大仏貞直(父:大仏宗泰、母:未詳)
  生年未詳
  従五位下(『佐野本北条系図』)
  右馬助(『佐野本北条系図』)
  式部大夫(『前田本平氏系図』)
  陸奥守(『前田本平氏系図』。『正宗寺本北条系図』。『佐野本北条系図』)
01:元亨2(1322).07.12 四番引付頭人
02:嘉暦2(1327).04.17 三番引付頭人
03:元徳2(1330).12.02 二番引付頭人
04:元弘3(1333).05.22 没
 [典拠]
父:『前田本平氏系図』。『正宗寺本北条系図』。『佐野本北条系図』。
01:鎌記・元亨2年条。
02:鎌記・嘉暦2年条。
03:鎌記・元徳2年条。
04:太平記・巻10「大仏貞直并金沢貞将討死事」。『正宗寺本北条系図』。『佐野本北条系図』。

 

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細川氏が述べられるように、得宗北条偏諱を受けていることが窺える。以下本項ではこれについての裏付けを行いながら、生年の推定を試みたいと思う。

 

大仏宗泰の子

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちら▲の記事で、父・宗泰の生年を1260年代後半と推定した。よって現実的な親子の年齢差を考えれば、貞直の生年は早くとも1280年代後半とすべきである。

 

 

史料紹介①(陸奥守任官以前)

最初に、貞直に関する史料を列挙していきたいと思う。

 

【史料1】文保元(1317)年12月15日付「大佛貞直書状写」(『秋田藩家蔵文書』49「小泉藤左衛門昌堅」所収)*2:発給者「貞なを」の署名と花押

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*タイトルに「大仏陸奥守貞直書」とあり、大仏貞直と考えられている。

 

【史料2】文保2(1318)年3月12日「大佛貞直書状」(中野忠太郎氏所蔵手鑑)*3

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*花押の一致から、【史料1】の「貞なを」と同人と見なせる。

 

【史料3】元亨3(1323)年10月21日「佐渡守護北条貞直御教書写」(『木村文書』)

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【史料4】(元亨3年)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』):同年10月27日の故・北条貞時13年忌供養において「左馬助殿」が銭100貫文を進上*4。この史料で「殿」と付けられるのは北条氏一門やそれに準ずる者足利貞氏・安達時顕など)に限られ、また同年であることから次の史料での「左馬助平朝臣」と同人とみなせる。

 

【史料5】元亨3年12月16日「佐渡守護北条貞直書下」(『西蓮寺文書』)*5

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後述【史料8】の花押と一致すること、前述の通り北条氏一門の可能性が高く平姓を称していることから、この左馬助は大仏貞直に比定される。

*尚、同年7月5日付「六波羅御教書案」(『大和薬師院文書』)の発給者について、『鎌倉遺文』*6では「左近将監」を大仏維貞、「陸奥守」を貞直に比定するが、以上より貞直はまだ陸奥守となる前の「左馬助」であったことが分かるので、正しくは「左近将監」=常葉範貞六波羅探題北方)*7、「陸奥守」=維貞六波羅探題南方)である。

 

【史料6】「鎌倉幕府評定衆等交名」根津美術館蔵『諸宗雑抄』紙背文書 第9紙)*8

相模左近大夫将監入道   刑部権大輔入道道鑒〔ママ*〕

城入道延明       山城入道行曉

出羽入道道薀        後藤信乃入道覺也

信乃入道道大        伊勢入道行意

長崎左衛門入道      同新左衛門尉高資

駿川守貞直

*:道準(法名)と親鑒(俗名)の混同による誤記か。

相模左近大夫将監(北条泰家)延明(安達時顕)行暁(二階堂行貞)覚也(後藤基胤)道大(太田時連)行意(二階堂忠貞)が出家後の通称で記載されていることから、彼らが正中3(1326=嘉暦元)年3月の北条高時剃髪に追随して出家した後に書かれたものであることは確実である。そしてこれは、行暁(行貞)が亡くなる嘉暦4(1329)年2月2日までに書かれた筈でもあるから、1326~1329年の間の史料と推定される。尚、1329年12月13日からは、正中2(1325)年越後守に昇進していた範貞駿河となっている*9

 

よってこの期間に出された以下の各史料での「駿河」も貞直に比定される。

 

【史料7】(正中3(1326)年3月)「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*10

愚老執権事、去十六日朝、以長崎新兵衛尉被仰下候之際、面目無極候。当日被始行評定候了。出仕人々、陸奥守・中務権少輔・刑部権大輔入道山城入道長崎新左衛門尉 以上東座、武蔵守駿河尾張前司 遅参・武蔵左近大夫将監・前讃岐権守後藤信濃入道 以上西座、評定目六并硯役信濃左近大夫孔子布施兵庫允、参否安東左衛門尉候き。奏事三ヶ条、神事・仏事・□〔乃貢の事、信濃左近大夫(以下欠)

【読み下し】愚老執権の事、去る十六日朝、長崎新兵衛の尉を以て仰せ下され候の際、面目極まり無く候、当日評定を始行せられ候いをはんぬ。出仕の人々……(以下略)

文中の「愚老」・「予」とは一人称*11、すなわち筆者である貞顕で、3月16日に長崎新兵衛尉(実名不詳、新左衛門尉高資の一族であろう)から15代執権就任の知らせを聞いた直後に書かれたものであることが分かり、【史料6】と照らし合わせても、評定への参加者の一人「駿河」は貞直に比定される。

 

【史料8】嘉暦2(1327)年10月8日「鎌倉幕府引付頭奉書」(『市河文書』):発給者「駿河」の署名と花押

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この「駿河」も時期の近さからし貞直に比定して良いだろう。そして、前述したように【史料5】の「左馬助平朝臣」が貞直に比定し得るのはこの花押と一致するためである。よって、1324~1325年頃に貞直が左馬助正六位下相当)*12から駿河従五位下相当)*13に昇進したことが分かる。

 

【史料9】(嘉暦4/元徳元(1329)年「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*14より

去月廿七日御返事、長州上野前司使下向之便、今日到来、委細承候了、

一. 道蘊使節事、大略落居、近日可被出御返事之旨、承候了、治定分、北山殿さたハ、可有御存知候、内々御尋候て、可示給候、

一. 為重朝臣上洛候て、申旨候者、有御対面、委可被聞候、

一. 駿州子息五郎高政官途事、未申候哉、聞書出来之時、可写給候、

一. 同人長崎左衛門入道招請事、致用意被請候之処、固辞候て不参候之間、周章之由承候、彼固辞候上者、城入道も不参候歟、又京都ニハ可有上洛之旨風聞之由…

(以下欠)

 

【史料10】(元徳元年12月22日「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*15

最中之由承候了、欠所無子細候歟、御在洛之間ニ、欠所注文ニ天て、相構々々可有御注進候、

一.高倉入道返状文箱一合、慥給候了

一.太守禅閤今度御出生若御前、去十二日佐々目へ已入御候了、有助僧正すちむかへニ、門弟坊ニをきまいらせ候て、女房達祇候之由承候、早速入御、不可然覚候、

奥州拝任以下聞書等給候了、奥州昨日持来候、道蘊子孫昇進、言語道断事候歟、あなかしく

 

 十二月廿二日 (切封墨引)元徳二正二、雑色帰洛便到、」

「 」内の記載から、この史料は前年=元徳元(1329)年のものと推定される。ここでいう「奥州」とは陸奥のことである。出家後の得宗の呼称である「太守禅閤」は北条高時法名:崇鑑)に比定され、高時が出家した正中3(1326=嘉暦元)年の10月まで従兄の大仏維貞陸奥守であった(10月10日修理大夫へ転任、翌2(1327)年9月7日に病死)から、陸奥守が大仏流の世襲となりつつあった中で、それより後に陸奥を「拝任*16」し得るのは、貞直と考えるほかない。既に「奥州(昨日持来候)」と呼ばれていることからすると、この書状が書かれる直前には陸奥守任官を済ませていたと考えられ、前述の通り同月13日には常葉範貞が後任の駿河守となっているから、恐らく貞直の転任も同日であろう。

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史料紹介②(陸奥守任官後)

以下、陸奥守任官後の貞直についての史料を掲げたい。

 

【史料11】「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*17

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥大仏貞直       河越参河入道貞重
 小山判官高朝       佐々木近江入道(貞氏)
 佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎(胤貞)
 武田三郎(政義)       小笠原彦五郎貞宗
 諏訪祝(時継?)         高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道(貞久)     長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉(宇都宮高房)  安保左衛門入道(道堪)
 加地左衛門入道(家貞)     吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助(金沢貞冬)      駿河八郎
 千葉介貞胤          長沼駿河権守(宗親)
 小田人々(高知?)          佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 伊東大和入道(祐宗)       宇佐美摂津前司貞祐
 薩摩常陸前司(伊東祐光?)     □野二郎左衛門尉
 湯浅人々           和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道(時見?)       遠江前司
 武田伊豆守(信貞?)       三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)       狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道(貞親)        信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫高氏      結城七郎左衛門尉(朝高)
 加藤丹後入道        加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道      美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参
 
【史料12】「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*18
大将軍
 陸奥大仏貞直遠江国       武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国
 遠江尾張国            武蔵左近大夫将監(北条時名)美濃国
 駿河左近大夫将監(甘縄時顕)讃岐国  足利宮内大輔(吉良貞家)三河国
 足利上総三郎吉良満義        千葉介貞胤一族并伊賀国
 長沼越前権守(秀行)淡路国         宇都宮三河権守貞宗伊予国
 佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 小笠原五郎(頼久)阿波国
 越衆御手信濃国            小山大夫判官高朝一族
 小田尾張権守(高知)一族         結城七郎左衛門尉(朝高)一族
 武田三郎(政義)一族并甲斐国       小笠原信濃入道(宗長)一族
 伊東大和入道(祐宗)一族         宇佐美摂津前司貞祐一族
 薩摩常陸前司(伊東祐光?)一族     安保左衛門入道(道堪)一族
 渋谷遠江権守(重光?)一族      河越参河入道貞重一族
 三浦若狭判官(時明)         高坂出羽権守(信重)
 佐々木隠岐前司清高一族      同備中前司(大原時重)
 千葉太郎(胤貞)

勢多橋警護
 佐々木近江前司(貞継?)       同佐渡大夫判官入道(京極導誉)

(*上記史料11・12ともに http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)

 

元弘元(1331)年、後醍醐天皇笠置山、その皇子・護良親王が吉野、楠木正成が下赤坂城にてそれぞれ倒幕の兵を挙げると、9月初頭、幕府側は討伐軍を差し向けることを決定(元弘の変)。上の史料A・Bはその幕府軍の名簿であり、4つの軍勢に分割・編成されたことが分かるが、青字で示した4人の大将軍のうち、「陸奥」については次の史料3点により貞直であることが確かめられる。

〔史料13〕『鎌倉年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』より)

今年元徳、…(中略)…八月…(略)…廿四日、主上(=後醍醐天皇竊出鳳闕、令寵笠置城給、仍九月二日、任承久例、可上洛之由被仰渡出、同五六七日、面々進発、大将軍、陸奥守貞直右馬助貞冬江馬越前入道足利治部大輔高氏、御内御使長崎四郎左衛門尉高貞、開東両使秋田城介高景出羽入道道蘊、此両使者践祚立坊事云々、此外諸國御家人上洛、圖合廿万八千騎、九月廿日、東宮受禅、同廿八日、笠置城破訖、先帝歩儀令出城給、於路次奉迎、十月三日遷幸六波羅南方、同日、於楠木城第一宮尊良親王奉虜、同廿一日、楠木落城訖、但楠木兵衛尉落行云々、十一月、討手人々幷両使下著、同月、長井右馬助高冬信濃入道々大、為使節上洛、為京方輩事沙汰也、同八日、以前坊邦良、第一宮康仁親王東宮、…(以下略)

 

〔史料14〕『武家年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』より)

元徳三年元弘元年

九月上旬、為対治山徒等、被差上陸奥守貞直足利治部大輔高氏以下之軍勢、其後先帝御座于笠置城云々、

 

〔史料15〕『保暦間記』より

……元弘元年九月、加様ノ不思議ナル折ヲ得テ、又勧申族有ケルニヤ、主上(=同上)俄ニ都ヲ出サセ玉ヒテ、笠置ト云山寺ニ籠ラセ玉ヒテ、武家ヲ亡サント御企アリ。此事関東ニ聞テ、陸奥守貞直 時房五代孫 宗泰、並、右馬助貞将〔ママ〕貞顕子、彼等ヲ大将トシテ、数万騎ノ軍勢ヲ差上。……

 

以後、貞直による発給文書が2点確認されている。

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【左】元徳3(1331)年4月7日「関東下知状」継目裏(『高野山文書』)の花押

【右】元徳4(1332)年4月18日「熱田太神官開闔職補任状」(『千秋文書』)の花押

 

 

ここで確認したいのが、大仏流北条氏における国守任官の年齢である。

細川氏のまとめによると、大仏流嫡流では宣時が30歳の叙爵と同時に武蔵守、宗宣が43歳で陸奥守と一旦は高年齢化するが、維貞が30歳で陸奥守となって低年齢化している*19。宗宣の弟・貞房は35歳で越前守任官を果たしており、大仏流の国守任官年齢は30代であったと考えて良いだろう*20。従って、上記史料A~E当時の貞直30代には達していたと推測される

 

 

従って、1329年に30歳(数え年)での任官とした場合1300年生まれとなり、これより極端に後になることは考えにくい。しかも宗泰が嘉元3(1305)年に亡くなるまでには生まれているはずである。

 

但し、大仏流庶子にして越前守任官を果たした叔父・貞房の年齢が35歳であったことを参考にすれば、1290年頃とするのがより良いのではないか。北条時が執権辞職・出家した正安3(1301)年にはちょうど元服の適齢を迎え、その頃に偏諱を賜ったと判断される。「直」は祖先・朝直に由来するものであろう。

 

参考ページ

 北条貞直 - Wikipedia

 大仏貞直(おさらぎさだなお)とは - コトバンク

 南北朝列伝 ― 大仏貞直 

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.76「大仏貞直」の項と同内容。

*2:秋田藩家蔵文書 49 城下諸士文書巻10 | 秋田県公文書館 76ページ目。『鎌倉遺文』第34巻26468号。

*3:『鎌倉遺文』第34巻26583号。

*4:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.708。

*5:『鎌倉遺文』第37巻28615号。

*6:『鎌倉遺文』第37巻28450号。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その34-常葉範貞 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*8:田中稔「根津美術館所蔵 諸宗雑抄紙背文書(抄)」(所収:『奈良国立文化財研究所年報』1974年号、奈良国立文化財研究所)P.8。

*9:注7同箇所 より。

*10:『鎌倉遺文』第38巻29390号。『金沢文庫古文書』374号。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.319、年代記嘉暦元年 にも掲載あり。

*11:愚老(グロウ)とは - コトバンク より。

*12:左馬助(サマノスケ)とは - コトバンク より。

*13:駿河国 - Wikipedia より。

*14:『鎌倉遺文』第39巻30702号。『金沢文庫古文書』688号(武将編P.126 391号)。

*15:『鎌倉遺文』第39巻30831号。

*16:拝任(ハイニン)とは - コトバンク 参照。

*17:『鎌倉遺文』第41巻32135号。

*18:『鎌倉遺文』第41巻32136号。

*19:注1前掲細川氏著書 P.36。

*20:宗宣の場合は、武蔵守より転任した父・宣時が得宗北条貞時に追随して出家したのを受けての陸奥守任官であったためタイミングが遅れただけであり、細川氏が「当時の鎌倉政権の家格尊重主義を示す事例」(前注同箇所)とされるように、むしろ宣時―宗宣―維貞3代に亘って同じ国守任官を認められたことこそ評価すべきであろう。従って宗宣は大仏流の国守任官年齢を考える上で例外とみなして良いと思う。